5月2日(土):
立憲主義の危機だ! 池上彰が安倍首相の憲法軽視と自民党の改憲草案をぶった斬り
http://lite-ra.com/2015/05/post-1067.html リテラ 2015.05.02.
明日5月3日は憲法記念日。そんななか、自民党の憲法改正推進本部が発表したマンガ「ほのぼの一家の憲法改正ってなぁに?」が物議を醸している。
物語は、憲法記念日に家で団欒する一家の様子からスタート。なぜか話題は現行憲法の話となるのだが、するとおじいちゃんが突然、“現行憲法はアメリカの押し付け憲法だ”と怒りをたぎらせはじめる。そして、このような説教を展開するのだ。
「戦争を放棄さえすれば戦争がないと思っとるのか?」
「敗戦した日本にGHQが与えた憲法のままでは いつまで経っても日本は敗戦国なんじゃ」
ほのぼのとした絵柄と相反する、おじいちゃんの強迫的な台詞の数々。しかしこのマンガには触れられていない、自民党が考える肝心の改憲内容がある。
その点にまで突っ込んで憲法について考えているのが、池上彰氏の新刊『超訳 日本国憲法』(新潮新書)だ。この本では、池上氏が現行憲法をわかりやすく超訳している。さっそく、憲法改正の焦点となっている第九条の池上訳を見てみよう。と、その前に、まずは現行の憲法第九条を確認してみたい。
《日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。》
そもそも、この第九条について歴代の政府によって違う解釈が行われてきたのは、昭和21年(1946)年当時、自由党の芦田均委員長が第九条二項の冒頭に「前項の目的を達するため」という文言を挿入したことだ。草案が提出されたとき、吉田茂首相は「自衛権まで含めての戦争放棄を考えて」いた。しかし、芦田修正によって「自衛権は認められることになった」とも解釈することが可能になった。
そのため池上氏は、第九条の超訳にあたり、2パターンを用意。「すべての戦争を放棄した」と解釈するバージョンと、政府の「自衛権は保持した」と解釈したバージョンだ。
◎すべての戦争放棄バージョン
《日本国民は、正義が守られ、混乱しない国際社会を実現することを誠実に強く求め、あらゆる戦争を放棄する。国際紛争を解決する手段として、武力を使って脅すことや武力を使うこともしない。
② 武力は使わないと宣言したのだから、陸軍も海軍も空軍も、その他の戦力も持たない。国が他国と戦争する権利は認めない》
◎政府の「自衛権は保持した」バージョン
《日本国民は、正義が守られ、混乱しない国際社会を実現することを誠実に強く求め、侵略戦争を放棄する。武力を使って脅すことや武力を使うことは、国際紛争を解決する手段としては放棄する。しかし、自衛権まで放棄したわけではない。
② 侵略戦争や国際紛争を解決するための武力による脅し、武力行使はしないので、そのための陸軍や海軍や空軍や、その他の戦力も持たない。国が他国と戦争する権利は認めない。だが、自衛のための力を持つことまでは否定しない》
この、後者の解釈によって自衛隊が生まれたわけだが、自衛隊は憲法違反ではないのかという議論はずっとつづいてきた。しかし、そうしたこともすっ飛ばしたのが、自民党が2012年に発表した改正草案だ。
この改正草案のなかで自民党は、第二項の冒頭を「前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない」と変更して第一項を骨抜きにし、さらには「第九条の二」なるものまで新設している。ここでは《内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する》ことや《国防軍の組織、統制及び機密の保持に関する事項は、法律で定める》こと、国防軍の軍人や公務員が罪を犯した場合の裁判を行うため《国防軍に裁判所を置く》ことなどを明記している。
平和主義と謳われた現行憲法のかけらさえ見当たらない、自民党による改正草案。もちろん、前述した自民党マンガでも、「国を守る「自衛隊」とそれを行使する軍隊を管理する規定はやはり憲法の中で明確にしていた方が望ましいのじゃよ」とさらっと流し、草案にあるような物騒さを打ち消している。池上氏はこの改正草案について、こう解説する。
