12月 5日(火) 天気:晴れ 室温:13.8℃
きょうは 旭陽公民館の歴史教室に 出席しました。 今月は 馬車道ひめじ応援の会
の澤木正幸さんの 「銀の馬車道について」 です。 出席者は 多かったようです。
資料と プロジェクト未来遺産 ”銀の馬車道 ~日本初の高速産業道路を未来につな
ぐ~”(銀の馬車道ネットワーク協議会 発行) のパンフレットを使って 説明していただ
きました。
※12月20日の新聞に 「銀の馬車道・鉱石の道」 が 日本遺産に認定されたことが
姫路市の市政10大ニュースになったと 載っていました。

パンフレットには
「銀の馬車道」(正式名称:生野鉱山寮馬車道) は 生野銀山と 飾磨津の間 約49km
を結ぶ 馬車専用道路として フランス人技師長のもと 当時の日本では 最新の舗装技
術を導入して 3年がかりの工事を経て 明治9年に 完成しました。
”日本初の高速産業道路” とも言われる道の建設は 未曽有の事業であったことが 同
年に 建てられた記念碑 「馬車道修築」 の碑に記されています。

・・・・・・ 銀の馬車道について(次第) ・・・・・
1.はじめに
2.銀の馬車道について
ア 銀の馬車道(商標登録:正式名称は 生の鉱山寮馬車道) とは・・・
イ 何故、今、銀の馬車道なのか・・・
・中播磨の地域資源(地域再生の方策の一つ)
姫路城だけでない、中播磨の広域観光として繋がり・・・
・やっと 日本遺産に認定(平成29年4月:兵庫県では 3番目)
ウ 播磨と南但馬(生の鉱山)の歴史(幕末から~明治初頭まで)

エ 馬車道の建設(明治5年度から)
①日本の近代化(殖産興業と富国強兵)に 生野の銀が必要
何故、生野なのか。 明治元年 新政府は 生野銀山を国営化し 外国人技術者と
最新設備を導入して 近代化を図ることで 銀の増産を目指します。
②建設時の主な人物
・朝倉 盛明(鉱山長) 明治元年~26年 生野在住
(薩摩藩士:薩摩藩 英国留学生 1865~67年)
・お雇い外国人
フランソワ・コワニュ(フランス人:鉱山人)
慶応4年(明治元年)~10年 生野在住
レオン・シスレー :コワニュの義弟で 馬車道のルート設計を行い
ヨーロッパで普及していたマカダム式舗装を導入した。
③3つの案について(舟・汽車・道路) 市川を利用した高瀬舟、鉄道施設は 費用がかかる。

④道路工法 マカダム式(ヨーロッパの最新技術工法)
⑤馬車(馬と人と荷車が一体)
⑥建設時の困難な主な工事と 地域での逸話
・生野町 盛明橋(市川を右岸へ渡る)・生野峠
・神河町 粟鹿・観音橋・馬橋
・福崎町 尾形(嘆願書)
・姫路市北部 船津(立場)・豊富(馬場)
・姫路南部 生野橋 最難関工事 167m(市川を左岸へ渡る)
城東小学校(外堀川を 半分埋め立て)
姫路駅周辺(地場産ビルを 斜めに横断し 飾磨街道へ)
飾磨門と飾磨街道(南畝・東延末・亀山本徳寺・三宅・都倉・門章)

オ 銀の馬車道の開通後(明治9年以降)の変遷について
①播但鉄道の開通(生野~飾磨) 明治28年
民営化で 三菱合資へ払い下げ 明治29年
馬車道の廃止 大正9年
②馬車道の沿線(市川流域)の著名人について
柳田國男、和田三造、青山熊治、有本芳水、和辻哲郎、橋本忍 etc.
③現在の銀の馬車道の主な取り組み
普及と広域的な交流の促進、地域ぐるみの活動の展開、沿線の活用及び交流拠点の形成

3.課題と今後の目標について
・課題
・目標
4.おわりに(質疑含む)

