私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
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歴史教室2月 「飾磨津の歴史と姫路藩御船手組」

2023-02-21 14:53:21 | 歴史探索

 2月21日(火)   天気:晴れ   室温:15.3℃

 きょうは、公民館の歴史教室に 出席しました。 今月は、元城郭研究室長・中川秀昭さん

の 「飾磨津の歴史と姫路藩御船手組」 です。 1月は 休講でした。  きょうは、なぜか

出席者が多く ほぼ満席になりました。

 公民館だより2月号には、歴史教室への誘いとして 、関ケ原の戦いの後、姫路に入封視し、

入江に向島を建設し、船役所・船置場を 整備するとともに、「姫路藩御船手組」という水軍を

新たに設けました。 総勢約200人は 士分で 「城付き」といわれ、姫路藩主が 国替えにな

っても、そのまま新藩主に仕える特例が 認められ、海防や 海事に従事しました。 そこで、

飾磨津発展の歴史をたどるとともに、ここを本拠に 活躍した 「姫路藩御船手組」 の概要を 紹介します。

 。。。。。。。 飾磨津の歴史と姫路藩御船手組 。。。。。。。

1 飾磨津の歴史

 1.古代・中世

  ・姫路は、古来より 人々の行き交う交差路

   ・大和と大宰府を結ぶ、古代大路

   ・播磨灘を 船で行き交う人々にとって、「播磨国風土記」にある 「餝磨の郡」の海辺は、いくつ

    もの風待ちの入江を用意していた。 福泊(韓泊)、餝磨津、細江などに 船をつなぎ 上陸する

    異郷の人々も多かった。

 ◇万葉集に 「飾磨津」 が詠まれる

   思賀麻江(飾磨江)は こきすき(漕ぎ過ぎ)ぬらし 天伝う 日笠の浦に 波立つ見ゆ  <万葉集 巻七>

   (註)飾磨江は もう通り過ぎたらしい 向うの高砂の曽根にある日笠の浦に 波が立っている

  ※風待ちの入江として、飾磨津は 古くから 瀬戸内海を往来する船で にぎわっていた。

  ※山部赤人 「細江」を詠む:風吹けば なみかたたむと さもらひに 都多の細江に 浦かくりをり

  ※「摂播五泊」:僧・行基が 開いたとされる播磨・摂津の現 兵庫県内の5カ所の港

          河尻泊、大輪田泊、魚住泊、韓泊(福泊?)、檉生(むろお)泊

    

  ※「播磨国風土記」:「餝磨の郡」 

    「餝磨郡」とは:狩りにやってきた大三間津彦命が 屋形を作って住んでいると、ある日、

    鹿の声が聞こえたので 「おお鹿も鳴くことよ」と感激して 思わず声を発した。 そこで、

    「鹿も」から 「餝磨」の郡と呼ぶことになったという。

  ※古は、平野、白国、市ノ郷から 三宅 その他広く 「餝磨」といった。 この「餝磨」の海岸で

   船が着き、客や荷物を渡したので、「餝磨津」に・・「餝磨津」「鹿間津」「飾万津」など

  ※「鹿間津」:沖に 男鹿島、北に 妻鹿郷あり、その間にあたることから 「鹿間津」という

 ◇花山法皇、二度 書写山円教寺 御幸

  ・寛和2年(986)長保2年(1000)の二度。 二度とも 飾磨津湊に上陸したといわれる

  <伝承>書写山御幸の際、家毎に 絹布を張り巡らせたのを 目にし、「万を餝る津と書くべし」

      と言われたので、「鹿万津」を 「飾磨津」に改めたという

 ◇歴史上の人物たちが 飾磨津へ

  ・仁和2年(886)菅原道真、讃岐の守として 赴任の途、飾磨江に 船泊す

  ※菅原道真は、思案橋で ここから 海路で行くか 陸路で行くか 思案したと言われています。

   思案橋のたもとに 石碑(歌碑)と 道真の座像があります。

 ※飾磨には 菅原道真ゆかりの天満宮が 三つあります。 浜の宮天満宮、恵比寿天満宮、 中島天満宮。

  ・承安4年(1174)、後白河法皇、飾磨に上陸し 書写山円教寺御幸(飾磨に 御幸町)

