私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

歴史教室12月 「赤穂事件の真相を探る」

2020-12-01 21:56:00 | 歴史探索
 12月 1日(火)    天気:晴れ   室温:21.2℃

 きょうは 公民館の12月の歴史教室に出席しました。  今月は 元城郭研究室長
中川秀昭さんの 「赤穂事件の真相を探る」 です。 公民館だよりには 「赤穂事件」
は、これまで 歌舞伎や人形浄瑠璃の演目 「仮名手本忠臣蔵」 を はじめ、映画、演劇、
小説等 様々な分野で取り上げられてきました。 ただ、その内容には 誇張や虚構も し
ばしば見受けられます。 そこで 改めて 史実から 赤穂事件を捉えると どうなるのでし
ょうか。 12月14日を 目前に控え、事件の真相を探ってみたいと思います。 中川秀昭


 ・・・・ 赤穂事件の真相を探る ・・・・

1.赤穂事件とは
 ・赤穂藩主浅野長矩による 江戸城本丸御殿・殿中刃傷事件
 ・赤穂浪士による吉良邸討ち入り事件

2.殿中刃傷事件 (元禄14(1701).3.14)
 1.勅使・院使の答礼
  ・毎年正月に 朝廷に 将軍名代を遣わし 新年挨拶
    →答礼・勅使、院使の江戸下行・・・3~5万石の大名が 饗応接待を担当
  ・元禄14年 勅使馳走役:赤穂藩主・浅野長矩
        院使馳走役:伊予吉田藩主・伊達宗春
        饗応指南役:吉良義央(よしひさ)(高家肝煎)
  ・勅使・院使(元禄14年):3.12 将軍対面、3.13 饗応能、3.14 将軍勅答
 2.刃傷事件(於:江戸城本丸御殿 松之廊下)
  ・元禄14年3月14日 午前11時頃
    浅野長矩が 吉良義央に斬り付けるー大奥留守居番梶川与惣衛頼照が抑える
    吉良は 額と背中に傷(致命傷には至らず)

 3.事情聴取・将軍(5代徳川網吉)裁定
  ・浅野・吉良を目付が 事情聴取→若年寄・老中→側用人(柳沢保明)→将軍
  ・折柄を配慮せず 殿中を憚らず 理不尽に斬り付けたことは 不行き届き至極(将軍網吉)
       浅野内匠頭長矩              吉良上野介義央
    ・江戸平川門より 乗物で退去(罪人扱)  ・場所柄わきまえ手向かいせず 感心な態度
    ・一関藩主田村建顕お預け(下屋敷)     →お咎めなし
      →同日夕刻・切腹(於:庭先)       ※幕府が 医師(内科・外科)に 治療依頼
    ・赤穂藩改易(朱印状返上・上下屋敷公収)
    ・浅野大学長広(長矩弟・養子)閉門
   ※浅野内匠頭長矩 切腹 35歳没。泉岳寺に葬る
      辞世:風さそう 花よりもなお 我はまた 春の名残を いかにとやせん(未練は いかんともしがたい)
 4.裁定の問題点(「お手軽」・「片落ち」)
   「お手軽」裁定 浅野長矩は 「乱心」と決めつけ、詳細な事情聴取をしないまま即日切腹を命じた。
   「片落ち」裁定 これは 深い恨みによる「喧嘩」であり、喧嘩両成敗という武士の慣習から見て
           一方「切腹」、他方「褒める」 これは 明らかな「片落ち」の判断
 5.国元・赤穂への報せ(元禄14年)
  ・1報:3月19日  午前6時頃 赤穂着・・刃傷事件の報せ(4日半で赤穂へ)
  ・2報:3月19日  足軽飛脚・・浅野長広からの手紙 騒動禁止、藩札の処理
  ・3報:3月19日  午後8時頃 赤穂着 原惣右衛門・・浅野内匠頭切腹の報せ
  ・4報:3月21日  飛脚便・・浅野大学閉門の報せ
  ・5報:3月25日  飛脚便・・鉄砲洲上屋敷、赤坂・本所下屋敷 返上の報せ
  ・6報:3月28日  戸田氏定からの使者・・城地召し上げのための受城使派遣及び4月明け渡し
  ※戸田氏定:大垣藩主(内匠頭の母方従兄)、浅野長恒3千石・若狭野陣屋・赤穂藩浅野家分家

 6.その後の措置
  ・大石内蔵助良雄(筆頭家老)、家中総登城を命じ、主君の刃傷を伝える
  ・藩札の6歩(6割)替え
  ・大石良雄から受城目付宛て 「鬱憤之書付」を持った使者を 江戸へ派遣(目付に会えず)
  ・赤穂藩家臣全員に配分金支給
  ・大石の呼びかけ 「受城使に恨みを述べて切腹する覚悟」の連判(血判)(4月11日)
  ・赤穂藩家臣 赤穂城下を退去(4月15日)ー大石良雄、尾崎村寓居「おせど」へ移る

