5月3日(日):
302ページ 所要時間 6:00 蔵書
著者49~53歳(1923-1996)。
1998年3月4日再了とあるので、この第三巻を読むのは、少なくとも三度目である。付箋と線引きをしてしまい、司馬の俯瞰的手法の中でこの作品は特に寄り道が激しい。飛ばそうと思えば飛ばせるが、飛ばしたら後に少しの骨格しか残らない。司馬作品全体に言えることだが、この作品では余談に付き合わざるを得ない。結局、1ページ1分を超えてしまった。それでも司馬作品以外ではまず得られない情報に触れて「お得感」を感じて満足なのだ。しかし、いつもこの調子で、全巻読破に挫折してきた。同じ道をたどろうとしている。やばい、やはり今後は1ページ30秒を固守しなければいけない。
大久保が参議に戻り、廟堂でついに西郷と激突する。翌日、西郷は欠席。最大の軍権を握る西郷の不在は、底知れぬ圧迫感を与える。三条・岩倉が大久保を裏切り、西郷遣韓が決定する。即刻大久保は辞表を出して去る。岩倉は不貞腐れて仮病。伊藤のみは逆転を信じて奔走を続ける。先延ばしを西郷に叱責された三条は、ストレスにより人事不省状態になる。機を観るに敏な伊藤は、岩倉・木戸を抱き込み、事実上大久保を復帰させる。
三条の急病で、太政大臣代理となった右大臣岩倉は、西郷、板垣、江藤の三巨頭と副島種臣を前に、「わしは、三条から代理を委託された訳ではないから、わしの考え(西郷遣韓反対)をお上に伝えるつもりだ」と述べ、西郷の背後で刀を撫す桐野の存在にもよく堪えた。「わしのこの両目の黒いうちは、おぬしたちが勝手なことをしたいと思うてもそうはさせんぞ」と啖呵を切る。中国の左宗棠とも連携し、日中韓で対ロシア防衛同盟を目指す西郷のことは終わった。三人の参議に向かい一笑して「右大臣、よく踏ん張り申したな」と言った。
西郷の進退は水際立っている。翌日には広壮な屋敷を引き払い、参議、近衛都督、陸軍大将すべて辞し、一旦向島に身を引き、ほどなく薩摩に引き籠った。桐野陸軍少将はじめ薩摩系の近衛兵たちは陸続して西郷の後を追って薩摩に帰る。政府は木戸の固辞により、大久保が政権を握らざるを得ず、篠原国幹陸軍少将の慰留に努めるが篠原も西郷の後を追う。一方、警察を握る川路利良や西郷従道、黒田清隆、大山巌ら外国を経験した者たちは大久保のもとに残った。
東京を追われた西郷ではあるが、大久保政権は西郷を陸軍大将として遇し続ける。また、西郷が一番信頼する者は実は首魁の大久保と岩倉であった。その意味で、西郷自らが反乱の首謀者になることはありえなかった。薩摩の近衛兵たちが大挙して東京を去った後を襲ったのが長州系の人々だった。ここに長州陸軍閥が成立し、その中心に陸軍卿山県有朋がすわる。
大警視川路は、天才的政治変節漢のジョセフ・フーシェを国家の守護者としての警察モデルをつくり上げた神の如く尊敬している。土佐人による岩倉暗殺未遂事件が起こると、邏卒・巡査の数は6000人に増員され、しかも非薩摩・旧幕派から大量に採用される。川路の意識は、薩摩を超えて完全に国家の守護者としての警察組織に殉ずるようになり、それは大久保を支える大きな力となる。川路は、下野した征韓派勢力に徹底的に密偵を配する。
旧旗本芦名千絵の住む屋敷の一角を借り受け、薩摩人海老原穆が反大久保政府の新聞を発行するために集思社を設立し、反政府の梁山泊的体を成すようになる。川路の密偵は常に見張っている。そこへ熊本士族の宮崎八郎22歳の若者が現れ、海老原はこれを賓客として迎える。
参議を辞したものの、やることがない板垣は由利公正(三岡八郎)の勧めにより、阿波の小室信夫、土佐の古沢滋、江藤新平らと連名で「民選議院設立建白書」を左院に提出する。しかし、その少し前、江藤新平は東京を脱して佐賀に戻ってしまっていた。
