シャンソン歌手リリ・レイLILI LEY ヤマハのグランドピアノのあるシャンソン稽古場
私が 三歳からピアノを習い始めた時
世田谷区 上馬の我が家は
縦型ピアノでした。
習い始めて一年後
四歳の時の 銀座のガスホールでの発表会は
グランドピアノで弾いたわけです。
足がぶらぶら状態です。
暗譜で ちょうちょちょうちょ 菜の葉に止まれーー
簡単な そみみ ふぁれれ どれみふぁそそそ
両手で暗譜。
それから ほぼ60年
もう 今は クラシックのピアノ曲は全く弾かず
シャンソンの伴奏を コードナンバーで
即興で弾くか
ジャズのコードの 転回を 練習で ちょこっと弾くかーー
ですので
流麗な技巧的ピアノ演奏など まったく不可能です。
我が家の お向かいの奥様の ピアノ演奏に
いつも 癒され憧れています。
かつて 私が弾いていた
バッハや モーツァルトソナタやショパンなどの
ピアノ曲を 楽譜通りに演奏をするなら
毎日 数時間練習して
先生に習って 数年修行しないと
とても 大学生の時の様には弾けません。
もう その気力も無く 無理です。
基本的な 音階のスケールは 芸大受験の時は
全調 単調も含めて
すらすら 弾けていたけれど
確か 毎晩 高校から帰って 二時間位
練習していた記憶があります。
あのころが 私の人生歴史では ピアノが一番上手かった
時代です。
筋肉の質も 脳内のパワーも若かったからねぇ。
藝大二年生までは ピアノレッスンは大学の必修でした。
でも 担当教官が 恐ろしく怖い女史でしたので
三年生の時も 続けて良かったのに
バイトと遊びに忙しくなり
怖い女史とも 会いたくなくて
私の ピアノ習得は 終わりにしてしまいました。
今 ジャズピアノを習っているのは
あれ以来はじめての ピアノレッスンです。
そして
芸は 身を助けるーーーー
大学一年の終わりに 我が父に 勘当されて
喜んで 勘当されて 自由に羽ばたき
友達の紹介で 銀座のクラブのピアノ弾きを
毎晩 週五日
アルパイトして
とても リッチでした。アルバイト貴族。
あまりに 良く働き 自分のお金で遊び 部屋も借りて
オートバイに乗り スキーもして
自由恋愛しつくした大学生時代。
大学院に落ちたー程ですから。
でも 大学院浪人をして 結婚して
毎晩夜 ピアノ弾きをしなくなり
ピアノの腕は 落ちましたけれど
そのかわり ピアノを子供に教え
15人位 お弟子さんを持ちました。
大学院には 受かって 奨学金ももらえて
歌手の道を まっしぐらーーー
その頃 私は芸大生の特権で免税でグランドピアノ
ヤマハC3を 買って そのピアノで 自宅で子供たちに
ピアノを 教えていました。黒いグランドピアノでした。
そのグランドピアノを成城の自宅に置いて
留学して
ベルギーでは
訳のわからない名前のブランドのグランドピアノを
賃貸していました。
その頃は ベルギー人にソルフェージュや
声楽を教え
日本人達にも 声楽を教えたり
美大生を雇い絵画教室を 開催し
音楽教室の
発表会も 現地で開催していました。
留学から帰国して 父の会社を継いだとき
黒いヤマハグランドピアノC3は 売りました。
音楽と決別して
慣れない損益分岐表バランスシート
に没頭して
経営に邁進するためでした。
でも 何故か 父の店 五件の中の
一件 高級クラブには ヤマハのグランドピアノがあり
店にはピアノの先生が専属で雇われていて
結局 またまた 父の命令で
その店で 毎夜 歌手として
私は ポピュラーやシャンソンを
歌う事になるから
運命は不思議ですよ。
そして
シャンソン歌手になってしまったから 不思議。
今から24年前のお話です。38才。