「国防軍が米軍と一緒になって海外で戦闘に参加することが可能になります。戦前には軍人を裁く軍法会議がありましたが、その現代版も創設されます」
しかし問題は、この空恐ろしい改正草案が一体どれほど国民のあいだで周知されているのか、ということ。池上氏も、このようにツッコミを入れている。
「自民党は、この草案を作ったのですから、第九十六条の改正より、この草案の支持を広げればいいのにと私は思うのですが」
もちろん、自民党がこの草案を前面に押し出さないのは、あまりに物々しい言葉が並びすぎているからだろう。 「国民の本当の思いはどこにあるのか。いまこそ国民的議論が必要なのです」と池上氏は述べるが、それ以前に、安倍政権はもっと、どんな憲法に改正する気なのかをオープンにするべきだ。
だが、肝心なことはひた隠しにしてきたのが安倍政権の歩みでもある。たとえば池上氏は、安倍首相による「集団的自衛権の必要性を強調する記者会見」で「日本人母子を保護した米軍の艦隊が攻撃された場合、自衛隊は米軍の艦隊を守るべきだと主張」した発言を、このように解説する。
「ところが、アメリカ国務省領事局のウェブサイトを見ると、「緊急時にアメリカが救出できるのは米国籍の市民を最優先する」と書いてあります。さらに「市民救出のために米軍が出動するというのは、ハリウッドの台本だ」とも。つまり、安倍首相が例に挙げた「米軍が日本人の母子を救出」というのは、二重にありえない設定なのです」
そして池上氏は「感情論に訴えて自己の主張を通そうとする。よくある手法ですね」とバッサリと切り捨てている。
だいたい、昨年12月に行われた衆院選では、安倍首相はアベノミクスを焦点とし、憲法改正についてはお茶を濁していた。そこに切り込んだのが池上氏で、『池上彰の総選挙ライブ』(テレビ東京系)にて「憲法改正に向けて、一歩一歩進んでいくということですね?」と質問すると、安倍首相は「その通りです」と回答。その後はあたかも選挙の焦点が改憲だったかのように、憲法改正へ積極的に舵取りをはじめた。これでは有権者に対するペテンそのものだ。
こうした安倍政権の傍若無人ぶりのみならず、池上氏が危惧するのは、「憲法を守る」ということ自体が「政治的発言」になってしまっている現状である。
たとえば、天皇による先の戦争に対する反省と「平和と民主主義を、守るべき大切なもの」という至極真っ当な発言すら政治的発言だと批判を浴びた。これに対して池上氏は「天皇は憲法を守る義務があることが憲法に定められています。天皇陛下は、この憲法擁護義務を確認されただけ、とも受け取れるのですが」と述べる。
また、「憲法九条を守ろう」と集会を開こうとしただけで、公共施設が「政治的な主張の集会には会場は貸せない」としていることも池上氏は強く批判する。
「「憲法を守ろう」という主張が、「公民館の考えだと誤解されてしまう可能性がある」とは、よくも言ったり、です。公務員には、「憲法を守る」ことが義務づけられているのに、です」
池上氏が強調するのは、「日本国憲法は立憲主義にもとづいている」ということ。立憲主義とは、「権力を持たない人びとが、権力者に「憲法を守れ」と命令すること」だ。他方、安倍首相は「私が政治の最高責任者。私が決めることができる。反対なら、次の選挙で政権交代させればいい」と言って憚らない。
「権力者が勝手なことができないように、国民が憲法で縛る=制約をかける。これが近代の「立憲主義」の考え方なのに、安倍首相は「自分は権力者だから何でもできる」と言っているというわけです」
この状態を池上氏は「民主主義のジレンマ」というが、もはや安倍首相の態度は民主主義を否定する、権力の暴走といっていいものだ。安倍政権がほのぼのマンガの裏に隠すほんとうの狙い、そして憲法のあり方について、この機会に考えてみてほしいと思う。(水井多賀子)
立憲主義の危機だ! 池上彰が安倍首相の憲法軽視と自民党の改憲草案をぶった斬り
http://lite-ra.com/2015/05/post-1067.html リテラ 2015.05.02.