302ページ 所要時間 6:00 蔵書
著者49~53歳(1923-1996)。
1998年3月4日再了とあるので、この第三巻を読むのは、少なくとも三度目である。付箋と線引きをしてしまい、司馬の俯瞰的手法の中でこの作品は特に寄り道が激しい。飛ばそうと思えば飛ばせるが、飛ばしたら後に少しの骨格しか残らない。司馬作品全体に言えることだが、この作品では余談に付き合わざるを得ない。結局、1ページ1分を超えてしまった。それでも司馬作品以外ではまず得られない情報に触れて「お得感」を感じて満足なのだ。しかし、いつもこの調子で、全巻読破に挫折してきた。同じ道をたどろうとしている。やばい、やはり今後は1ページ30秒を固守しなければいけない。
大久保が参議に戻り、廟堂でついに西郷と激突する。翌日、西郷は欠席。最大の軍権を握る西郷の不在は、底知れぬ圧迫感を与える。三条・岩倉が大久保を裏切り、西郷遣韓が決定する。即刻大久保は辞表を出して去る。岩倉は不貞腐れて仮病。伊藤のみは逆転を信じて奔走を続ける。先延ばしを西郷に叱責された三条は、ストレスにより人事不省状態になる。機を観るに敏な伊藤は、岩倉・木戸を抱き込み、事実上大久保を復帰させる。
三条の急病で、太政大臣代理となった右大臣岩倉は、西郷、板垣、江藤の三巨頭と副島種臣を前に、「わしは、三条から代理を委託された訳ではないから、わしの考え(西郷遣韓反対)をお上に伝えるつもりだ」と述べ、西郷の背後で刀を撫す桐野の存在にもよく堪えた。「わしのこの両目の黒いうちは、おぬしたちが勝手なことをしたいと思うてもそうはさせんぞ」と啖呵を切る。中国の左宗棠とも連携し、日中韓で対ロシア防衛同盟を目指す西郷のことは終わった。三人の参議に向かい一笑して「右大臣、よく踏ん張り申したな」と言った。
西郷の進退は水際立っている。翌日には広壮な屋敷を引き払い、参議、近衛都督、陸軍大将すべて辞し、一旦向島に身を引き、ほどなく薩摩に引き籠った。桐野陸軍少将はじめ薩摩系の近衛兵たちは陸続して西郷の後を追って薩摩に帰る。政府は木戸の固辞により、大久保が政権を握らざるを得ず、篠原国幹陸軍少将の慰留に努めるが篠原も西郷の後を追う。一方、警察を握る川路利良や西郷従道、黒田清隆、大山巌ら外国を経験した者たちは大久保のもとに残った。
東京を追われた西郷ではあるが、大久保政権は西郷を陸軍大将として遇し続ける。また、西郷が一番信頼する者は実は首魁の大久保と岩倉であった。その意味で、西郷自らが反乱の首謀者になることはありえなかった。薩摩の近衛兵たちが大挙して東京を去った後を襲ったのが長州系の人々だった。ここに長州陸軍閥が成立し、その中心に陸軍卿山県有朋がすわる。
大警視川路は、天才的政治変節漢のジョセフ・フーシェを国家の守護者としての警察モデルをつくり上げた神の如く尊敬している。土佐人による岩倉暗殺未遂事件が起こると、邏卒・巡査の数は6000人に増員され、しかも非薩摩・旧幕派から大量に採用される。川路の意識は、薩摩を超えて完全に国家の守護者としての警察組織に殉ずるようになり、それは大久保を支える大きな力となる。川路は、下野した征韓派勢力に徹底的に密偵を配する。
旧旗本芦名千絵の住む屋敷の一角を借り受け、薩摩人海老原穆が反大久保政府の新聞を発行するために集思社を設立し、反政府の梁山泊的体を成すようになる。川路の密偵は常に見張っている。そこへ熊本士族の宮崎八郎22歳の若者が現れ、海老原はこれを賓客として迎える。
参議を辞したものの、やることがない板垣は由利公正(三岡八郎)の勧めにより、阿波の小室信夫、土佐の古沢滋、江藤新平らと連名で「民選議院設立建白書」を左院に提出する。しかし、その少し前、江藤新平は東京を脱して佐賀に戻ってしまっていた。