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私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

歴史教室5月号 「安政の大地震」

2015-05-15 14:08:40 | 歴史探索
 5月15日(金)  天気:曇り   室温:27.4℃ 蒸し暑い

 きょうは 公民館の歴史教室に 参加しました。 4月は 赤穂散策でしたが 不参加でした。
今月は 出前講座で 好古学園大学校 講師の石塚 太喜三氏の 「安政の大地震」です。 石塚
さんは 元朝日中学の校長先生?
 歴史教室で 安政の大地震とは と思いましたが 内容は 英賀神社の神官が 徳川将軍・家慶
が 亡くなったので 新将軍・家定に 新しい御朱印をもらうため 江戸へ行った際 大地震に遭い
東海道を 帰る際の苦労話でした。    英賀神社 木村家文書より
 内容は A4サイズに 8ページに書かれているので ここで詳しく 紹介することはできません。
ごく一部を 紹介します。

 日本は 地震多発地帯で 太平洋を ぐるりと囲むように 幅の広い帯状の分布があり 日本列島
は その太い帯の中に すっぽり隠れてしまっている。 世界における日本の地震回数は マグニ
チュード6.0以上の地震回数は 2003年から2012年で 306回で 世界の18.35%を占め
ています。 世界の陸地の約0.2%に 世界の約20%の地震が 日本で起こっています。

 西南日本の地震では 7世紀後半以降で 1927 北丹後地震(M7.3)、1925 北但馬地震
(M6.8)、1943 鳥取地震(M7.2)、1948 福井地震(M7.1)、1909 姉川地震(M6.8)、
1961 北美濃地震(M7.0)、1891 濃尾地震(M8.0)、1944 東南海地震(M7.9)、
1946 南海地震(M8.0)1995 兵庫県南部地震(M7.3)  などがあります。


文書では 『日本三大実録』 巻第15に 貞観10年(868)の大地震
 秋七月 八日己亥。 地震(ない)、内外ノ墻屋ヲ動カシ、往々ニシテ頽レ破ル。 
 十五日丙午。 播磨国言ス。 今月八日、地大イニ震リ動キテ、諸郡ノ官舎、諸定額寺ノ堂塔、
 皆 悉ク頽レ倒ル、ト。
 応永19年(1412)の米田地震(高砂)
 応永十九年 壬辰 定願寺越年、鎮増三十八。 修正ノ勤行常ノ如シ。 其ノ年 大地震アリ。
 播州ニテハ米田ノ東西十里計(ばかり)、神舎・仏寺・人屋破レクズレ、人ノ打チ殺サルル・・・・

大坂の商人が 広島へ行って 帰りに 姫路を通りかかった際
・嘉永七年十一月 (安政の東海地震)
 帰路、当四日の朝に 斑鳩宿を出立ちし、書写山に参詣の途中、雉の声が聞こえた。 余りに甚だしき
 鳴き声ゆえに ひょっとして 地震でもあるのではないかと 言いながら 参詣した。 参詣を終えて
 山を下り近村へ行くと 「只今、大地震があった」 と話していた。 しかし、私たちは 全く地震など
 感じなかった。 その夜は 姫路に泊ったところ、「姫路の町も激しく揺れた」 と言っていた。
 翌五日、姫路を出立ちして 加古川宿で 中飯を食べ、明石宿の入り口三丁ばかりの手前の縄手にて
 七ツ半頃、またしても大地震が起こった。 ・・・・・ 以下省略

・播州加古川宿大地震
 一、本陣、問屋場、芝居小屋、加古川名物の汁屋三軒、竜船寺壱ケ所、地蔵堂二ヶ所、町屋十五・6軒、
 醤油蔵壱ヶ所、隣村野屋二十軒余りが 皆揺り崩れ、その外に ゆがみ屋少々あり、破損所は その数が
 分からない程である。 五日の晩方より 往来が止まり 飛脚が通行するのみ・・・・以下省略

 ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・
表紙 嘉永七甲寅の九月八日に出立ちする。 十二月朔日に帰国する。 御朱印の御改めに付き
    参府する。 帰国のみぎり震災に付き路中の損所の荒増し控         馬場加賀守
 拙者は 嘉永七甲寅年
 御朱印の御改めのために社中の一老である西城戸駿河守殿が参府すべきの処、七十有余の老年に付き
 参府が出来がたい故に、二老の拙者へ参府するように進められたが がんらい、拙者は持病もこれ有り、
 さらには寒中の遠路の旅行や 殊に 大切な御朱印を 持参する事は 甚だ 迷惑に思ったが 駿河守殿が
 老体に付き、断る事が出来ないので、二老の拙者が 順番により 仕方なく、御用を勤める事にした。
 九月八日に出立し、同月二十九日に 江戸へ着いた。 十一月三日に 御改めが 支障なく済み、
 翌四日に 当城主のお屋敷にて お目見を仰せつかったので 旅宿を 早朝に立ち出て 朝五ツ半頃に
 お屋敷に参り 辰の口の玄関より 案内があり、二階に上がり控えて居たところ、四ツ前に はからずも
 大地震が起こり、次第に震動が激しくなるので 玄関前に出たところ 御家中の衆が たくさん集まって
 いた。 その中に 主従三人が 手を合わせて明神に祈念いたしているうちに 震動が静まったが・・・
    ・・・・・ 中略 ・・・・・