心は老けた気がしていたけれど 今から思えば若かったのね。
私が 三歳からピアノを習い始めた時
世田谷区 上馬の我が家は
縦型ピアノでした。
習い始めて一年後
四歳の時の 銀座のガスホールでの発表会は
グランドピアノで弾いたわけです。
足がぶらぶら状態です。
暗譜で ちょうちょちょうちょ 菜の葉に止まれーー
簡単な そみみ ふぁれれ どれみふぁそそそ
両手で暗譜。
それから ほぼ60年
もう 今は クラシックのピアノ曲は全く弾かず
シャンソンの伴奏を コードナンバーで
即興で弾くか
ジャズのコードの 転回を 練習で ちょこっと弾くかーー
ですので
流麗な技巧的ピアノ演奏など まったく不可能です。
我が家の お向かいの奥様の ピアノ演奏に
いつも 癒され憧れています。
かつて 私が弾いていた
バッハや モーツァルトソナタやショパンなどの
ピアノ曲を 楽譜通りに演奏をするなら
毎日 数時間練習して
先生に習って 数年修行しないと
とても 大学生の時の様には弾けません。
もう その気力も無く 無理です。
基本的な 音階のスケールは 芸大受験の時は
全調 単調も含めて
すらすら 弾けていたけれど
確か 毎晩 高校から帰って 二時間位
練習していた記憶があります。
あのころが 私の人生歴史では ピアノが一番上手かった
時代です。
筋肉の質も 脳内のパワーも若かったからねぇ。
藝大二年生までは ピアノレッスンは大学の必修でした。
でも 担当教官が 恐ろしく怖い女史でしたので
三年生の時も 続けて良かったのに
バイトと遊びに忙しくなり
怖い女史とも 会いたくなくて
私の ピアノ習得は 終わりにしてしまいました。
今 ジャズピアノを習っているのは
あれ以来はじめての ピアノレッスンです。
そして
芸は 身を助けるーーーー
大学一年の終わりに 我が父に 勘当されて
喜んで 勘当されて 自由に羽ばたき
友達の紹介で 銀座のクラブのピアノ弾きを
毎晩 週五日
アルパイトして
とても リッチでした。アルバイト貴族。
あまりに 良く働き 自分のお金で遊び 部屋も借りて
オートバイに乗り スキーもして
自由恋愛しつくした大学生時代。
大学院に落ちたー程ですから。
でも 大学院浪人をして 結婚して
毎晩夜 ピアノ弾きをしなくなり
ピアノの腕は 落ちましたけれど
そのかわり ピアノを子供に教え
15人位 お弟子さんを持ちました。
大学院には 受かって 奨学金ももらえて
歌手の道を まっしぐらーーー
その頃 私は芸大生の特権で免税でグランドピアノ
ヤマハC3を 買って そのピアノで 自宅で子供たちに
ピアノを 教えていました。黒いグランドピアノでした。
そのグランドピアノを成城の自宅に置いて
留学して
ベルギーでは
訳のわからない名前のブランドのグランドピアノを
賃貸していました。
その頃は ベルギー人にソルフェージュや
声楽を教え
日本人達にも 声楽を教えたり
美大生を雇い絵画教室を 開催し
音楽教室の
発表会も 現地で開催していました。
留学から帰国して 父の会社を継いだとき
黒いヤマハグランドピアノC3は 売りました。
音楽と決別して
慣れない損益分岐表バランスシート
に没頭して
経営に邁進するためでした。
でも 何故か 父の店 五件の中の
一件 高級クラブには ヤマハのグランドピアノがあり
店にはピアノの先生が専属で雇われていて
結局 またまた 父の命令で
その店で 毎夜 歌手として
私は ポピュラーやシャンソンを
歌う事になるから
運命は不思議ですよ。
そして
シャンソン歌手になってしまったから 不思議。
今から24年前のお話です。38才。
心は老けた気がしていたけれど 今から思えば若かったのね。