もみさんの一日一冊遊書録( 2011年9月1日 スタート!: メメント・モリ ) ~たゆたえど沈まず~

年とともに人生はクロノロジー(年代記)からパースペクティブ(遠近法)になり、最後は一枚のピクチュア(絵)になる

150215 衆参両院の「テロ非難決議」を非難する!「テロの本質」を真面目に語る政治家はいないのか!

 真面目に「テロの本質」を考えれば、その原因が、決して宗教の違いにあるのではなく、世界的に広がる富の偏在、極端な格差拡大、差別構造の継承、及びパレスチナ問題、それらによる<若者たちの絶望>にあることは、実は誰もがわかっていることだろう! それを「世界には凶悪なテロリストが大勢いて、こいつらを叩き潰せばテロが無くなる」なんて話に無理やりすり替えている。誰も、「テロの本質が、日本・世界の社会構造が抱える富の偏在・格差の拡大及びパレスチナ問題の<野放し状態>にこそある」という本質を語らないし、見させようとしない。そして、凶悪なテロリストへの恐怖ばかりを煽りたてている。これはまさにオーウェルの「一九八四年」の世界と同じだ。今回の国会の「テロ非難決議」に社民党・共産党まで加わっていたのには、あきれ果てた。「誰も本質を見ようとしない。」「武力で世界中の<絶望した若者たち>を封じ込めるべきではないし、不可能だ!」

秋原葉月さん「Afternoon Cafe」ブログから

※(1)「もちろん、普通の人間は戦争を望まない。しかし、国民を戦争に参加させるのは、つねに簡単なことだ。とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ」byヘルマン・ゲーリング ※(2)いつの時代も大衆をファシズムに煽動する手口は同じ。なのに同じ手口に何度も騙されるのは過去に学んでいないから。格差を広げ、セイフティネットを破壊し、冷徹な自己責任論が横行する社会を継続させるのは簡単だ。今よりもっと格差を広げ、セイフティネットを破壊する政策をとればよい。そうすれば人々に自己責任論がもっと浸透し、草の根から勝手に右傾化してくれる。

辺見庸さんのブログから

・権力をあまりに人格的にとらえるのはどうかとおもう。口にするのもおぞましいドブの目をしたあの男を、ヒステリックに名指しでののしれば、反権力的そぶりになるとかんがえるのは、ドブの目をしたあの男とあまり変わらない、低い知性のあらわれである。権力の空間は、じつのところ、非人格的なのだ。だからてごわい。中心はドブの目をしたあの男=安倍晋三であるかにみえて、そうではない。ドブの目をしたあの男はひとつの(倒錯的な)社会心理学的な表象ではありえても、それを斃せば事態が革命的に変化するようなシロモノではない。権力には固定的な中心はなく、かくじつに「われわれ」をふくむ周縁があるだけだ。ドブの目をしたあの男は、陋劣な知性とふるまいで「われわれ」をいらだたせ、怒らせるとともに、「われわれ」をして社会心理学的に(かれを)蔑視せしめ、またそのことにより、「われわれ」が「われわれ」であることに無意識に満足もさせているのかもしれない。ところで、「われわれ」の内面には、濃淡の差こそあれ、ドブの目をしたあの男の貧寒とした影が棲んでいるのだ。戦争は、むろん、そう遠くない。そう切実にかんじられるかどうか。いざ戦争がはじまったら、反戦運動が愛国運動化する公算が大である。そう切実に予感できるかどうか。研ぎすまされた感性がいる。せむしの侏儒との「ふるいつきあい」がベンヤミンのなにかを決定した。そう直観できたアレントほどするどくはなくても、研ぎすまされた感性がいる。けふコビトがきた。ミスドにいった。(2015/11/11)

161229 空疎な安倍真珠湾訪問を報じ続ける新聞は、購読者に損をさせた自覚を持て!

2016年12月29日 15時19分58秒 | <憲法の危機>は「戦後最大の危機」
12月29日(木):

  昨日12月28日(水)の朝日新聞の朝刊・夕刊、今朝29日(木)の朝刊の一面大見出しで、空疎な安倍晋三の真珠湾訪問記事が不自然なほどに大げさに場所を独占して掲載されている。安倍は、よほどオバマ・アメリカ大統領に付き添われて立つツー・ショット写真を国民に見てほしかったのだろう。しかし、残念ながら俺はこれらの記事を一顧だにしていない。馬鹿馬鹿し過ぎる。読む価値がないことがわかりきっているのだ。この安倍にごまをすった紙面の無駄遣いの分だけ、朝日新聞は購読者に損をさせた計算になる。

  記事の内容よりも、むしろ関心は別のところに生じた。三大新聞やNHKが、時の政権に対する批判をしないでこれほどまでに政権からの要望に迎合するようになっている事実を目の当たりにして、既にわかっていたつもりだったが「マスコミ操作が、ここまでひどくなってしまっているとは…」と言葉を失っているのだ。長く生きてきた。社会人になってからもずいぶん長いが、この半世紀近い歳月においても、これほど新聞が時の権力の支配下に置かれているのを目の当たりにするのは初めての経験だ。購読紙の朝日新聞の曽我豪を俺は軽蔑・憎悪しているが、今や朝日新聞全体が”曽我豪”化しているのだ。