十一月
・六日 江府を出立。 東海道を下り 金川(神奈川)に 宿泊。
・七日 藤沢宿へ 夕七ツ前に通りかかると 旅籠屋の亭主らしい者が 一人参り 「播州の方で ござい
 ませんか」 と声を掛けられた。 「何用故に尋ねられたのか」 と問い返すと 「私は 当宿の蒔田と
 申す脇本陣を営む者です。 先日よりの度々の地震で 当宿よりにしへは 伝馬人足はもとより 往来
 留めになり、余程の賃銭を出さなければ 人足も雇えません。 そのために 上りの大名様も 小田原に
 逗留しているような状態です。 同国の書写山・法華山様も下ることが出来ずに 私方に 五・六日も
 御止宿しているような有様です。 両人様が言うには 播州の人が通ったならば 是非お目にかかり
 今後どのような震災に遭うとも限らないので 同国の人が懐かしく 出来れば 連れだって帰って
 くれないかと言っています」 と言う。
  ・・・・ 中略 ・・・・・
 気の毒に思うが 断った。 しかし、その夜も地震が起き、壁も崩れる有様で 不安で家の裏に むしろ
 敷いて 一夜を過ごした。
・八日 夜明けに藤沢を立ち、小田原宿に至ったところ、御大名衆が止宿しているために 宿がなく
 困惑してしまう。
  ・・・・ 中略 ・・・・   その夜も 四、五度も地震が起き・・・。
・九日 小田原宿にて 賃銭を高くして相対で人足を頼んでも引き受けてくれる者がなく、箱根峠を
 通行することが出来ないと 困惑していると宿屋の亭主が気の毒に思い 日雇人足を一人都合してくれた。
 八里の行程であるが 一里ごとに 八百文の賃銭を払う約束で 出立ちした。
   一文≒25円  八百文≒2万円  箱根八里で ≒16万円
 しかし、峠にさしかかると 地震が度々起こり、二子山より 大石が路中に転び落ち・・・・
 路中の歩行がなかなか難しく 七ツ半過ぎにようやく山中という間宿に やっとたどり着いた。
  ・・・・・ 中略 ・・・・・・
 夜 四ツ時頃に 地震が起こり、裏や表に飛び出すものあり、家内は 大騒動になった。 しばらくして
 この家の前にある石鳥居が 三つ四つに折れ、その音が地震のようで 外に飛び出す者もあり・・・

・十日 下山の道筋は 五、六寸づつ破裂し、諸木が道を塞ぎ 歩くのが はなはだ難しかった。
 やっとの思いで箱根の峠を越え 三島宿に着いたが、宿は皆潰れ、地面は 一尺ばかりも裂け
 割目から 泥水が 噴き出し、往還は 一丁ばかり 川の如くになっていた。 ・・・・
 身の毛もよだつ有様であった。 それより 沼津城下に至るが ここも 平潰れになっていた。
 ・・・・・ 夕七ツ前に 原宿に着いた。 ・・・・ 中略 ・・・・・・
 ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・
・十一日 蒲原宿を通ったが 一宿丸潰れで 木材、瓦が散乱し、二階建ての家は 二階が落ちて
 あたかも 家形船のごとくになっていた。 誠に前代未聞の一大事である。
 由井宿は 少々の破損はあるが 家が潰れる様な被害はない。
 興津宿は 八分通り 家が潰れている。
 江尻宿は 丸潰れの上に 火災で焼かれ、茫茫たる広っぱとなり 目も当てられぬ有様であった。
 府中は 半分潰れ、半分は 焼失にて 瓦、石が小山の如く往還に積まれ、その上を歩かねば・・・
 丸子宿は 特に被害がなかった。
 藤江宿・島田宿・金谷宿は いずれも 七部通り潰れていた。
 日坂宿、掛川宿、袋井宿より白須賀宿、岩渕は ・・・・ 省略・・・・。
 また 新居御番所は 津波にて 大変なことになり 五十丁の海路通行不能になり 本坂を越え
 気賀を通り、この辺にて 難渋に及ぶことが 色々とあったが、これを 省く。

 中山道の美濃路へ出たが 路中に一尺五、六寸より 二尺の大雪が積もり、姫路では こんな大雪は
 見たことも聞いたこともない。 所の者に聞くと これくらいの雪は いつものことである。
    ・・・・ 中略 ・・・・・

 この後は 宿々を無難に過ごし 伏見に出ることが出来た。 ここから舟に乗り 二里ほど出たところで
 風波が荒く難破の可能性もあるので 上陸し、守口まで歩いて 宿泊した。

 翌日、大坂に着いたところ ここも地震が激しく、その上 津波にて死人が 夥しかった。 また、
 千石以下の船が 数隻木津川辺に 津波にて漂っていたところ にわかに引潮になり、破船するところを
 目の当たりに見る未曾有の変事であった。
 それより道中無事に めでたく帰国できた。 しかしながら東海道、箱根の宿より 見附までの
 旅籠屋は 戸、障子、建具などは 開け放し、地震にて 風呂はもちろん火鉢さえ貸してくれず
 煙草の火のみ差し出すばかりで 烈風肌を冒し、寒風は 指を落とす如くで 持病が出て 困ったが
 三島・沼津・興津・江尻・府中・掛川 その外 大荒れの所では 草履もなく、第一に 食い物に
 乏しく 旅籠屋のないのには 困ってしまった。 長々の道中では 種々の苦労もあったが
 無事に帰国できたのは 全く明神の御蔭と 感謝申し上げます。     英賀神社木村家文書


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