4.城明け渡し(元禄14年4月19日)
  ・受城使 竜野藩主 脇坂安照   目付 荒木政羽 脇坂氏4500人余率い 大手門から受城開始
       足守藩主 木下きん定     榊原政殊 木下氏1500人率い 塩屋門から受城開始
  ・代官  石原正氏・岡田俊陳     在番   龍野藩担当 在番・龍野藩士195名
  ・本丸御殿玄関前で 大石良雄・奥野将監が 受城使・目付・代官を出迎え、御殿で 受取完了
      →代官支配のもと 龍野藩脇坂家が在番・管理
  ・大石らは 脇坂家の家臣に見送られ 清水門から城外へ去った
  ・大石、受城目付に、浅野長広が閉門を許され 「人前」を回復し 奉公できるよう懇願
   
   
5.討ち入りに向けて
  ・元禄14年6月28日:大石内蔵助良雄、家族と共に 京・山科西山村へ移る
     [ 様々な伝手を頼り 浅野家再興に尽力 ]
   【 大石ら御家再興派 】
    ・浅野大学長広による浅野家再興を図る         元禄14.9.2
    ・吉良の出仕停止、刃傷事件の「片落ち」解消      幕府の命で 吉良邸
   【 堀部ら討ち入り急進派 】                呉服橋から本所へ
    ・亡き主君への「忠誠」を尽くす
    ・主君の生前の鬱憤を晴らし 「人前」の回復及び     元禄14.11.10
     残された家臣の「武士の一分」を立てるため      江戸会議:一挙を仮に
     とにかく 早く吉良を討つべし             翌年3月と定める

                               元禄1412.11
    ※大石、妻りくを豊岡の実家・石束源五兵衛へ      吉良義央の隠居、義周の相続許可
     帰らせる
                               元禄15.2.15
                               山科会議:浅野長広の安否を見届け
                               事を起こす

                               元禄15.6.29 堀部ら仇討ち相談(大石ら除外)
    元禄15.7.28         
    丸山会議:大石、堀部ら19名が会合     ⇔    元禄15.7.24 浅野長広、閉門を解き
         仇討ちを決議                広島藩(浅野本家)差し置きの命

    元禄15.8上旬(同志の絞り込み)          元禄15.11.3
    ・横川勘平、江戸の同志から起請文(神文)を取る    赤穂在番(龍野藩)から新赤穂藩(永井直敬)
    ・貝賀弥左衛門、大高源五、播磨・京・大坂等に     へ引き渡し
     散在する同志を訪ね 神文の返戻の回る(約120人)

    元禄15.11初旬                  元禄15.11.29
    各地散在の同志ら 江戸集結               大石良雄、用人落合与左衛門を通じて 瑶泉院
    替え名で 10数件に分かれて 潜伏           (浅野長矩正室)に「預置候金銀請払帳」※提出

    元禄15.12.2                  ※大石が 元禄14.6.4 預かった公金690両
    深川会議:討入りの心得 話し合う             2朱、銀46匁9分5厘の収支決算書
         心得書「人々心覚」

  ◇討入りに向けての準備
   ・吉良の動向を探る  ・吉良邸付近及び上杉邸の夜回りなど
              ・吉良邸裏門付近に 前原伊助・神崎与五郎が 店を出し 吉良邸の出入り見張り
              ・宗匠山田宗徧からの吉良邸茶会情報入手
   ・吉良邸内絵図の入手 ・元禄15.10頃 富森助右衛門らが 入手(新・古二枚)
   ・装束の調達     ・装束:甲頭巾、黒小袖に 股引、脚絆、草履履きに決める
   ※二つのルート ①大石三平:山田宗徧弟子中嶋五郎作及びその借家住まいの羽倉斎と親交
           ②大高源五:宗匠山田宗徧の弟子となる
   ※12月5日 茶会情報で、6日の討ち入りを計画するも、中止となり 見合わせる


6.吉良邸討入り(元禄15年(1702)12月14日・・当時は 夜明けで 日付が変わる)
   ※大石三平、大高源五から 12月14日 茶会との報
   午前0時頃   ・同志47人 本所林町・堀部安兵衛宅、本所徳右衛門町杉野十平次宅に集合
            →本所相生町・前原伊助、神崎与五郎の店で 全員集合
   午前3時半頃  ・表門:大石良雄ら23人、裏門:大石主税ら24人 吉良邸 突入
           ・邸内で 吉良義央を探して 奮戦
           ・台所・炭部屋で 義央を見つけ 間重次郎が 一番槍をもって 仕留める
           ・吉良方:死者・吉良義央ら 17人、負傷者・吉良義周ら 28人
            赤穂浪士方:負傷者でるも 軽傷
  ◇浅野家菩提寺泉岳寺(高輪)へ (午前6時頃 吉良邸出発→午前9時頃 泉岳寺着)
   ・泉岳寺へ向かう道中・・吉田忠左衛門、富森助右衛門、大目付・仙石久尚に自訴
   ・泉岳寺 浅野長矩墓前に 吉良義央の首を供える (泉岳寺僧により 首は 吉良家に返却)