  もはや迎合する、おもねるというレベルを越えている。迎合する、阿るにはまだ”主体”が存在するが、今の朝日新聞には”主体”そのものが消滅している。「一線を越えたな…」と感じる。冗談や嫌みの戯れ言ではなく、自己が失われ、正真正銘の「大本営発表の広報」化している。痴呆化して、おもらしの垂れ流し状態だ。もはや洒落にすらできない。

  12月20日に東京の「つゆしゃぶ ちりり」で朝日の曽我豪、NHKの島田をはじめ、安倍の走狗の新聞・言論人たちが安倍から飲食をふるまわれた記事が出ていたが、国民の目を欺くための権力からの依頼の内容が、プーチン対露外交の失敗の誤魔化しとともに、値打ちの暴落した安倍真珠湾訪問の昨日今日の一面でのカラ宣伝の依頼であったことが漏れ漏れに漏れている。政治の奥深さの欠片もない。その権力からの依頼に何の抵抗もなく飼い犬のように従う朝日新聞の姿も明らかになった。

  権力に迎合する新聞が失う最大のものは、新聞を信頼して応援するつもりで購読している<読者の信用>である。俺はこれまで何度も襲来する読売新聞等の厚かましい勧誘を断り続けて朝日新聞を取ってきた<コアな購読者>だと思っている。しかし、ここまで裏切られ、馬鹿にされて、繰り返し踏みにじられ続けるとさすがに嫌気がさしている。読売・産経と全く変わらないではないか!アイデンティティを捨てた新聞に用はない。裏切られてまで購読する義理は全くない。

  実を言えば、俺が今新聞を取り続ける最大の動機は、新聞に挟まれている「折り込みチラシ」である。これで妻が安く買い物することで幾ばくかのお金が浮く。その浮いたお金で朝日新聞を飼っている、もとい買っていると言っても過言でない。しかし、反感・憎悪を覚えさせられながら軽蔑する新聞を購読し続けるいわれは全くない。本当に欲しい情報、信頼できる情報はネットで得られるのだから。

  俺が朝日新聞を取ることをやめた時、朝日新聞は一人の読者を失うだけだと甘く見るなら間違いだ。俺にも数十人(百人以上?)ぐらいへの影響力はある。今後、俺が朝日新聞をやめたとすれば、「読売・産経と変わらない腐り切った朝日新聞なんて購読する必要はない」と周りの人間に伝えていくつもりだ。<コアな読者>層を裏切り馬鹿にして、権力にすり寄ることが如何に自殺行為であるかを思い知ればいい。
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161229 二年前:151227 一年前:4 032 米原万里「不実な美女か貞淑な醜女(ブス)か」(新潮文庫:1995) 感想 特々5

2016年12月29日 15時17分16秒 | 一年前
12月29日(木): ※以下に再掲しますm(_ _)m。

2014年12月25日(木):  

326ページ  所要時間 6:40   蔵書(2003年版:本体定価514円)

著者45歳(1950生まれ)。ロシア語通訳家。

 本書は、著者の15年間のロシア語通訳の経験をまとめて書き上げたものである。当時は、ソビエト連邦崩壊期であり、ゴルバチョフからエリツィンへと権力が奪取されていく時期でもあり、世界のニュースがソビエト、ロシアに集中している時期である。著者をはじめロシア語通訳は、完全に需要がキャパを超えていて、死に絶えようとするほどに忙殺されていた。

 そんな中書かれた本書は、サービス精神旺盛で、とにかく笑わせてくれる。本文中に「キンタマのしわを云々」といった類のシモネッタ言葉・エピソードが繰り返し堂々出てくる。でも、面白さを追求した本かと言うとさにあらず。この本ほど、ためになり、かつ他所で話したくなるような知識、逸話、冗談、小話に満ち満ちた本は最近読んだ記憶がない。通訳は否応なく言葉(遊び)の達人になる。通訳ほどスリリングで遣り甲斐のある仕事はない。「通訳と乞食(ママ)は三日やったらやめられない」

 本書は、通訳を志す人々、通訳に関心を持つ人びとに対して、本当に実のある入門書になっている、と同時に完成の無い職人芸としての通訳の真髄を披歴する書になっている。一見、よく似た行為に見える通訳と翻訳が如何に異なるものであるかが詳説された上で、通訳者にとって、翻訳活動を行うことが通訳技術向上に必要であることも述べられている。また、英米語一極集中に対して、それが如何に危ういことであるか。英語以外にもう一つ外国語を習得するべきだと警鐘を鳴らしている。また、「結局、外国語を学ぶということは母国語を豊かにすることであり、母国語を学ぶということは外国語を豊かにすることなのである。287ページ」と母語教育の重要性を主張する正統派である。俺は、本書の内容すべてに共感できた。その意味で、本書は、大いなる良識の書であると言える。