明日5月3日は憲法記念日。そんななか、自民党の憲法改正推進本部が発表したマンガ「ほのぼの一家の憲法改正ってなぁに?」が物議を醸している。
物語は、憲法記念日に家で団欒する一家の様子からスタート。なぜか話題は現行憲法の話となるのだが、するとおじいちゃんが突然、“現行憲法はアメリカの押し付け憲法だ”と怒りをたぎらせはじめる。そして、このような説教を展開するのだ。
「戦争を放棄さえすれば戦争がないと思っとるのか?」
「敗戦した日本にGHQが与えた憲法のままでは いつまで経っても日本は敗戦国なんじゃ」
ほのぼのとした絵柄と相反する、おじいちゃんの強迫的な台詞の数々。しかしこのマンガには触れられていない、自民党が考える肝心の改憲内容がある。
その点にまで突っ込んで憲法について考えているのが、池上彰氏の新刊『超訳 日本国憲法』(新潮新書)だ。この本では、池上氏が現行憲法をわかりやすく超訳している。さっそく、憲法改正の焦点となっている第九条の池上訳を見てみよう。と、その前に、まずは現行の憲法第九条を確認してみたい。
《日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。》
そもそも、この第九条について歴代の政府によって違う解釈が行われてきたのは、昭和21年(1946)年当時、自由党の芦田均委員長が第九条二項の冒頭に「前項の目的を達するため」という文言を挿入したことだ。草案が提出されたとき、吉田茂首相は「自衛権まで含めての戦争放棄を考えて」いた。しかし、芦田修正によって「自衛権は認められることになった」とも解釈することが可能になった。
そのため池上氏は、第九条の超訳にあたり、2パターンを用意。「すべての戦争を放棄した」と解釈するバージョンと、政府の「自衛権は保持した」と解釈したバージョンだ。
◎すべての戦争放棄バージョン
《日本国民は、正義が守られ、混乱しない国際社会を実現することを誠実に強く求め、あらゆる戦争を放棄する。国際紛争を解決する手段として、武力を使って脅すことや武力を使うこともしない。
② 武力は使わないと宣言したのだから、陸軍も海軍も空軍も、その他の戦力も持たない。国が他国と戦争する権利は認めない》
◎政府の「自衛権は保持した」バージョン
《日本国民は、正義が守られ、混乱しない国際社会を実現することを誠実に強く求め、侵略戦争を放棄する。武力を使って脅すことや武力を使うことは、国際紛争を解決する手段としては放棄する。しかし、自衛権まで放棄したわけではない。
② 侵略戦争や国際紛争を解決するための武力による脅し、武力行使はしないので、そのための陸軍や海軍や空軍や、その他の戦力も持たない。国が他国と戦争する権利は認めない。だが、自衛のための力を持つことまでは否定しない》
この、後者の解釈によって自衛隊が生まれたわけだが、自衛隊は憲法違反ではないのかという議論はずっとつづいてきた。しかし、そうしたこともすっ飛ばしたのが、自民党が2012年に発表した改正草案だ。
この改正草案のなかで自民党は、第二項の冒頭を「前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない」と変更して第一項を骨抜きにし、さらには「第九条の二」なるものまで新設している。ここでは《内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する》ことや《国防軍の組織、統制及び機密の保持に関する事項は、法律で定める》こと、国防軍の軍人や公務員が罪を犯した場合の裁判を行うため《国防軍に裁判所を置く》ことなどを明記している。
平和主義と謳われた現行憲法のかけらさえ見当たらない、自民党による改正草案。もちろん、前述した自民党マンガでも、「国を守る「自衛隊」とそれを行使する軍隊を管理する規定はやはり憲法の中で明確にしていた方が望ましいのじゃよ」とさらっと流し、草案にあるような物騒さを打ち消している。池上氏はこの改正草案について、こう解説する。
