12月29日(木):
※以下に再掲しますm(_ _)m。
2015年12月12日(土):
難波大助。父作之進は山口県衆議院議員。事件後、辞職し、自ら竹矢来をして閉門。半年後餓死。
508ページ 所要時間 6:30 蔵書(本棚の肥やし)
著者42歳(1924生まれ)。日本の歴史学者・政治学者。横浜市立大学名誉教授。専門は日本近現代史・政治史。
本書は
テキストです。今の政治状況を理解するのにも役に立つ。
紹介文:
第一次世界大戦に乗じて、日本は大陸への野望を着実に実現しながら躍進をとげ、未曾有の経済的繁栄を迎える。だが、国力増強の裏で深刻化してゆく社会矛盾は民衆の政治意識をめざめさせ、世論は沸騰する―。デモクラシー運動の芽生えと発展を通して描く大正の特質。
【目次】閥族打破の叫び/第一次大戦の勃発/大戦景気と貧乏物語/白樺派の周辺/寺内内閣とシベリア出兵/民本主義と米騒動/一等国日本/平民宰相・原敬/小市民階級の登場/労働運動の曲折/ゆらぐ地主の座/ワシントン体制と日本/無産階級運動の方向転換/関東大震災/摂政狙撃/普選と治安維持法/大都会と大衆文化/アジアの民族革命と日本
いつ買ったかも覚えていない本棚の肥やしだった。読みたいと思う気はあっても、そのボリュームに圧倒され手を出せなかった。縁結びでもいいから多くの本に取り組むことの大きな利点の一つが、ふだんとても手を出せないと思っていた本棚の肥やしの名著に、ふと「縁結び読書でもいいから目を通してみよう」という気になれるときがあることだろう。
今回も当初は「1ページ15秒だったら、2時間で目を這わせられるな」という気になり、本書を手に取った。どうせ10時間以上かけても立ち合える本ではないのだ。それだったら、目を這わせるだけでも有難いことだ、と思えたのだ。日本史の基本知識は頭に入っているので、迷子になることはないはずだ。こんな気分になれたことを幸いとして目を這わせてみよう、と思って目を這わせた。
正直、1ページ15秒なんて全く無理だった。若い時は、1ページ3分以上かけて、線を引きながら20~30時間かけて読んでいたシリーズである。立て板に水というか、油紙に水滴というのか、文字通り目を這わせているだけだった。しかし、そのうち面白い箇所が繰り返し出てくるようになった。前もって基礎知識はあるので、歴史の裏話になると、俄然本書でしか知りえない情報がたくさんあることに気づいてしまったのだ。
「日本史」の本は、新しい本であればあるほど「新発見」や「新しい知見」が示されていると思うのは錯覚かもしれないな、と本書を読みながら考え始めていた。記述が段違いに詳しくて、かつ皮膚感覚的な現実性を帯びているのを感じるのだ。著者は、明治末から大正時代を生きた大勢の人々に囲まれ、自らも近い過去として大正時代を経験しているのだ。本書ではほんの20年~30年ぐらい前を語るような気分で大正時代が語られている。著者は大正時代生まれなのだ。今からみれば、バブル経済崩壊前後を記述しているようなものなのだ。
今は無知な歴史修正主義が横行して無恥に歴史が歪められ陳腐化し、一方で歴史のタコツボ専門化が進んで歴史の全体像が解りにくい印象がある。しかし、
1960年代半ばというのは、無謀な侵略戦争・植民地支配に対する反省を当然の前提として正当でアカデミックな歴史の全体像が澄んだ目で真っ当に語られた時代なのだ。
本書の内容を十分に読み切り、吸収することはできないが、
本書が「大正時代」を理解する〝原点″となる著作であることは十分に分かった。例えば、1923年の「虎の門事件」について、手元にある同時代を扱った歴史書を見ても「一般書」で詳細に記述したものはない。以下のウィキペディアの記述は、本書をもとにしていることで、本書の基本書としての位置が今も揺らいでいないのが解る。
ウィキペディア「難波大助」 この当時、大逆罪は初めから大審院で審理された。難波を精神病患者とすることは不可能であったため、政府や検察は「自己の行為が誤りであったと陳述させ、裁判長は難波の改悛の情を認めたうえで死刑の判決を下すが、摂政の計らいにより死一等を減じ無期懲役とする」ことが天皇の権威を回復するための最も良い手段であると判断し、そのように動いた。
予審は長引いたが、難波が反省陳述することをようやく認めたため、1924年10月1日に傍聴禁止の措置が取られた上での公判が開かれた。しかし難波はこの審理の最終陳述で反省陳述を行わず、次のように述べた。
「私の行為はあくまで正しいもので、私は社会主義の先駆者として誇るべき権利を持つ。しかし社会が家族や友人に加える迫害を予知できたのならば、行為は決行しなかったであろう。皇太子には気の毒の意を表する。私の行為で、他の共産主義者が暴力主義を採用すると誤解しない事を希望する。皇室は共産主義者の真正面の敵ではない。皇室を敵とするのは、支配階級が無産者を圧迫する道具に皇室を使った場合に限る。皇室の安泰は支配階級の共産主義者に対する態度にかかっている。」
— 最終陳述(抜粋)、今井清一『日本の歴史〈23〉大正デモクラシー』p416より引用
これを受けて大審院は11月13日、難波に死刑を宣告せざるを得なくなった。その際、難波は「日本無産労働者、日本共産党万歳、ロシア社会主義ソビエト共和国万歳、共産党インターナショナル万歳」と三唱して周囲を狼狽させた。難波の処刑は15日に執行された。25歳没。父の作之進が遺体の引き取りを拒んだため、無縁仏として埋葬された。
ちなみに、ウィキペディアによれば、
父親の難波作之進は、事件当日に衆議院議員を辞職。息子の死刑執行後は山口の自邸の門に青竹を打ち、すべての戸を針金でくくり閉門蟄居して断食し、半年後に餓死した。
他にも、関東大震災の混乱状態の中で起こった朝鮮人虐殺や、大杉栄の虐殺など、またジーメンス事件後の山本権兵衛(Ⅰ)内閣退陣後の混乱と大隈(Ⅱ)内閣制立の裏事情と、山本権兵衛(Ⅱ)退陣後の清浦圭吾内閣成立の過程がよく似ていることほか、政党政治が成立、推移していく裏事情のどろどろ感など本書ぐらいのボリュームがないとわからないことがたくさん書かれていた。目を這わせながら、政党間の愚劣な離合集散ぶりを見ていて、いきなり今の無気力でグダグダの政局と同じだ!民主党は今こそ第二次護憲運動の動きを裏事情も含めて学ぶべきだろうと、考え込んでしまったりした。
とりあえず、大正時代のことについては、本書を通じて最も詳細な事情が分かることになる、と言える。