 すごく興味深くて、読み甲斐があるだけで感想は特5であるが、本書は、その上に俺をげらげらと笑わせてくれた分が加算されて、珍しい感想 特々5となった。本書には、筋の通った反骨と<哄笑文学>の要素が色濃い。「笑ってもらってナンボ。けど、弱いもんいじめはせえへんで!」というおおらかでどっしりとした精神が、繊細だけど図太い知性で覆われている。本書が処女作だなんて正直信じられない思いである。「米原万里に、ハズレ無し」の印象が出てきた。

 最後に、本書の中に、井上ひさし「吉里吉里人」の翻訳の可能性が論じられていたのにはのけぞった。「吉里吉里人」を読んでいた時、俺は「村上春樹よりも井上ひさしの方が、ずっと上だと思うが、井上ひさしの「吉里吉里人」だけは、外国語に翻訳されることはありえない」と嘆いていたものだが、まさか、その翻訳の可能性を論じる人間が存在するとは、驚き以外の何ものでもなかった。

 まあ、稀有なテキストである騙されたと思って読んでみて下さい。気の利いた小話を取得できますよ。そして、世間で小さな才を振り回して威張っている連中が本当に小さく見えます。例えば、百田某など。人間謙虚が一番!

目次:
プロローグ 通訳=売春婦論の顛末
第1章 通訳翻訳は同じ穴の狢か―通訳と翻訳に共通する三大特徴
第2章 狸と狢以上の違い―通訳と翻訳の間に横たわる巨大な溝
第3章 不実な美女か貞淑な醜女か
第4章 初めに文脈ありき
第5章 コミュニケーションという名の神に仕えて
エピローグ 頂上のない登山
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161229 2年前:1512111年前:141211内田樹:対米従属を自己目的化した歴史修正主義者たちが私的利益に走る恥ずかしい国

2016年12月29日 15時12分32秒 | 一年前
12月29日(木): ※以下に再掲しますm(_ _)m。

2014年12月11日
【内田樹の研究室】にまた良い論考が載っていた。スパッと乱麻を断つお話である。この先生の話は、突飛なことではない。自分が感じている当り前のことを「それでいいんだ!」とわかりやすく腑分けして語りかけてくれる感じである。とにかく歯切れがよい。しかも引用掲載フリー!である。今回の論考を読んで、大岡昇平の「レイテ戦記」を読んで、あの戦争の悲惨さを疑似体験したことは、大変重要な経験だったと思った。以下、掲載する。

【内田樹の研究室】2014.12.10
週刊プレイボーイインタビュー記事

週刊プレイボーイから『街場の戦争論』についてのインタビューを受けた。
かなり長い行数を割いてくれたので、こちらに転載。

“本”人襲撃でも以前取り上げた白井聡氏の『永続敗戦論』や赤坂真理氏の『愛と暴力の戦後とその後』、そして矢部宏治氏の『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』など、ここ最近、日本の戦後史を再検証する本が数多く出版され、大きな注目を集めている。
今回紹介する内田樹氏の最新刊『街場の戦争論』もまた、「日本の戦後史」や日本人の「戦争観」に、独自の角度から切り込んだ、話題の一冊だ。
現代フランス哲学の研究者でありながら武道家としての顔も持つ内田氏は、昨年末から今秋にかけて10冊以上という驚異的なペースで著書を刊行するが、なぜ今、「戦争論」をテーマに選んだのか? 神戸にある自宅兼道場「凱風館」で話を聞いた。

黙して語らぬ戦中派と断絶された歴史の罠

――『街場の……』シリーズや、憲法論など、このところ立て続けに新刊を出されている内田さんですが、今回はなぜ「戦争論」なのでしょう?

内田 僕たちが今いるのは、ふたつの戦争、「日本が負けた先の戦争」と「これから起こる次の戦争」に挟まれた「戦争間期」なのではないかという気がなんとなくしています。実際に、近年に僕よりずっと若い書き手たち、例えば白井聡、赤坂真理、中島岳志、片山杜秀といった方たちが申し合わせたように「先の戦争の負け方」について独自の論考を展開している。現代日本の本質的な弱さを「戦争の負け方」の総括が間違っていたからではないかというのが彼らの問いかけだと思いますが、僕自身もそれを共有しています。
1950年生まれの僕は戦争を経験していませんが、戦争を経験してきたばかりの父親たち世代のたたずまいを記憶しています。「証人」として、戦争についての語る世代的な責務も感じています。

――世代的な責務とは?