  ・承元2年(1208)、法然上人 土佐へ流される際に、飾磨に船泊す(出展:「飾磨町誌」)

  ◆「御幸町」 「御幸橋」 は、花山法皇、後白河法皇が書写山に 御幸の際に、通ったことによる。

 ◇羽柴秀吉の英賀城攻め(天正8年(1580).4)

  この時、英賀城主 三木通秋が 守る英賀城は あえなく落城。 その際に 英賀の人々が 飾磨津に

  多く移り住んだ。(上英加町、下英加町)

 2.近世

  ◇池田輝政による向井島の造成(飾磨津の大軍港基地化):関ケ原の戦いの後、池田輝政が

   姫路に入封すると、飾磨川が注ぎ込む地に 向井島を造成し、東部海岸も加え 船の係留岸壁を

   櫛の歯状に設置した水軍基地とし、ここに 「姫路藩御船手組」 を置いた。(御船役所も) 

  ◇飾磨津、町場の発展

   ・また、飾磨津は、池田輝政が 新しく造成した姫路城下町の外港として、重要な位置を占め、

    近世になると 町場が著しく発展した。

   ・江戸時代、飾磨津といったのは、須加町、細江町、上町、大町、宮町、御幸町、東堀町、田町、

    上英加町、下英加町、都倉町の11カ町を指す。 うち6カ町を 浦手、5カ町を 岡手と呼んだ。

   ・現在の町名では、上英加町は 清水、下英加町は 栄町、大町は 大浜、田町は 玉地に改められた。   

 ◆飾磨湛保

  ・飾磨津は、古来より海上交通の要衝として 発展してきたが、水深浅く 大船の停泊に適して

   いなかった。 飾磨津・大町で 肥料問屋を営んでいた藤田祐右衛門維昌は、これを憂い 有志

   とともに 時の姫路藩主酒井忠宝に 築港を 願い出た。 忠宝は 家臣二人を 丸亀港に派遣。

   この港を参考に 藤田維昌に 築港を許し、維昌は 弘化3年(1846).4  工を起こし、築港工事

   には、人夫6000人、費用600貫を費やし、わずか半年で 完成させた。 完成後は、堤の高さ

   2丈(6.6m)、港の東西66間(120m)、南北83間(151m)、水深 満潮時12尺(3.6m)、

   干潮時6尺余(1.8m)となり、世に 「飾磨湛保」と称した。 この湛保の完成により、大船も

    碇泊が 自由にできるようになり,古湛保や 東堀海岸に接岸していた船も、ほとんど この港に

   着き、飾磨湛保は 大いに繁盛した。

 ◆飾磨津浦手番所(飾磨区須加に石碑)

  ・姫路藩が設けた4カ所の浦手番所(高砂、飾磨津、家島、室津)の一つ。 川口御番所とも

   いわれ、燈篭堂の管理、出入船舶の検問・取締、海難救助、公儀船寄港上陸の情報収集など

 

 ◆飾磨砲台(飾磨区須加に石碑)