7.お預け・切腹
 1.お預け(赤穂浪士46人)
  ・大目付・仙石久尚邸で 事情聴取
  ・四藩の大名へのお預け(待遇に差)
    熊本藩・細川綱利・・・・大石良雄、吉田忠左衛門ら17人 ・厚遇(下屋敷)
    伊予松山藩・松平定直・・大石主税、堀部安兵衛ら10人     (中屋敷)
    長府藩・毛利網元・・・・前原伊助、杉野十平次ら10人  ・やや厳しめ(中屋敷)
    岡崎藩・水野忠之・・・・神崎与五郎、間重次郎ら9人      (中屋敷)
    ※父子・兄弟など 血縁の近いものは 別々に預けられた
  ・処分議論:幕府内(評定所)の議論別れる(「武家諸法度」に基づき)
    文武忠孝に励むべき  主君の志を継いで 吉良を討つ~忠義として賞賛すべき
    市中での徒党禁止   集団による犯罪行為~処罰すべき
  ・評定所の意見:協議の結果をまとめ 12月23日、老中に提出
 2.幕府の採決(元禄16年2月4日)
  ・5代将軍 徳川網吉の命
   ・赤穂浪士46士:「武士の処遇をもって切腹」 に処す
   ・赤穂浪士の遺子:19人(男子のみ)に対し 遠島流罪(伊豆大島配流は 15歳以上の4人)
   ・吉良義周(よしちか):領地没収、信濃高島藩お預け(命を捨てて親を守らなかった)
 3.四藩屋敷での切腹
  ・赤穂浪士46士は、それぞれ幕府が差し向けた上使からの申し渡しを 受けた後、切腹
  ・亡骸は、切腹をした時のまま、裃を着た姿で 泉岳寺に 埋葬された

 ◇幕府裁定の意義
  ・慎重な裁定・・・・・49日という日数をかけ 評定所・公弁法親王の意向も聞き 慎重に
             処断がなされた
  ・「喧嘩両成敗」・・・46士を処断する一方、吉良義周に対しても処分を行い、「片落ち」の
    の達成      修正がなされた
  ・武士の礼による・・・集団で 徒党を組んで 公儀を恐れぬ行動は 断罪に処すべきだが、忠義の志
    切腹       として、「武士の礼」をもって 切腹」させた


8.遺子、浅野大学長広、吉良義周のその後
  ・遺子・・・・・・・宝永3年(1706)、伊豆大島流罪の処分を受けた遺子3人の赦免(出家)
            宝永6年(1709)、将軍綱吉没後、6代将軍家宣の大赦で 遺子全員赦免
  ・浅野大学長広・・・同じく 大赦で 「広島藩差置き」 赦免、宝永7年(1710) 安房国で
            500石を与えられ 寄合旗本に
  ・吉良義周・・・・・宝永3年(1706) 21歳で 病死、吉良家は 途絶えた

 ≪ 参考 ≫
  浅野家  始祖・浅野長重(浅野長政3男)、浅野長直(常陸笠間藩主・5万石)が 正保2年(1645)
       赤穂藩主・池田輝興改易に際し、受城使を務め そのまま赤穂藩主に。 赤穂城築城、赤穂塩開発
       上水道整備、山鹿素行招聘(兵学)。 跡を継いだ長友は 33歳で没。 長矩は 9歳で跡を継ぐ
       14歳で 従五位内匠頭叙任、勅使御馳走役は、天和3年(1683)・元禄14年(1701)と
       2度拝命。 大名火消(本所火消役)も務めた     -長賢(家原陣屋)
      ・浅野長政(甲府藩)-長重(笠間藩)-長直(赤穂藩)ーー長友ー・・・・・・ーー長矩(内匠頭)
                                 ー長恒(若狭野藩)  ー長広(大学)
    
  吉良家  足利義氏を祖とする名門。 三河国幡豆郡など 4200石の旗本。 葦央祖父・義弥(よしみつ)
       から 高家(朝廷・幕府の間の儀礼を司る)を務める。 米沢藩主上杉家と縁戚で 義央の実子・
       網憲が 米沢藩主に、その実子義周が、吉良家義央の養子に
      ・吉良(高家) 義安ー義定ー義弥ー義冬ー義央(よしひさ)ー義周(よしちか)

 ※出展・参考文献は 省略します。
 ※2011.10.18に 私が訪れた赤穂城周辺散策の ”「四十七士のふるさと・赤穂” のページは
          < こちら > を見てください。
   
 。。。。。  。。。。。  。。。。。  。。。。。  。。。。。  。。。。。  。。。。。。。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 温室植物園で シクラメン展 | トップ | たつの市立歴史文化資料館で ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

歴史探索」カテゴリの最新記事