内田 父親たちの世代、「戦中派」には「戦争経験について語らない」という一種「暗黙の了解」のようなものがあったように思います。戦地で実際に行なわれたことや見たことについては子どもたちには語らない。もとは「善意」から出たことだと思います。「戦争がどれほど醜悪で過酷なものか、自分たちがどれほど残酷で非情だったか、そういうことは子供たちには伝えまい。無言で墓場まで持って行こう。子供たちは無垢な戦後民主主義の申し子として未来の日本を担って欲しい」そういう思いだったのではないかと思います。だから「黙して語らず」を貫いたのだと思います。
しかし、そのせいで「戦争の記憶」は次世代に語り継がず、僕たち世代は戦争を「済んだこと、早く忘れるべきこと」として、戦争について深く踏み込んで総括する機会を逸してしまった。そのことの負の側面が、現代日本の足腰を致命的に劣化させている、そう感じます。
なぜ「戦中派」は戦争を語らなかったのか? あるいは語れなかったのか? そしてそれが戦後70年にどんな影響を与えたのか?世の中から「戦中派」がどんどんといなくなっている今、少なくとも「沈黙を貫いた父親世代」の屈託した表情だけは記憶している僕たちの世代が証人として、その〝沈黙の意味〟を再構成しなければならない、そう思ったのです。

――「戦争」が語り継がれなかったことによる歴史の断絶によって表面化した「負の側面」とは、具体的にどういうことですか?

内田 最も顕著なのは「歴史修正主義」の登場でしょう。これは日本に限らず、ドイツやフランスでも同じなのですが、戦争経験者世代が社会の第一線から退場しはじめると、どこでも「歴史修正主義者」が現れます。
彼らは歴史の「生き証人」がいなくなった頃を見計らって登場します。「戦中派の沈黙」ゆえに戦争の記憶が伝えられなかった戦後日本では、とりわけ歴史修正主義は暴威をふるいました。現場を見た生身の人間がいなくなった頃になって、断片的な文書だけに基づいて、戦争について言いたい放題の「事実」を語り出した。
従軍慰安婦の問題にしても、実際に戦地で慰安所に通っていた兵隊たちが生きていた間は「強制性はなかった」「軍は関与していない」などということをうるさく言い立てる人間はいなかった。慰安婦がどういう制度であるかを誰でも知っていたからです。
証人たちがいなくなった頃になってはじめて「慰安婦問題は捏造だ」と言い出した。ヨーロッパにも「極右」の政治家はいますけれど、安倍晋三のような極右が総理大臣になれたのは世界で日本だけでしょう。

――なぜそうなってしまったでしょう?

もともとの自民党はイデオロギー政党ではありません。党内に極右からリベラルまで含んだ「国民政党」でした。国民の生活実感を汲み上げることで長期政権を保ってきた。
そして外交戦略は「対米従属を通じての対米自立」一本槍だった。従属することで主権を回復するというトリッキーな戦略ですが、それが戦後日本の戦略として最も合理的で現実的だったわけです。現に、その戦略のおかげで日本は敗戦から6年後にはサンフランシスコ講和条約で主権を回復し、1972年には沖縄返還で国土を回復した。対米従属は「引き合う」というのは自民政権の歴史的成功体験だったわけです。しかし、この成功体験への固執がそれから後の日本外交の劣化をもたらした。
沖縄返還後の42年間、日本はひたすら対米従属を続けましたが、何一つ回復できていない。世界中から「アメリカの属国」だと思われているけれど、その見返りに「対米自立」としてポイントを獲得できた外交的成果は一つもない。ゼロです。米軍基地は縮小も返還もされない。年次改革要望書を通じてアメリカは日本の政策全般についても細かい指示を続けている。
対米従属は本来は主権回復のための手段だったはずですが、それが三世代にわたって受け継がれているうちに「自己目的化」してしまった。対米従属を手際よく効率的にこなすことのできる人たちが政治家としても官僚としても学者としても「出世できる」システムが出来上がってしまった。
自民党が国民政党からイデオロギー政党に変質したことは、この「対米従属の自己目的化」の帰結だと僕は見ています。安倍首相はじめ対米従属路線の主導者たちがその見返りに求めているのは日本の国益の増大ではなく、彼らの私的な野心の達成や、個人資産の増大です。
今回の解散・総選挙はどのような国益にもかかわりがありません。政権の延命が最優先している。かつての自民党政権は列島住民の雇用を確保し、飯を食わせることを主務とする「国民政党」たらんとしていましたけれど、現在の自民党は限定された支配層の既得権益を維持するための政治装置に変質してしまいました。

――実際、日中関係や日韓関係はこじれたままですし、集団的自衛権の行使容認や秘密保護法の制定などで、日本が「戦争の出来る国」になろうとしているという声があります。近い将来、この国が「戦争」に巻き込まれる可能性はあるのでしょうか?