  ・文久3年(1863)姫路藩は 海洋防備のため 室津、福泊、飾磨に 砲台を築造、湛保の南側に

   半円形に海岸を1mほど高くして、大砲4門を配備した。 なお 家島天神鼻に 家島砲台を設置。

 3.近代以降ー飾磨津その後ー

  ・明治9年(1876):銀の馬車道開通と飾磨津物揚場 完成。 ・明治22年:飾磨町発足・

   港名を 「飾磨港」に改める。 ・明治28年 飾磨港線開通。 ・昭和15年 飾磨市 発足。

2 姫路藩御船手組

 1.姫路藩御船手組の創設

 ◇姫路藩 初代藩主 池田輝政が 水軍創設:関ケ原の戦いの後、西国押さえの地・姫路を重視した

   家康は、女婿・池田輝政を 配し、東は 大坂城の豊臣家及び 西は 豊臣恩顧の外様大名に備えた。

 ◇御船手組の基地 「向島」ー御船役所:御船手組の基地として、向島に 姫路藩御船役所が置かれ

 ◇「城付き」の特例:慶長18年(1613)池田輝政が 病没し、領国は 嫡男・利隆、次男・忠継、

   三男・忠雄に分かれ、池田時代の船手組及び 軍船も3分割された。 その後、播磨に入った

   本多忠政は 領地高15万石に減少。 御船手は、領主が国替えになっても 従わず、新藩主に仕える。

 ◇姫路藩主 本多忠政の水軍再強化:忠政は、池田時代から 引き継いだ軍船9艘に加え、新たに 63艘

   の軍船を建造し、72艘の陣容に。また、船手を 新規200名採用、定員を約235名とした。

 2.「御船手組」の陣容と業務(姫路藩の船奉行管理下)

  ・階級:大船頭、小船頭、小頭、矢倉、使役、御水主(かこ)、抱御水玉

  ・定員:船手:200名、抱御水玉:37名 (保有兵船60隻に見合う要員で)

  ・昇格等:船手は 世襲制で、長男は 必ず継ぐものとされた。 後継者がいない場合は 養子。

  ・俸禄:大船頭11石3人扶持、小船頭:8石2人扶持、矢倉:6石5斗2人扶持、

 ◇御船手組の業務:水軍として 戦時に出動

  ・大坂の陣 慶長19~20年(1614~15):藩主池田利隆とともに 従軍。 兵員、兵糧等輸送

  ・広島城の受取 福島正則の改易 元和5年(1619):藩主本田忠政とともに 従軍、兵員・兵站の輸送

  ・島原の乱 寛永14年(1637):藩主 本多忠朝の代、戦陣に赴く公儀役人の乗船用兵船 派遣

  ・黒船来航による江戸湾警護 嘉永7年(1854):姫路藩も 約一千名の軍勢参陣。 船手組から 35名

  ・京都警備 文久2年(1862):藩主酒井忠績の京都所司代就任により、幕末の京都警護を 担当

  ・将軍徳川家茂 上洛中 文久3年(1863):不測の事態に備え、船手組主力艦・長慶丸・常安丸・音善丸 動員

  ・明治新政府からの要請 明治3年(1870):明治新政府より 姫路藩に大坂天保山御台場警備を命じられ 出勤

 <平時の業務> ◆船手組の公儀御用

  ・御用銀の湯槽警備(毎年、年1回):石見国大森銀山で 生産された御用銀の輸送業務は 藩主池田利隆の

   時代に始まる。 御用銀は、銀山代官役人の宰領の下、大森銀山より 陸路 備後国尾道に送られ、尾道から

   海路 大坂へ送られたが、池田時代には 尾道から 室津までの海上輸送は 広島藩が担当し、室津から大坂・・

  ・朝鮮通信使の警護・御馳走 :姫路藩重臣が 乗船、室津で 通信使一行の出迎え、水船100余りを動員、水確保

  ・公儀役人の警護・御馳走:幕府上使、公儀役人の領内通行、寄港に際しての警護・御馳走(世話・接待)

  ・通行大名の御馳走役:参勤交代で、姫路藩領を通行する西国大名の往来は多く、儀礼内のサービスが慣例

      河川における御馳走役 <事例>加古川が 川幅140間、市川が 273間、船手組は 川の渡船を担った。

  ◆その他の海事業務:

  ・海事警察業務:密貿易・切支丹・船荷窃盗取締、海難船救助・難破船処理・水死人検死等、漁場保護

  ・浦役管理:領内浦方25ヵ浦の人別帳(15歳~50歳)を 船主・役人から 提出させ、これを 公儀に報告

  ・海難事件処理:

  ◇その他の職種

   ・音頭組:音頭指南以下、20名程度で編成。城主が 御召御座船に乗船した場合は、白鉢巻、白襷掛けの

       「姫路藩御船手御歌本全」などに 歌詞80余収録

   ・棟梁・船大工:御大工は、10数名置かれ、御船作業所に詰め 棟梁の指揮監督の下で 船の修繕に勤めた

  ◇室津・家島駐在:藩領飛地の室津は、小船頭以下10数名が 鮒手御番所、家島は 矢倉以下2名が 浦手番所詰

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