5月18日(月):
425ページ 所要時間8:40 アマゾン347円(97+250)
著者40歳(1923~1996:72歳)。
10年前にアマゾンで第4巻を取り寄せている。ということは、このブログを始める直前に俺は「竜馬がゆく」を読んでいるのかもしれない。であれば、3度目か、それ以上か?
文久3年(1863)5月、竜馬の神戸海軍操練所が、練習船のないまま開校する。土佐藩をはじめ諸国の脱藩牢人らを集めて一つの勢力をなすようになるが、竜馬自身は、「機は熟していない」と政治活動には関心が薄い。
とにかく日本全体にとって多事多難の時代に突入している。前半に政局の主導権を握ったのは長州藩と武市半平太の土佐勤王党の勢力だった。現実主義の竜馬は、観念論的な武市の路線には批判的で距離をとる。竜馬は練習船を幕府から借り受けるために奔走しているが、京都では清川八郎が暗殺され、会津藩預かりの人斬り警察”新選組”が活動を始める。その中には、北辰一刀流で竜馬と同門の藤堂平助や山南敬助もいた。
将軍家茂が京都に呼びつけられ、幕閣の首脳が皆京都・大阪に集まり、勢いに乗る長州は関門海峡で外国船に砲撃を加え、薩摩は鹿児島でイギリス艦隊と戦争を行っていた。
長州中心の政局を深く恨みとする薩摩と会津両雄藩が同床異夢のまま、8月18日の政変で一気に長州を京都から追放してしまう。長州はすでに長州だけの存在ではなく諸国・諸藩での尊王攘夷の政治活動に行き詰まった多くの志士たちにとっても頼るべき家であった。その長州が倒れると、長州の下に結集していた志士たちも非業の死を遂げていく。直接的には、土佐の吉村寅太郎の天誅組の変は壊滅、七卿落ちに付き添ったのも土佐の牢士たちであった。
藩政吉田東洋暗殺(1862年4月)後、土佐の藩政を握っていた武市半平太の土佐勤王党政権が前藩主山内容堂によって瓦解させられ、多くの志士たちが逮捕処刑され、ついには武市も逮捕・投獄される(9月)。多くの仲間が切腹・斬首される中、武市は1年以上抵抗を続けた末に壮絶な横三文字の切腹を遂げる(1865年閏5月)。
司馬さんは、山内容堂が嫌いなようで、「
自称名君の容堂は、幕末で最もはなばなしい暗君だったとも言えるかもしれない。略。要するに政治家容堂の本質はお調子者なのである。略。英雄、容堂はひとり英雄的に悲壮がり、喜劇を演じつつあった。その喜劇のためにこれからも幾人もの人間が死んでゆく。貴族は馬鹿でいい。貴族が利口過ぎるのはかえって害が大きいことが多い。272ページ」と厳しく批判している。俺も土佐藩(上士、山内侍)は差別意識の強さで印象が暗くて嫌いだ。
多くの仲間の非業の死、逮捕、瓦解に悲憤しながら、竜馬はまだ動かない。勝の紹介で江戸に向かい幕臣大久保一翁(忠寛)に会い、ついに幕府艦の観光丸(400トン)を一介の脱藩牢人の身で神戸海軍塾に借り受けることになる。京都では、徳川氏と薩摩・会津が主導権を握り、一方で手負いの猛獣長州が京都への再起を狙っている。いよいよ時勢が煮詰まってきている。結局、この第四巻は、ほとんどを文久3年(1863)だけで終始した。
文久3年(1983)大晦日、竜馬は、幕府の観光丸に乗って江戸で抜錨した。超多難の元治(がんじ、げんじ)元年(1964)を迎える。大坂で勝にあった竜馬は、勝の外国艦隊の長州攻撃を抑える交渉に付いて長崎に行く。坂本竜馬と言えば、長崎だが、実はこの時が初めてである。長崎の向こうには上海がある。竜馬の目は海の向こうに向いている。
勝海舟大学の学生竜馬を育てるため、勝は竜馬を熊本へ連れてゆき横井小楠に会わせる。竜馬の視野は、単なる佐幕家や勤王家とまるでちがう、世界情勢の中から日本の置かれている位置を知りどうすべきか、という<世界観>を持つようになる。勝海舟、横井小楠、佐久間象山ら極めてまれな少数派になっていく。
【内容紹介】
志士たちで船隊を操り、大いに交易をやり、時いたらば倒幕のための海軍にする―竜馬の志士活動の発想は奇異であり、ホラ吹きといわれた。世の中はそんな竜馬の迂遠さを嘲うように騒然としている。反動の時代―長州の没落、薩摩の保守化、土佐の勤王政権も瓦解した。が、竜馬はついに一隻の軍艦を手に入れたのであった。