内田 現実的にはあり得ないと思います。安倍さんや石破さんは日本を「戦争の出来る国」にしようとしていますけれど、本気で戦争になるとは思っていません。一体どこと戦争するんです?
韓国には米韓相互防衛条約があります。今も韓国軍の戦時作戦統制権を持っているのは在韓米軍司令官です。日本と韓国が戦争するということはアメリカと戦争するということです。そんな覚悟がある人がいますか?
日中が戦争することをアメリカは全く望んでいません。
日本と中国が例えば尖閣問題で軍事衝突を起した場合、日本人は安保条約に基づく米軍の出動を期待しますが、アメリカは中国と戦争する気なんかない。だから、調停は試みるでしょうけれど、同盟軍として中国と戦うことはない。だから、何としても軍事的衝突そのものを事前に抑え込もうとする。
日本で対中国で好戦的な発言をしている人たちは、うしろから羽交い締めにされている酔っ払いが怒号しているようなものです。止めてもらえると思って安心しているので、威勢の良いことを言っていられるのです。
そもそも、安倍さんも石破さんも、今の日本の政治家に実際の戦争を指揮できるだけの基礎的な能力がありません。
戦争というのは国の根幹に関わる死活問題ですから50年後、100年後のこの国をどうするのかという長期的なヴィジョンがなくてはすまされない。ところが「領土」や「国威」にこだわるナショナリストたちの発想は、市場でのシェアを競争しているビジネスマンと同一の発想しかしていない。自分たちの「シェア」が増えたか減ったか、そういう二次元的な、空間的な数値の変化しか見ていない。経済戦争とほんとうの戦争を同じものだと思っている。株式会社の経営者の発想です。ビジネスマンに戦争ができるはずがない。

――つまり、本気で戦争をする気も、またその能力もない人たちが、この国を「戦争ができる国」にしようとしていると? 

彼らは戦争の生き証人である「戦中派」の退場を狙って、あるいは「語られなかった歴史」の断絶を利用して、知りもしない戦争を語り、自己都合で書き換えた歴史を信じさせようとしている。そして、その目的が国益の増大ではなく、私的利益の増大であることが問題なのです。
安倍さんたちが目指しているのは、北朝鮮とシンガポールを合わせたような国だと思います。
政治的には北朝鮮がモデルです。市民に政治的自由がなく、強権的な支配体制で、自前の核戦力があって国際社会に対して強面ができる国になりたいと思っている。
経済的な理想はシンガポールでしょう。国家目標が経済成長で、あらゆる社会制度が金儲けしやすいように設計されている国にしたい。
万が一、日中が戦争状態になったときに米軍が出動しなければ、日本はこれまでの対米従属の反動で、間違いなく極端な「反米」路線に走るでしょう。安保条約即時廃棄、米軍基地即時撤去となれば、日本はアメリカ、中国、韓国、ロシア、すべてを仮想敵国とみなすハリネズミのように好戦的な「先軍主義」の国になるしかない。先の世界大戦前と同じです。そういう北朝鮮のような国になることを無意識的に願っている日本人は少なくないと僕は思っています。

現実には「強い現実」と「弱い現実」がある

――一方、内田さんは今回の著書で、「もし、日本の敗戦が決定的となったミッドウェー海戦の直後にアメリカと講和を結んでいたら……」という仮定の下に、今とはまるで異なる「日本の戦後」があり得たと書かれています。そして「現実」には、この「もし」で大きく変わり得た「弱い現実」と、「何があっても、結局はこうなっただろう」という「強い現実」があるという視点を示されています。

内田 ミッドウェー海戦に敗れて太平洋戦争の帰趨がほぼ決した直後に、すでに吉田茂や木戸幸一は対米講和を考えていました。でも、ずるずるしているうちに機会を失した。
 もし44年までに対米講和が成っていれば、本土への空襲も、玉砕も、特攻もなく、広島や長崎への原爆の投下もなかったはずです。そう考えると今、我々が直面している現実も、過去の小さな「もし」によって、大きく違っていたかもしれない「弱い現実」だということがわかります。

――それが「弱い現実」である以上、我々の行動次第で変えることもできるということですか?

内田 歴史のなかに「もし」という視点を置くことで、少なくとも、「結局、日本はこうなるしかなかったんだ……」という宿命論からは逃がれられます。何かの要素がほんの少し違っていただけで「もっとましな今になっていたチャンスはあった」と考えることで、少しは希望が持てる。
もちろん、先の戦争が証明しているように、いくつかの「偶然」がもたらした「弱い現実」によって、国が壊滅的な危機に直面するということもあります。たとえそれが「弱い現実」であっても、ものを破壊することはできるからです。
安倍政権もそうです。歴史的必然性があって誕生したわけではない政権ですが、それでも日本社会の根幹部分を破壊するだけの力はある。でも、この痛ましい現実も、所詮は偶然が重なって生じた「弱い現実」に過ぎませんから、わずかの入力変化で大きく変化するでしょう。
目の前に迫った衆議院選もひとつの「分岐点」です。これが日本の歴史を大きく変える「節目」になる可能性はあると僕は思っています。
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161229 二年前:151228 一年前:141227閲覧数31万超え:報道ステ古舘伊知郎の口癖「待ったなし!」が独裁を呼び寄せる!

