もみさんの一日一冊遊書録( 2011年9月1日 スタート!: メメント・モリ ) ~たゆたえど沈まず~

年とともに人生はクロノロジー(年代記)からパースペクティブ(遠近法)になり、最後は一枚のピクチュア(絵)になる

150502 朝日デジタル:(寄稿)憲法という経典 作家・島田雅彦

2015年05月02日 13時10分56秒 | 考える資料
5月2日(土):

(寄稿)憲法という経典 作家・島田雅彦 朝日デジタル 2015年5月2日05時00分

 日本が自国のことのみならず、他国の戦後復興、人道支援にも貢献し、「世界の赤十字」たらんとしてきたことで獲得できた世界的信用は大きな財産である。外国人が日本人に対して抱く好印象もまた、平和主義を貫いてきたことに由来するだろう。
 「優しい日本人」のイメージはおそらく、現行憲法によってもたらされたに違いない。それを「平和ぼけ」と自嘲する人は改憲してでも「世界の警察」の片棒を担ぎたくてしょうがないようだが、そうすれば戦後日本が積み上げてきた信用は全て失われる。彼らはその損失を計算したことがあるだろうか?
 憲法、日米安保、自衛隊は戦後の三大矛盾と見なされてきた。歴代政権はアクロバティックな憲法解釈を行うことで自衛隊を派遣したり、集団的自衛権の行使を可能と判断したりと、その矛盾を拡大させてきた。
 敗戦後70年が経過して、自民党は憲法を改正することで矛盾解消を図りたがっているが、自民党による改正案も改正理由の説明も、さらには「戦後レジームからの脱却」というような政治方針も全て支離滅裂である。
 改憲の理由として自民党が掲げているのは、現行憲法は連合国軍の占領下で同司令部に押しつけられたものであり、国民の自由な意思が反映されていない、という主張だ。この押しつけ論が出てきたのは、自衛隊が発足し、アメリカが日本を極東における反共防波堤に仕立てるべく再軍備をさせるようになった頃、つまり1954年あたりからだ。自衛隊と憲法の矛盾はアメリカの政策転換に起因するのである。
 それに先立って、51年、日米は旧安保条約を締結するが、アメリカが出した条件は、日本の独立後も占領期と同様に「米軍に基地を提供させ続けるが、米軍は日本防衛の義務はない」とするものだった。この不平等を是正するために、再軍備をした日本は周辺有事の際は集団的自衛権を行使して、アメリカを守るという提案を55年にしたことがある。その交換条件として米軍の撤退を要求する構想もあった。
 日本が集団的自衛権の行使を主張するのは60年ぶりというわけだが、現政権の頭には「米軍撤退」の4文字などなく、日米同盟の強化しか考えていない。自民党が沖縄に冷淡な理由もここにある。現行憲法を押しつけだからといって改めようとするくせに、同じ押しつけである日米安保条約は頑(かたく)なに守ろうとする。ほとんど日米安保を憲法の上位に置こうとする政治方針と映る。
 唯一、「自虐史観からの脱却」を主張して、東京裁判を批判し、歴史解釈で中韓と対立する時だけはナショナリストの面目を保てると思っている。それは外交も経済もアメリカに丸投げしている現状を目立たなくさせるパフォーマンスにすぎない。彼らの支持者の一部は、政権を批判する人を一方的に売国奴呼ばわりするが、アメリカの利権を守る使命を帯びた官僚や御用学者に焚(た)きつけられ、日本をアメリカに安売りする人々のことはどう呼んだらいいのだろう?
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 対米従属派が嫌う憲法9条の戦争放棄規定は、元はといえば、昭和天皇の戦争責任を問わず、天皇制を残すことの交換条件だった。日本での軍国主義の台頭を防ぐ規定をつけることは占領時代にあっては最優先の案件だったし、国民の平和への希求とも呼応していた。
 現天皇が折々に護憲と平和への希求を明らかにされるのは、この事情も踏まえておられるからだろう。護憲と平和主義は吉田茂の「軽武装、経済重視」の路線とともに「戦後レジーム」になったわけだが、そこから脱却しようとすれば、戦前に回帰するしかない。
 戦前回帰の傾向は自民党の憲法改正案にも見てとれる。まず自衛隊を国防軍と呼び、「主権と独立を守るため、国民と協力して、領土、領海及び領空を保全し」と改正9条に記しているが、自民党が作った有事法制でも、国民が国の安全保障に協力する責務を明記しているので、戦時中と同様に有事の際は国民も動員されることになる。
 また現行憲法にはない緊急事態についての条文を加え、内閣が法律と同一の効力を有する政令を制定できるようにし、緊急事態時に国家総動員体制を取りやすくしている。ほかにも「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という部分を「ユートピア的発想による自衛権の放棄」と捉え、削除し、人権規定においても、現行憲法で「公共の福祉」とある部分を「公益及び公の秩序」に置き換えて、それに反する自由と権利を制限している。
 しかも「公益及び公の秩序」の定義は政府が勝手に決められるというのだから、改正案は国民主権を謳(うた)いながらも、思いきり国家主権的である。国民を最優先するように見せかけながら、ナショナリストたちが国家を私物化することを奨励するようなものだ。国民を国家の暴力から守る憲法から、国民を戦争に駆り出せる憲法へ。これは明らかに「憲法改悪」である。
