10月25日(日):
214ページ 所要時間 4:15 アマゾン258円(1+257)
著者46歳(1949生まれ)。栃木県。直木賞(1994)作家。
俺は以前、「0033 山内昌之「嫉妬の世界史」(新潮新書;2004) 感想5」で、下のように記した。
嫉妬という視点から見ると如何なる英雄・偉人・独裁者・有名人も、皆歴史上、他者から受ける嫉妬の炎から逃れることができない。「歴史の陰に女あり」ではなく、まさに「歴史の陰に嫉妬あり!」である。
そして、さんざんそういう「嫉妬」の世界史を論じ尽くした挙句の果ての最後に、真っ直ぐに生きて、しかも誰からも「嫉妬」されなかった人物を一人だけ挙げて本書は締め括られる。その男が意外や意外、日本史上の人物だった! 即ち、会津藩藩祖の保科正之である。著者は保科正之の来歴と善政について詳述・称揚した上で、最後に古代ギリシアの直接民主政治の大成者ペリクレスと並べ讃えて筆を擱く。
世界史に燦然たる民主政治家ペリクレスと並べて、<世界史上の一級の人物>として保科正之だけを挙げるとは、あざと過ぎるではないか! 折しも、大河ドラマ「八重の桜」松平容保公に京都守護職という超貧乏くじを引かしめた会津藩「家訓(かきん)」を制定したのが、藩祖保科正之公である。「そんなにすごい政治家だったんだ!」といやが上にも関心が高まってしまったのである。
また、「131217 BS歴史館「日本を変えたリーダーたち 会津藩主 保科正之」録画を観た。」でも、下のように記している。
BS歴史館「日本を変えたリーダーたち 会津藩主 保科正之」を観た。既知のつもりだったが、これほどの優れた人物・政治家だったとは知らなかった。ドイツのビスマルクよりも200年早く、社会保険制度を確立し会津の民を安心させた。保科正之は世界史的に見ても、特筆すべき人物である。日本史でも最高峰の政治家の一人である。にもかかわらず、彼の認知度・理解度は日本人の間で皆無に近いのはなぜか。明治政府において薩長藩閥から見て、最後まで徳川に忠義を貫いた会津の藩祖が超一流政治家であってはいけなかったのだ。
保科正之の認知度の低さは、我々の日本史がいまだに幕末の官軍・賊軍の歪んだ視点が残っていると言うことだ。磯田道史先生の解説は素晴らしいが、本番組での磯田氏の語りは出色である。それほどに保科正之が魅力的だということなのだ。
BS歴史館は、どれも面白いが、「保科正之」編は出色の出来映えだ!
それ以来、保科正之は、俺の中で必ず通過せねばならない最重要人物であった。今回、本書をアマゾンで入手したのも、数日前に上記のBS歴史観の録画を久しぶりに見たことによるのだ。そして、本書を読んでみて、本書が放送内容のテキストになっていることを確認できた。
本書は、<義憤の書>であり、日本史上稀にみる傑出した政治家である保科正之を知る<最良のテキスト>である。保科正之がいなければ、あるいは江戸幕府は4代で潰えていたかもしれない。また、のちの8代将軍吉宗や松平定信が強く尊敬し、範とした改革政治の先駆者である。江戸時代の名君として、よく上杉鷹山が取り上げられるが、鷹山が県知事クラスとすれば、保科正之は県知事兼総理大臣クラスの名君であり、鷹山とはスケールが違うのだ。それほど大きく優れた人物である”保科正之”の存在を薩長中心史観によってこれほど見事に無視し続けてきた日本史学会の不当性に対して、著者は怒りを込めて警鐘を鳴らしているのだ。
本書では、保科正之の徳川宗家第一主義、足るを知る無私の精神、先見性(早すぎた?!)、慧眼、花も実もある徳治の精神による政治の数々がわかりやすく紹介されている。それらの優れた政策によって、会津藩が江戸時代他藩を抜きんでる豊かな藩となったこと。著者は、小説家が本業のためか、読み手を意識したわかりやすい書き方をしていると思う。
これほどの人物がいまだに、吉川弘文館の人物叢書にも取り上げられていないのだ。俺が所持している江戸時代の本の中でも、「名君」との断り書きはあるが、ほとんど無視されている。ウィキペディアで関連書籍を調べても、伝記文献6冊のうち、本書を含めて著者の本が4冊を占める。これは、やはり異常なことだろう。
【目次】 第1章 家光の異母弟として(正之の出自/家光の忠長への怨情 ほか)/第2章 将軍家綱の輔弼役(「託孤の遺命」/慶安事件 ほか)/第3章 高遠・山形・会津の藩政(江戸にあって藩政をおこなう/保科家の家臣団 ほか)/第4章 その私生活(秘されていた正之の出生/正之の妻と子 ほか)