2016年12月29日 15時11分56秒 | 一年前
12月29日(木): ※再掲しますm(_ _)m。

2014年12月27日(土):記録ですm(_ _)m。ブログの開設から1176日。

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 最近気になっていることに、韓国で「用日」という言葉が使われ始めていることがある。「反日」「嫌日」だが、日本との経済関係なしではやっていけないから、「嫌いな日本を利用してやろうぜ!」という意味だそうだ。この言葉は、ファシスト安倍晋三が使っている「戦略的互恵関係」という誠意、知性のかけらもない下劣な言葉の韓国版だ。俺の敬愛する韓国が、安倍と同じ低レベルまでわざわざ堕ちてきて、「戦略的互恵関係」を真似た「用日」という下劣な言葉を使うのが悲しい。「戦略的互恵関係」や「用日」と言う言葉には、隣国同士が「誠心の交わり」を結ぶ意志をを捨てる、品の無い意味しかないのだ。安倍晋三という戦後史70年の鬼胎(鬼っ子)の低レベルに合わせて、韓国までが愚劣・下品になることは、本当に情けなく悲しいことだ。

※昨日読んだ内田樹「街場の戦争論」から少しだけ抜粋してみた。

・鳩山首相は「外国の軍隊が占拠している土地を日本に返してほしい」という当然の希望を述べただけです。でも、「そういうことを言って日米同盟関係の信頼を傷つけたことによって日本の国益を損なった」というロジックが連日メディアを賑わしました。アメリカの国益を損なう人間は日本の国益を損なう売国奴だという奇妙なロジックに対して誰も「変だ」と言わないことが「変だ」と僕は思います。/田中角栄の日中国交回復のときにホワイトハウスは激怒しました。そのときにも「田中おろし」に動いた政治家や官僚はいました。でも、さすがに「田中はアメリカの国益を損なうことで日本の国益を損なった」というような疑似論理を振り回す人はいなかった。少なくとも僕は見たことがありません。でも、今はそのような疑似論理が大新聞の社説に堂々と掲げられている。これは従属国民マインドが完成した徴候だと僕は思います。104ページ

・あらためて確認しておきますが、独裁というのは行政府への立法権の委譲のことです。別に「私は今日から独裁者になった。逆らう奴はぶち殺す」とかそういうシアトリカルな宣言とともに始まるものではありません。もっと日常的で、もっと非情緒的なものです。立法権を負託されたと行政府が自己判断し、立法府がこれまでのようにのろのろ合意形成をしていたのでは緊急時に対応できないという無能の判定を受け入れたときに独裁は開始される。行政府の全能化と立法府の無能化は表裏一体なのです。そして、合法的な緊急避難から超法規的独裁制への移行の間にデジタルな境界線はありません。気がついたら、なし崩し的に民主性が終わっていた。そういうものです。/ですから、緊急事態についての法整備を考えるとき最優先に考えるべきことは、「気がついたらなし崩し的に民主制が終わっていた」ということにならないためにどのような手立てが講じられるかという点なのです。言いかえると、略、「緊急事態宣言が恒久化するせいで国民が受ける被害」が「緊急事態に対処できないせいで国民が受ける被害」よりも決して大きくならないようにするためにはどういう仕組みを作っておくか、ということなのです。略。憲法停止についてのただひとつの「頭を使う箇所」です。/略、緊急事態に対処できるような法整備というものは実は存在しません。128ページ


*報道ステーション古舘伊知郎の口癖「待ったなし!」が、前から気になっていた理由がようやくわかった。彼が、「待ったなし!」を連呼することによって、立法府である国会の存在をまどろっこしいという強迫観念が視聴者に刷り込まれていくのだ。「時間がない!」とせき立てられることによって国民(市民)は、立法府の議論を軽んじて、行政府の独断・暴走を受け入れる素地が社会全体に作り上げられるのだ。
 大事な問題は、「待ったなし!」の拙速ではダメなのだ! 国権の最高機関は、内閣ではなく、国会である!

・経済成長率の高い世界の国々のリストを見ればわかります。
 以下、2013年:1位南スーダン、2位シェラレオネ、3位パラグアイ、4位モンゴル、5位キルギス
 今の政権は経済成長のことばかり問題にして、定常的に確保されている国民資源については何も語らない。フローの話だけして、ストックについては言及しない。でも、日本は世界でも例外的に豊かな国民資源に恵まれている。たとえば、森林資源、水源、大気、治安、医療、教育、ライフライン、交通網、通信網そういうものが整備されているおかげで僕たちは無用の出費をせずにすんでいるわけです。/でも経済成長のためには「安定したストックがある」ことはむしろ邪魔になる。たとえば、日本は治安がよいわけですが、これを治安が悪い状態(たとえばテロのリスクがある状態)にすれば、人々は金を出して安全を買わなければならなくなる。略。シニカルな話ですけれど、どうしても経済成長したければ、それまで無償かそれに近い低コストで享受できていたサービスを商品化して史上で買うほかないようにするのがもっとも安直な方法なのです。248~250ページ


*そう言えば、アベノミクスと安倍自民がこの2年間めざしてきたことは、日本が長年蓄積、築き上げてきた当り前の国民財産を破壊してお金に換えることばかりだ、と俺も思う。
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6 016 隅谷三喜男「日本の歴史 22大日本帝国の試煉」(中央公論社:1965) 感想 特5

2016年12月29日 03時39分52秒 | 一日一冊読書開始
12月28日(水):  