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 改憲のハードルは高いが、ほぼ一党独裁体制の下、迷走する野党からの賛成票を上乗せし、改憲発議要件の緩和に成功すれば、改憲は一気に進む可能性もある。反中ナショナリズムを焚き付けられ、大政翼賛ムードに導かれた世論もそれを容認してしまうかもしれない。
 そんな中で、いま一度、国民は自問すべきではないか? 現行憲法に忠実に政治を行うことがそれほどナンセンスなのか? 日本が直面している現状と現行憲法は、耐え難いほどにかけ離れているのか?
 確かに憲法と歴代政権の政治決定に齟齬(そご)はあるが、国民はその時々の政治情勢とは別に、憲法を平和の誓いとして受け継いできた。聖書がキリスト教世界の共通の倫理である博愛、寛容、自由の拠(よ)りどころであるように、憲法も日本人の倫理の経典であり続けた。
 憲法には政治的な横暴、権力の濫用(らんよう)、人権の侵害から国民を守ることが謳われているが、それは我が国が他国から信用されるに足る国家であることの宣言なのであり、暴力の連鎖を断ち切る誓いでもあるのだ。そして、何よりも他国の戦争に巻き込まれないための保険として、機能してきた。
 憲法が戦争放棄を謳っている限り、自衛隊の海外派兵や米軍の後方支援に踏み切ること自体が違憲である。だからこそ政権の暴走は抑止されているのだ。政権の暴走にお墨付きを与えるような改憲は日本の自殺行為に等しい。
 憲法は武力行使の歯止めになるとの考え方は保守派のあいだでも受け継がれてきた。過去にアメリカから、集団的自衛権を行使し、ベトナム戦争に参戦せよと求められても、断ることができたし、湾岸戦争でも巨額の軍事援助はしたものの、かろうじて武力行使や兵器の輸出を免れることができたのだった。9条を維持しさえすれば、いつでも戦争放棄の原則に回帰できるし、中立主義や日米同盟の再考、多国間安全保障の構築など政治的選択の幅を広げられるのだ。
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 現時点でアメリカや中国がどのようなアジア太平洋戦略を取るかによって、何通りかの未来予測ができる。現状維持の線でいけば、アメリカは日米同盟を継続し、中国の封じ込めに日本を最大限活用することになる。
 日本国民の間に広がる中国に対する不安とそれを払拭(ふっしょく)しようとするナショナリズムを利用し、日本により大きな安全保障上の役割を担わせ、アメリカの防衛費支出を軽減させる。現政権はその期待に応え、「積極的平和主義」をかざし、日本の安全保障環境を良好にすべく努めようとするが、その実態はアメリカの軍産複合体を支えるカモになることである。テポドンひとつ迎撃できないミサイル防衛システムを巨額で導入させられたり、沖縄の米軍基地の移転にやはり巨額の支出をさせられたりするだけだ。
 しかし、アメリカがアジア太平洋地域で大規模な軍事作戦を展開する可能性は非常に低い。領土問題で中立の立場を取っていることもあり、尖閣有事の際も米軍を出動させないかもしれない。アメリカが強硬姿勢で中国に敵対するならば、財政破綻(はたん)や世界恐慌の引き金になりかねないし、冷戦時代のように互いの中枢に核兵器を突きつけ合うようなことはしないだろうからだ。
 アメリカと中国が世界経済の安定確保を最優先し、軍事衝突などを極力避け、常に緊張緩和に向けた努力をすれば、日米同盟を強化する必要はなくなり、安全保障の新秩序を構築することになるだろう。こちらの未来予測の方がより現実的な気もする。アメリカは軍事的、政治的プレゼンスを意図的に後退させ、地域のことは地域に任せるが、中国と周辺国が対立した際に、仲裁役としての役割を果たすにとどまる。いずれにせよ、日本がアジア太平洋地域で軍事的に勝利を収める可能性はほとんどないのだ。
 現政権は、軍需産業を拡大し、日本の権益や邦人の生命、財産を守るという名目で自衛隊を紛争地域に出兵させることしか頭にないようだが、外交努力を怠り、安易に武力行使をすれば、そこから暴力の果てしない連鎖が広がることは、イラクやシリアの状況を見れば、一目瞭然である。紛争が拡大すれば、自衛隊による災害救助にも影響が出るだろう。
 戦争は原発にも似て、莫大(ばくだい)な負の遺産を後世に残す。好戦的な政治家たちは戦争責任など取る気はさらさらなく、自分たちを支持した国民が悪いと開き直るだろう。彼らが自殺行為に走るのを止めなければ、私たちだって自殺幇助(ほうじょ)の罪をかぶることになるのだ。
 現行憲法は単にユートピア的理想を謳ったものでも、時代の要請に応えられなくなった過去の遺物でもなく、日本が歩むべき未来に即した極めて現実的な指針たり得ている。
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 しまだまさひこ 1961年生まれ。83年、「優しいサヨクのための嬉遊曲」で作家デビュー。法政大学国際文化学部教授。芥川賞選考委員も務める。
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