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きょうは 旭陽公民館の歴史教室に 出席しました。 今月は 馬車道ひめじ応援の会
の澤木正幸さんの 「銀の馬車道について」 です。 出席者は 多かったようです。
資料と プロジェクト未来遺産 ”銀の馬車道 ~日本初の高速産業道路を未来につな
ぐ~”(銀の馬車道ネットワーク協議会 発行) のパンフレットを使って 説明していただ
きました。
※12月20日の新聞に 「銀の馬車道・鉱石の道」 が 日本遺産に認定されたことが
姫路市の市政10大ニュースになったと 載っていました。



パンフレットには
「銀の馬車道」(正式名称:生野鉱山寮馬車道) は 生野銀山と 飾磨津の間 約49km
を結ぶ 馬車専用道路として フランス人技師長のもと 当時の日本では 最新の舗装技
術を導入して 3年がかりの工事を経て 明治9年に 完成しました。
”日本初の高速産業道路” とも言われる道の建設は 未曽有の事業であったことが 同
年に 建てられた記念碑 「馬車道修築」 の碑に記されています。



・・・・・・ 銀の馬車道について(次第) ・・・・・
1.はじめに
2.銀の馬車道について
ア 銀の馬車道(商標登録:正式名称は 生の鉱山寮馬車道) とは・・・
イ 何故、今、銀の馬車道なのか・・・
・中播磨の地域資源(地域再生の方策の一つ)
姫路城だけでない、中播磨の広域観光として繋がり・・・
・やっと 日本遺産に認定(平成29年4月:兵庫県では 3番目)
ウ 播磨と南但馬(生の鉱山)の歴史(幕末から~明治初頭まで)



エ 馬車道の建設(明治5年度から)
①日本の近代化(殖産興業と富国強兵)に 生野の銀が必要
何故、生野なのか。 明治元年 新政府は 生野銀山を国営化し 外国人技術者と
最新設備を導入して 近代化を図ることで 銀の増産を目指します。
②建設時の主な人物
・朝倉 盛明(鉱山長) 明治元年~26年 生野在住
(薩摩藩士:薩摩藩 英国留学生 1865~67年)
・お雇い外国人
フランソワ・コワニュ(フランス人:鉱山人)
慶応4年(明治元年)~10年 生野在住
レオン・シスレー :コワニュの義弟で 馬車道のルート設計を行い
ヨーロッパで普及していたマカダム式舗装を導入した。
③3つの案について(舟・汽車・道路) 市川を利用した高瀬舟、鉄道施設は 費用がかかる。



④道路工法 マカダム式(ヨーロッパの最新技術工法)
⑤馬車(馬と人と荷車が一体)
⑥建設時の困難な主な工事と 地域での逸話
・生野町 盛明橋(市川を右岸へ渡る)・生野峠
・神河町 粟鹿・観音橋・馬橋
・福崎町 尾形(嘆願書)
・姫路市北部 船津(立場)・豊富(馬場)
・姫路南部 生野橋 最難関工事 167m(市川を左岸へ渡る)
城東小学校(外堀川を 半分埋め立て)
姫路駅周辺(地場産ビルを 斜めに横断し 飾磨街道へ)
飾磨門と飾磨街道(南畝・東延末・亀山本徳寺・三宅・都倉・門章)



オ 銀の馬車道の開通後(明治9年以降)の変遷について
①播但鉄道の開通(生野~飾磨) 明治28年
民営化で 三菱合資へ払い下げ 明治29年
馬車道の廃止 大正9年
②馬車道の沿線(市川流域)の著名人について
柳田國男、和田三造、青山熊治、有本芳水、和辻哲郎、橋本忍 etc.
③現在の銀の馬車道の主な取り組み
普及と広域的な交流の促進、地域ぐるみの活動の展開、沿線の活用及び交流拠点の形成



3.課題と今後の目標について
・課題
・目標
4.おわりに(質疑含む)

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