474ページ   所要時間11:40    蔵書(1990年18版の文庫本)

著者49歳(1916-2003:86歳)。日本の経済学者。専門は労働経済学。1982年日本学士院会員。東京大学名誉教授、北京大学名誉教授、遼寧大学名誉教授、東北師範大学名誉教授、中国社会科学院名誉高級研究員。昭和36年、東京大学経済学博士。博士論文は「日本賃労働史論」。キリスト教功労者。 ※ウソかホントか知らないが、昭和30年代五味川純平の空前のベストセラー『人間の条件』のモデルだったとか…。

  3か月ほど前に360ページ(5:20)までたくさん付箋をしながら流し読みをしていたが、残り100ページで放置してしまっていた。今日改めて読み継ぐにあたり、1ページ15秒のペースで初めから眺め直しにかかったが、まるで初めて読む本のような印象で「この付箋は何だったんだ」と焦らされた。もちろん1ページ15秒なんてペースは無理だし、流れは分かっているが細かい部分については読み切れない。今日の再読は、6:20を要したので、合計11:40である。

  本書はテキストである。目次は、日清戦争(1894)から始まり、日本帝国の明暗、産業革命、労働運動の初幕、内地雑居、藩閥・政党・政商、社会主義への歩み、考えるホワイトカラー、東亜の嵐、日露戦争、反戦の闘い、勝利の悲哀、「普請中」の日本、三井と三菱、日韓併合、大逆事件、明治の終焉(1912)で終わる。改めて見れば、わずか18年間の短い期間だが、内容はとっても盛沢山だった気がする。激動の時代だったのだ。最後は、明治天皇の死ではなく、大正2年(1913)9月4日の田中正造翁の死で締め括られている。小村寿太郎と原敬と社会主義者たち、及び韓国併合の過程が特に印象に残っている。幸徳秋水は、思っていた以上に激しく生きていた。大逆事件での徳富蘆花の「謀反論」もよかった。

  この中央公論社「日本の歴史」シリーズは、戦後歴史学の記念碑的シリーズであり、名著が多い。戦後20年(1965)頃記されたものであり、明治以降の近現代史の巻々は、戦後71年の現代では望めない、戦争の時代を肌身に感じ、実際に生き抜いてきた著者たちのリアルな感性が記述に息づいている。近代史における戦争に対する痛切な反省を持した世代による歴史はやはり良い内容だと素直に感じることができる。歴史書というものが、新しいほど良くて、古ければ価値を失うというわけではないことを今回も再認識できた。伊藤博文と李鴻章、伊藤博文と山県有朋、伊藤博文と大韓帝国皇帝高宗、伊藤博文と明治天皇、原敬日記など当時の臨場感に富む記述が多く、難しくはないが詳細で丁寧な記述が良い。

  読みながら、たった一人の著者が、これだけ複雑な時代を描き切るのは並大抵ではないとつくづく思ったが、逆に一人の著者が書き切っているからこそ、継ぎ接ぎではない全体としてまとまった歴史になっている。これ一冊あれば、この時代の情報はほぼほぼいい感じで手に入るようになっている。

  著者は、明治天皇をカリスマ天皇と位置付け、天皇亡き後に備えることが山県を中心とする官僚勢力にとって大きな課題であったとする。明治帝亡き後、どんな人間が天皇になっても大丈夫なように、天皇と国民の距離を大きく引き離して、儀式と儀礼のかなたに天皇の存在を消し去ろうとしていた動きを記している。これなどは、カリスマ性を帯び始めた平成の天皇を国民から切り離し奥御殿の中に閉じ込めようとする安倍晋三の姿と重なる。

  あくまでも人間の風景としてだが、山県有朋と安倍晋三は、コンプレックスからくる権力への執着や、陰湿な人間性がよく似ている。俺は大嫌いだ。その点、伊藤博文は明るくて、風通しと見晴らしがよくて良い。安重根による3発の銃弾による死は伊藤自身にとっては人生の完結として良かった気がする。

  第二次山県内閣における軍部大臣現役武官制の記述が見当たらないことだけが気になって不満が残った。俺の見落としか?

【裏表紙紹介文】富国強兵策により急激な近代化と工業化を推進した日本は、国運を賭した日清・日露の両戦役に勝って列強の仲間入りを果たす。だが、そこに成立した大日本帝国はしだいに民衆との亀裂を深め、深刻な危機に直面する。この危機に対する体制再編の過程で、明治は幕を閉じる…。
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161228 一年前:5 045 みなもと太郎「風雲児たち16 尊号問題興亡」(潮出版社・希望コミックス184:1989)感想4+

2016年12月29日 01時26分55秒 | 一年前
12月28日(水):
5 045 みなもと太郎「風雲児たち16 尊号問題興亡」(潮出版社・希望コミックス184:1989)感想4+
10月25日(日):           205ページ    所要時間 1:40      蔵書 著者42歳(1947生まれ)。漫画家。 どうも読書のカウントにマンガ本......

