もみさんの一日一冊遊書録( 2011年9月1日 スタート!: メメント・モリ ) ~たゆたえど沈まず~

年とともに人生はクロノロジー(年代記)からパースペクティブ(遠近法)になり、最後は一枚のピクチュア(絵)になる

161211 また出たよ!安倍の走狗曽我豪/(政治断簡)書いて、消して、潜って 政治部次長・高橋純子

2016年12月11日 11時53分20秒 | 徒然・雑感
12月11日(日):

 朝日新聞は(社会の木鐸として)超えてはいけない最低ラインを割り始めている。もはや金を出して読むに値しない。安倍晋三は、将来、戦後史に必ず大きな汚点として記載される。その安倍の走狗である曽我豪が何か書いていた。この男は、読者に対して自分の優位を示し、高いところから見下ろす立ち位置でしかもはや記事が書けないようだ。それも、誰も知らない(知る必要もない!)「知識」に倚りかかってしか書けないようだ。「自分の言葉」を吐かないで、上から教えてやる「知識」に依存し逃げ込むことがどんなに恥ずかしいことであるのかさえ分かっているけど、もうそういう生き方しかできないのだろう。醜いアイヒマン曽我豪を抱え、朝日新聞全体が安倍の走狗曽我豪化しつつある。

 以下の(政治断簡)も内容は大したことはない。ただ何とかして「自分の言葉」を吐かなければいけない、という意識だけは珍しく感じるので掲載する。

朝日デジタル(政治断簡)書いて、消して、潜って 政治部次長・高橋純子  2016年12月11日05時00分
  時代が変わる時、言葉は追いつかないものなのか。言葉が追いつかないことを、時代が変わるというのか。米大統領選後の言論は、総じて不調を来しているように思う、なぜなら……なーんて。つい話を大きくしてしまったが、要は私、書きあぐねています。
  言いたいことはたくさんあるのに、世界が混沌(こんとん)とし過ぎていて、手持ちの言葉では間に合わない感じ。書いては消し書いては消し、何とかしなければという焦燥と、もう何ともならないのではという諦念(ていねん)が複雑に交錯する。
  世界的潮流としてある「反既成政治」「反エスタブリッシュメント(既得権層)」。
  日本政治の傾向として極めて顕著な「『1強』のおごり」「だらしない野党」。
  どれもその通りだと思う。
  ただ、それらの言葉の枠に寄りかかり過ぎて、「わかった気」になるのは、嫌だ。
  新聞記事はわかった気にならないと書けない面がある。日々の出来事を分類し、枠に入れて提示しなければ情報として機能しないから。逆に言うと、情報として機能させるために、枠からはみ出る部分は「なかったこと」にすることもある。「どうしてこんなことになったんだ!」と後に驚かされることになる事象は往々にして「なかったこと」の累積から発芽している。
    *
  カジノ法案をめぐるいまの国会の様相は、そのひとつの亜種かもしれない。
  衆院内閣委員会の5時間33分という審議時間。トップバッターとして質問に立った自民党議員が唱えた般若心経人の不幸を収益にしていいのかという倫理は等閑視され、投資と雇用が生まれる、他国もやっている、収益で依存症対策をやればいいなどと、金目の話に矮小(わいしょう)化される。
  政治って、ひとの不幸をできるだけ小さくするためにあるんじゃないの? 誰かの不幸が前提の経済成長って何? 根源的な議論はされずに賛成多数、一丁上がり。これぞ「決められる政治」の成れの果て。「政権交代可能な二大政党制」の成れの果てとも言える。かつて気軽に便利に使ってきた言葉に報復されている、そんな気すらしてくる。
    *
  言葉は安易に振り回さない方が良い。わからないものはわからない、難しいことは難しいと言いながら、深く潜って、言葉をつかまえた方がいい。さて、どこに潜れば? ひとつ、心当たりがある。
  「『今日の惨めさ』を、『明日のもしかしたら』にすり変えていく、その人々の志向の中に、ファシズムの芽が育まれる」(田中美津「いのちの女たちへ」)
  いつしか私たちは「明日のもしかしたら」を為政者に委ねてしまってはいないか。自分の惨めさを引き受けることから逃げて、鼻先に「もしかしたら」のニンジンをぶら下げられ、為政者のために走る馬になり下がってはいないだろうか。この国の、自分自身の惨めさの中に潜って潜って、言葉をつかみとりたい。それは、「明日のもしかしたら」を自分自身のものにするための糸口となるはずだ。

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