紹介文:徳川秀忠の子でありながら、庶子ゆえに嫉妬深い正室於江与の方を怖れて不遇を託っていた正之は、異腹の兄家光に見出されるや、その全幅の信頼を得て、徳川将軍輔弼役として幕府経営を真摯に精励、武断政治から文治主義政治への切換えの立役をつとめた。一方、自藩の支配は優れた人材を登用して領民の生活安定に意を尽くし、藩士にはのちに会津士魂と称される精神教育に力を注ぐ。明治以降、闇に隠された名君の事績を掘り起こす。
家訓15か条 全文
一、大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず。
若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず 面々決して従うべからず。
一、武備はおこたるべからず。士を選ぶを本とすべし 上下の分を乱るべからず
一、兄をうやまい、弟を愛すべし
一、婦人女子の言 一切聞くべからず
一、主をおもんじ、法を畏るべし
一、家中は風儀をはげむべし
一、賄(まかない)をおこない 媚(こび)を もとむべからず
一、面々 依怙贔屓(えこひいいき)すべからず
一、士をえらぶには便辟便侫(こびへつらって人の機嫌をとるもの
口先がうまくて誠意がない)の者をとるべからず
一、賞罰は 家老のほか これに参加すべからず
もし位を出ずる者あらば これを厳格にすべし。
一、近侍の もの をして 人の善悪を 告げしむ べからず。
一、政事は利害を持って道理をまぐるべからず。
評議は私意をはさみ人言を拒ぐべらず。
思うところを蔵せずもってこれを争うそうべし
はなはだ相争うといえども我意をかいすべからず
一、法を犯すものは ゆるす べからず
一、社倉は民のためにこれをおく永利のためのものなり
歳餓えればすなわち発出してこれを救うべしこれを他用すべからず
一、若し志をうしない
遊楽をこのみ 馳奢をいたし 土民をしてその所を失わしめば
すなわち何の面目あって封印を戴き土地を領せんや必ず上表蟄居すべし
右15件の旨 堅くこれを相守り以往もって同職の者に申し伝うべきものなり
寛文8年戊申4月11日
214ページ 所要時間 4:15 アマゾン258円(1+257)
著者46歳(1949生まれ)。栃木県。直木賞(1994)作家。
俺は以前、「0033 山内昌之「嫉妬の世界史」(新潮新書;2004) 感想5」で、下のように記した。
嫉妬という視点から見ると如何なる英雄・偉人・独裁者・有名人も、皆歴史上、他者から受ける嫉妬の炎から逃れることができない。「歴史の陰に女あり」ではなく、まさに「歴史の陰に嫉妬あり!」である。
そして、さんざんそういう「嫉妬」の世界史を論じ尽くした挙句の果ての最後に、真っ直ぐに生きて、しかも誰からも「嫉妬」されなかった人物を一人だけ挙げて本書は締め括られる。その男が意外や意外、日本史上の人物だった! 即ち、会津藩藩祖の保科正之である。著者は保科正之の来歴と善政について詳述・称揚した上で、最後に古代ギリシアの直接民主政治の大成者ペリクレスと並べ讃えて筆を擱く。
世界史に燦然たる民主政治家ペリクレスと並べて、<世界史上の一級の人物>として保科正之だけを挙げるとは、あざと過ぎるではないか! 折しも、大河ドラマ「八重の桜」松平容保公に京都守護職という超貧乏くじを引かしめた会津藩「家訓(かきん)」を制定したのが、藩祖保科正之公である。「そんなにすごい政治家だったんだ!」といやが上にも関心が高まってしまったのである。
また、「131217 BS歴史館「日本を変えたリーダーたち 会津藩主 保科正之」録画を観た。」でも、下のように記している。
BS歴史館「日本を変えたリーダーたち 会津藩主 保科正之」を観た。既知のつもりだったが、これほどの優れた人物・政治家だったとは知らなかった。ドイツのビスマルクよりも200年早く、社会保険制度を確立し会津の民を安心させた。保科正之は世界史的に見ても、特筆すべき人物である。日本史でも最高峰の政治家の一人である。にもかかわらず、彼の認知度・理解度は日本人の間で皆無に近いのはなぜか。明治政府において薩長藩閥から見て、最後まで徳川に忠義を貫いた会津の藩祖が超一流政治家であってはいけなかったのだ。
保科正之の認知度の低さは、我々の日本史がいまだに幕末の官軍・賊軍の歪んだ視点が残っていると言うことだ。磯田道史先生の解説は素晴らしいが、本番組での磯田氏の語りは出色である。それほどに保科正之が魅力的だということなのだ。
BS歴史館は、どれも面白いが、「保科正之」編は出色の出来映えだ!