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150329 タガ外せば歯止め失う 長谷部恭男・早稲田大学教授/「未来志向」は現実逃避 杉田敦・法政大学教授

 杉田 先日ドイツのメルケル首相が来日しました。戦後ドイツも様々な問題を抱えていますが、過去への反省と謝罪という「建前」を大切にし続けることで、国際的に発言力を強めてきた経緯がある。「建前」がソフトパワーにつながることを安倍さんたちは理解しているのでしょうか。  / /長谷部 そもそも談話が扱っているのは、学問的な歴史の問題ではなく、人々の情念が絡まる記憶の問題です。記念碑や記念館、映画に結実するもので、証拠の有無や正確性をいくら詰めても、決着はつかない。厳密な歴史のレベルで、仮に日本側が中国や韓国の主張に反証できたとしても、問題はむしろこじれる。相手を論破して済む話ではないから、お互いがなんとか折り合いのつく範囲内に収めようと政治的な判断をした。それが河野談話です。  / /杉田 談話の方向性や近隣との外交について「未来志向」という言い方がよくされますが、意図はどうあれ、それが過去の軽視という「見かけ」をもってしまえば、負の効果は計り知れない。安倍さんたちは、未来を向いて過去を振り払えば、政治的な自由度が高まると思っているのかもしれません。しかし政治の存在意義は様々な制約を踏まえつつ、何とか解を見いだしていくところにあります。政治的な閉塞(へいそく)感が強まる中で、自らに課せられているタガを外そうという動きが出てくる。しかし、それで万事うまくいくというのは、一種の現実逃避では。  / /長谷部 合理的な自己拘束という概念が吹っ飛んでしまっている印象です。縛られることによってより力を発揮できることがある。俳句は5・7・5と型が決まっているからこそ発想力が鍛えられる。しかし安倍さんたちは選挙に勝った自分たちは何にも縛られない、「建前」も法律も憲法解釈もすべて操作できると考えているようです。  / /杉田 俳句は好きな字数でよめばいいのだと。  / /長谷部 あらゆるタガをはずせば、短期的には楽になるかもしれません。しかし、次に政権が交代したとき、自分たちが時の政府を踏みとどまらせる歯止めもなくなる。外国の要求を、憲法の拘束があるからと断ることもできない。最後の最後、ここぞという時のよりどころが失われてしまう。その怖さを、安倍さんたちは自覚すべきです。 =敬称略(構成・高橋純子)朝日新聞『考論』

0015 オルテガ「大衆の反逆 (桑名一博訳;久野収解説)」(白水社イデー選書;1930)評価5

以下は、オルテガ所論の久野収による抜粋の抜粋である:///  オルテガによれば、政治のなかで「共存」への意志を最強力に表明し、実行していく政治スタイルこそ、自由主義的デモクラシーである。共存は、強い多数者が弱い少数者に喜んで提供する自己主張、他者説得の権利である。敵、それも最も弱い敵とさえ、積極的に共存するという、ゆるがない決意である。/その意味で、人類の自然的傾向に逆行する深いパラドックス(逆説)であるから、共存を決意した人類が、困難に面してこの決意を投げ出すほうへ後退したとしても、それは大きな悲劇ではあっても、大きな不思議とするには当たらない。/「敵と共存し、反対者と共に政治をおこなう」という意志と制度に背を向ける国家と国民が、ますます多くなっていく1930年代、オルテガは、「均質」化された「大衆」人間の直接行動こそが、あらゆる支配権力をして、反対派を圧迫させ、消滅させていく動力になるのだという。なぜなら、「大衆」人間は、自分たちと異類の非大衆人間との共存を全然望んでいないからである。略。///  「大衆」人間は、自分たちの生存の容易さ、豊かさ,無限界さを疑わない実感をもち、自己肯定と自己満足の結果として、他人に耳を貸さず、自分の意見を疑わず、自閉的となって、他人の存在そのものを考慮しなくなってしまう。そして彼と彼の同類しかいないかのように振舞ってしまう。/彼らは、配慮も、内省も、手続きも、遠慮もなしに、「直接行動」の方式に従って、自分たちの低俗な画一的意見をだれかれの区別なく、押しつけて、しかも押しつけの自覚さえもっていない。/彼らは、未開人―未開人は宗教、タブー、伝統、習慣といった社会的法廷の従順な信者である―ではなく、まさに文明の洗礼を受けた野蛮人である。文明の生み出した余裕、すなわち、贅沢、快適、安全、便益の側面だけの継承者であり、正常な生存の様式から見れば、奇形としかいいようのないライフスタイルを営んでいる新人類である。略。///  「自分がしたいことをするためにこの世に生まれあわせて来た」とする傾向、だから「したいことは何でもできる」とする信仰は、自由主義の自由の裏面、義務と責任を免除してもらう自由にほかならない。/われわれは自由主義の生みだした、この「大衆」人間的自由、自己中心的自由に対し、他者と共存する義務と責任をもった自由を保全しなければならないが、一筋縄でいかないのは、この仕事である。(160626:イギリスEU離脱について思うところ=もみ=)