シャンソン歌手

シャンソンの好きな方 ようこそ !

シャンソン歌手リリ・レイ ブリュッセルで FRANCE2 テレビを見る

2015年01月05日 09時21分23秒 | Weblog
シャンソン歌手リリ・レイ ブリュッセルで FRANCE2 テレビを見る


深夜1時
昨晩とは違う国 違う場所で 同じテレビ フランス2チャンネルを
見ています。

本日の私の家
今のテレビで シャンソン歌手ザーズが出ていました。
彼女のお母さんが 音楽教師なので
自然に歌手になったと 言っていました。

東京の赤坂で
ザーズを聞いた時 あまりの電子音の強さで
心臓が痛くて 三曲で 劇場を出た記憶がありますけれど
今 テレビで聞いたら 結構ジャズアレンジのシャンソン
絶叫系パワフル歌唱は 悪くなかったですよ。

フランスのテレビ番組は
年末年始の 深夜
有名なシャンソン歌手や 知らないヒットメーカー
歌手達若手も沢山聞けます。

色々なタイプが 人まねでなく存在感を披露してくれて
とても 楽しいですね。
ブリュッセルで フランス番組を見て
孤独感を 取り払い・・・

明日から 勉強しなきゃー・・・
といっても
島国 日本を離れ この西洋音楽
本場 場地に身を置くことが
私にとっては 全て エネルギー栄養供給です。

だからと言って
今更 何になりたいわけでも
何をしたいわけでも無く

長南さんから
「あなたみたいに 欲の無い人は 居ないですよ。
皆 売込みしてばかりですよ。」
と 言われても
私は
永遠に 自分に自信のある歌手にはなれない・・・
何故か シャンソン歌手としての自信 が無い。

フランスや ベルギーで シャンソン歌手達を聞くたびに
舞台鑑賞する度に

私のフランス語も
私の音楽性も
私の 表現力も
私の 容姿 背の高さも
全部全部 コンプレックスの塊になり

私って 舞台で歌う事自体が 間違っているのじゃないかしら?
と感じちゃうのです。

でも
YVONに リリの声質に合った
歌ってほしいシャンソンが
これこれ あれあれ・・・と スマートフォンで
ユーチューブ聞かせてもらったり
知らないシャンソンを教えられたいすると

いつの間にか また沢山知らない曲を
練習して歌いたいなーなんて 思ったりもします。

私の孤独の友が シャンソンの稽古や練習で
孤独は そういう意味で
若かりし頃の留学の時から
運命的に付きまとって 離れてくれない。

一人きり・・・その自由があるから どっぷり
人生もシャンソンも 人間の本能も
歓喜 苦悩と共に 味わえるわけだけれど

人生の味かぁー
今夜は 苦い80%カカオのビターチョコ
昨晩は 甘いマカロンだったけれど

昔の苦みは 泥の味だったから それよりビターチョコは
マシよ。
でも 愛の歓喜は 脳天が痺れる三ツ星のデザート風

つまり 天国と地獄
陰と陽
山あれば谷あり

ブリュッセルの10日間 
友達が数人いるので 連絡してみよー
孤独過ぎて 滅入リ過ぎも・・・ねぇ
ほどほどに・・・

住めば都で 既にブリュッセルのアバルトが
肌に馴染み 気に入ってきました。
ベットルーム大きい方は 鈴村家用です。

シャンソン歌手リリ・レイLILI LEY 歌手の胸り痛み

2015年01月05日 06時33分47秒 | Weblog
シャンソン歌手リリ・レイLILI LEY 歌手の胸り痛み


胸が痛くて 苦しくて 呼吸困難になりかける程
歩いていても 運転していても
気絶しそう。

ベルギーでの思い出に
楽しいことが 蘇らないわー

でも 乗り越えなくては・・・
懐かしいし 有難いし
今の私は 幸福を売るシャンソン歌手なのだから・・・

この15年間以上
PARISにばかり行き続けてきて良かったわ。

やはり
私の心の病
音楽と 恋愛の心の病は
重症すぎて
胸が 痛すぎる。

あーあーあー
それに
モンスからベルギーまで 夕方四時なのに
霧が立ち込めて
高速道路は 真っ白で 雲の中を走っているみたい。

突然に 晴れた頃は
私が
二年間くらい
住んでいた街 WATERLOOワーテルロー

ナポレオンで有名な戦地ですが
ライオンが乗った 小高い丘が有名な場所です。
そこに
初めてベルギーに着いた日に
伴奏者レダエリ氏夫妻が 連れてきてくださったわ。

そこから
少し町の中心地に行くと
ワーテルローは ブリュッセルから15キロの郊外で
シックな 高級な 広いVILLAばかりが
ある地域です。

もうレダエリ夫妻は亡くなりましたから
家は
銀行のモノになってしまったはずです。

最近日本でもあるシステムで
亡くなるまで 家を担保に銀行が
金銭貸与してくれるという・・・
他の誰かが買って
違う人が住んでいるのかしら???