「国防軍が米軍と一緒になって海外で戦闘に参加することが可能になります。戦前には軍人を裁く軍法会議がありましたが、その現代版も創設されます」
しかし問題は、この空恐ろしい改正草案が一体どれほど国民のあいだで周知されているのか、ということ。池上氏も、このようにツッコミを入れている。
「自民党は、この草案を作ったのですから、第九十六条の改正より、この草案の支持を広げればいいのにと私は思うのですが」
もちろん、自民党がこの草案を前面に押し出さないのは、あまりに物々しい言葉が並びすぎているからだろう。 「国民の本当の思いはどこにあるのか。いまこそ国民的議論が必要なのです」と池上氏は述べるが、それ以前に、安倍政権はもっと、どんな憲法に改正する気なのかをオープンにするべきだ。
だが、肝心なことはひた隠しにしてきたのが安倍政権の歩みでもある。たとえば池上氏は、安倍首相による「集団的自衛権の必要性を強調する記者会見」で「日本人母子を保護した米軍の艦隊が攻撃された場合、自衛隊は米軍の艦隊を守るべきだと主張」した発言を、このように解説する。
「ところが、アメリカ国務省領事局のウェブサイトを見ると、「緊急時にアメリカが救出できるのは米国籍の市民を最優先する」と書いてあります。さらに「市民救出のために米軍が出動するというのは、ハリウッドの台本だ」とも。つまり、安倍首相が例に挙げた「米軍が日本人の母子を救出」というのは、二重にありえない設定なのです」
そして池上氏は「感情論に訴えて自己の主張を通そうとする。よくある手法ですね」とバッサリと切り捨てている。
だいたい、昨年12月に行われた衆院選では、安倍首相はアベノミクスを焦点とし、憲法改正についてはお茶を濁していた。そこに切り込んだのが池上氏で、『池上彰の総選挙ライブ』(テレビ東京系)にて「憲法改正に向けて、一歩一歩進んでいくということですね?」と質問すると、安倍首相は「その通りです」と回答。その後はあたかも選挙の焦点が改憲だったかのように、憲法改正へ積極的に舵取りをはじめた。これでは有権者に対するペテンそのものだ。
こうした安倍政権の傍若無人ぶりのみならず、池上氏が危惧するのは、「憲法を守る」ということ自体が「政治的発言」になってしまっている現状である。
たとえば、天皇による先の戦争に対する反省と「平和と民主主義を、守るべき大切なもの」という至極真っ当な発言すら政治的発言だと批判を浴びた。これに対して池上氏は「天皇は憲法を守る義務があることが憲法に定められています。天皇陛下は、この憲法擁護義務を確認されただけ、とも受け取れるのですが」と述べる。
また、「憲法九条を守ろう」と集会を開こうとしただけで、公共施設が「政治的な主張の集会には会場は貸せない」としていることも池上氏は強く批判する。
「「憲法を守ろう」という主張が、「公民館の考えだと誤解されてしまう可能性がある」とは、よくも言ったり、です。公務員には、「憲法を守る」ことが義務づけられているのに、です」
池上氏が強調するのは、「日本国憲法は立憲主義にもとづいている」ということ。立憲主義とは、「権力を持たない人びとが、権力者に「憲法を守れ」と命令すること」だ。他方、安倍首相は「私が政治の最高責任者。私が決めることができる。反対なら、次の選挙で政権交代させればいい」と言って憚らない。
「権力者が勝手なことができないように、国民が憲法で縛る=制約をかける。これが近代の「立憲主義」の考え方なのに、安倍首相は「自分は権力者だから何でもできる」と言っているというわけです」
この状態を池上氏は「民主主義のジレンマ」というが、もはや安倍首相の態度は民主主義を否定する、権力の暴走といっていいものだ。安倍政権がほのぼのマンガの裏に隠すほんとうの狙い、そして憲法のあり方について、この機会に考えてみてほしいと思う。(水井多賀子)