それ以来、保科正之は、俺の中で必ず通過せねばならない最重要人物であった。今回、本書をアマゾンで入手したのも、数日前に上記のBS歴史観の録画を久しぶりに見たことによるのだ。そして、本書を読んでみて、本書が放送内容のテキストになっていることを確認できた。
本書は、<義憤の書>であり、日本史上稀にみる傑出した政治家である保科正之を知る<最良のテキスト>である。保科正之がいなければ、あるいは江戸幕府は4代で潰えていたかもしれない。また、のちの8代将軍吉宗や松平定信が強く尊敬し、範とした改革政治の先駆者である。江戸時代の名君として、よく上杉鷹山が取り上げられるが、鷹山が県知事クラスとすれば、保科正之は県知事兼総理大臣クラスの名君であり、鷹山とはスケールが違うのだ。それほど大きく優れた人物である”保科正之”の存在を薩長中心史観によってこれほど見事に無視し続けてきた日本史学会の不当性に対して、著者は怒りを込めて警鐘を鳴らしているのだ。
本書では、保科正之の徳川宗家第一主義、足るを知る無私の精神、先見性(早すぎた?!)、慧眼、花も実もある徳治の精神による政治の数々がわかりやすく紹介されている。それらの優れた政策によって、会津藩が江戸時代他藩を抜きんでる豊かな藩となったこと。著者は、小説家が本業のためか、読み手を意識したわかりやすい書き方をしていると思う。
これほどの人物がいまだに、吉川弘文館の人物叢書にも取り上げられていないのだ。俺が所持している江戸時代の本の中でも、「名君」との断り書きはあるが、ほとんど無視されている。ウィキペディアで関連書籍を調べても、伝記文献6冊のうち、本書を含めて著者の本が4冊を占める。これは、やはり異常なことだろう。
【目次】 第1章 家光の異母弟として(正之の出自/家光の忠長への怨情 ほか)/第2章 将軍家綱の輔弼役(「託孤の遺命」/慶安事件 ほか)/第3章 高遠・山形・会津の藩政(江戸にあって藩政をおこなう/保科家の家臣団 ほか)/第4章 その私生活(秘されていた正之の出生/正之の妻と子 ほか)
紹介文:徳川秀忠の子でありながら、庶子ゆえに嫉妬深い正室於江与の方を怖れて不遇を託っていた正之は、異腹の兄家光に見出されるや、その全幅の信頼を得て、徳川将軍輔弼役として幕府経営を真摯に精励、武断政治から文治主義政治への切換えの立役をつとめた。一方、自藩の支配は優れた人材を登用して領民の生活安定に意を尽くし、藩士にはのちに会津士魂と称される精神教育に力を注ぐ。明治以降、闇に隠された名君の事績を掘り起こす。
家訓15か条 全文
一、大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず。
若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず 面々決して従うべからず。
一、武備はおこたるべからず。士を選ぶを本とすべし 上下の分を乱るべからず
一、兄をうやまい、弟を愛すべし
一、婦人女子の言 一切聞くべからず
一、主をおもんじ、法を畏るべし
一、家中は風儀をはげむべし
一、賄(まかない)をおこない 媚(こび)を もとむべからず
一、面々 依怙贔屓(えこひいいき)すべからず
一、士をえらぶには便辟便侫(こびへつらって人の機嫌をとるもの
口先がうまくて誠意がない)の者をとるべからず
一、賞罰は 家老のほか これに参加すべからず
もし位を出ずる者あらば これを厳格にすべし。
一、近侍の もの をして 人の善悪を 告げしむ べからず。
一、政事は利害を持って道理をまぐるべからず。
評議は私意をはさみ人言を拒ぐべらず。
思うところを蔵せずもってこれを争うそうべし
はなはだ相争うといえども我意をかいすべからず
一、法を犯すものは ゆるす べからず
一、社倉は民のためにこれをおく永利のためのものなり
歳餓えればすなわち発出してこれを救うべしこれを他用すべからず
一、若し志をうしない
遊楽をこのみ 馳奢をいたし 土民をしてその所を失わしめば
すなわち何の面目あって封印を戴き土地を領せんや必ず上表蟄居すべし
右15件の旨 堅くこれを相守り以往もって同職の者に申し伝うべきものなり
寛文8年戊申4月11日