1000坪はあるVILLA(前庭と後ろ庭のある 大きな一軒家を
こちらでは ヴィラと言います)

マイカーだった若かりし時代の記憶を頼り
懐かしい 家へ・・尋ねてみたら
静かな空家 しーんと 静まり返っていました。

2014年の七月 NHKホール
パリ祭 舞台の楽屋に私が バタバタしていた時

ベルギーのキャリヌから国際電話を受け
レダエリ氏の奥方 ジュリエンヌが 亡くなったと
連絡があったから
もう あの家の思い出も 
ノスタルジー 

何故 三十年前の記憶 声が 鮮明に蘇るのだろう

私は 現在に生きているのよ。
でも あの時代が 私を 作ったのだから。
あの時代無しに 私の存在は無い。

ワーテルロー AVENUE DES CHASSEURS 110番地
煙草を吸いながら 夕暮れの五時
深い深呼吸をしました。

有難う 私のベルギー 私の過去 私の音楽の故郷・・
感謝の言葉しか 見つかりません。
亡くなったレダエリ夫妻 ありがとう。
伴奏者ROBERT REDAELLI ・・・・・ロベール・・・懐かしいわ。 

胸が 押しつぶされたまま
呼吸困難のまま
ブリュッセルの北 アパートに着きました。
ナビが 全くチンプンカンプンなので
携帯で連絡して
MADOU の広場まで迎えに来てもらいました。

大きな広いアパートです。
パリのアバルトより 淋しげな大きな空間。
孤独感が 襲います。
能天気な私が 見つからない。
何なのかしら・・・・

空には満月。気温は夜 三度。
室内はポカポカ

荷物も 収めて パソコンも繋がりました。
コーヒーメーカーがあり
テレビは 勿論フランス放送が見れます。

でも 胸が締め付けられます。
ブリュッセルは 晴れているのに
心に雨が降ります。
雨ではなく 嵐かもしれません。

夜十時半です。


シャンソン歌手リリ・レイLILI LEY 長坂玲の心の故郷ベルギー

2015年01月05日 04時57分27秒 | Weblog
シャンソン歌手リリ・レイLILI LEY 長坂玲の心の故郷ベルギー


パリから北へ 約300キロ
昼間12時に パリの部屋をチェックアウトして
冷蔵庫の中のものを ウドンコさんがパリに
居て 使ってくださるので
それらを無駄にすることも無く
ウドンコさんが 朝いらしてくださいました。

ウドンコさんも アバルトメントの管理人の
お兄さんと 一緒に 四階から
階段で
大荷物を 降ろしたり 車のトランクに
入れたり ありがたい出発・・・

レンタル ベンツに ボストンバック二つ
手荷物一つ キーボードを のせて
私の第二の故郷 ブリュッセルへ・・・いざGOGO

レンタカーは10年ぶりくらい・・・
車は進化していて
ナビなど 最新なので バックする時は
画像が写ったり
車間距離が狭いと 警告してくれるので
便利なのですが

ナビが解らない 全然 ちんぷんかんぷん・・・
ナビは 英語を話し出すし
地図が出て ボタンを色々探していたら
何故か
住んでいたアパートを記憶して
ナビは ずーっと パリの我が家マレへ向かう
道案内を しつこく
英語で アナウンスばかりするので

ベルギーへは ナビなしで 着きました。
苦労しました。ふーはーふーはー
感だけの勝負だわー 原始的な私。

国境を越えて直ぐに
MONSモンスという街があり
フランス語圏
そこのコンセルバトワール王立音楽院で
私は オペラの ディプロマをとったので
懐かしい 学びの故郷です。


高速道路をおりて
30年ぶりに このモンスの街を歩きました。
午後三時ごろ
この町にもGRAND PLACE グランプラスという広場があり
クリスマスの施しがしてあり
街のおじさんたちが 音楽を演奏していたり
臨時スケート場で きゃーきゃー 皆が滑っていました。


気温は三度位ですが
本日も太陽が燦々と 照っていて
風も無くて 暖かく感じます。

胸が苦しい位に 懐かしくて・・・

ここモンスのコンセルバトワールには
ミシェル トランポンという バリトンの世界的な
歌手が オペラ科のクラスの先生でしたので
その時代 オペラを将来したい学生たちの
人気クラス。

一年でプルミエルプリ そのあと二年間で
スーペリアプリをとり
トランポン先生と フランスの
リオン歌劇場にオーディションに行ったり

パリのオペラコミックに オーディションに行ったり
私以外にも
オペラクラスで ソプラノ イザベル カバツという
美人の黒人ハーフのベルギー人
と 名前を忘れたけれど テノールとバリトン
合計四人が推薦されて
いつも一緒に 劇場に受けに行ったり・・・

そり他 あちらこちら オーディションに推薦してくれ
30代の私は 必死で あちらこちら
受けに行きましたけれど
なかなか 歌劇場には受からないので
毎度 失意でした。

イザベル カバツは 今現在大歌手で世界的なソプラノに
なって ユーチューブでも 見ました。

私は 当時 リエージュの歌劇場だけは 
ベルギーの歌劇場では
一応合格したのですが
一度も 役を貰えなかったです。

日本人の国籍の私は 外人ですから
余程 凄い魅力が無いと
雇われないものです。

と・・・・色々 思い出してうろうろ街を歩き
太陽が 真冬なのに 私に微笑んでいるみたいに
モンスの街を ピカピカにして
私を三十年ぶりに 迎えているようでした。

あっという間の三十年
まだ 胸が苦しい。
オペラ歌手ではない私。

あの時の 苦しみと失意と向学心と
なにもかもが
胸に 蘇り 苦しくて息が出来なくなりました。

一時間位 焼き立てのベルギーゴーフルを
かじりながら
クリスマス祭りのモンスの街を散歩したのに
コンセルバトワールの場所が
思い出せず
私の記憶から すっかり あの場所が 消えていました。

見つからないままに ブリュッセルに向かいました。
再び オートルート高速。