8月16日(土) 天気:曇り or 雨 室温:29.7℃
・・・・・ これは 8月9日に 放送されたものです。 ・・・・・・・
8月 9日(土) 天気:曇りのち雨・風 室温:27.4℃
きょうから 甲子園で 高校野球 と思ったら 台風11号のため中止! 13:00 から BS朝日
で ”歴史発見 城下町へ行こう 家康SP 関ヶ原 前編” を放送していました。 レポーターは
大河ドラマ・軍師官兵衛で 蜂須賀小六を演じている ピエール瀧です。
この前 7月31日にも BS3プレミアムで ”英雄たちの選択スペシャル 両雄対決! 三
成VS.家康 関ヶ原へ!” が放送されました。 それは ”こちら” を・・。
スペシャル版ということで これまでに 放送された いくつかの番組を 組み合わせ 家康の関ヶ
原の合戦に至る話が まとめられているようです。 家康の天下取りの道のりは・・・。
1600年9月15日 午前8時。 関ヶ原で 銃声とともに 合戦が 始まりますが 徳川方の布陣
からみて 先頭の福島正則が 先陣を切る と思いきや 徳川方の井伊直政、松平忠吉が 抜け
駆け・・。 なぜ? 徳川方が 勝ったとしても 勝ち方が 大事。 豊臣方から 寝返った 福島正則
が 戦いの先陣を 切ったとなれば・・・。
秀吉の死後 家康が 関東で 挙兵したため これに反発して 石田三成りも挙兵し 東へ
進軍。 9月15日 霧が晴れた 関ヶ原で 双方が 激突します。 笹尾山に 石田三成軍、
桃配山に 陣を張っていた家康は 三成の目と鼻の先に 陣を移し・・・。
東軍・徳川方は 福島正則が 最前線に陣取りますが なぜか 後方にいた 井伊直政と
松平忠吉が 抜け駆けして 戦いを始める。 これは 徳川の戦いなので・・・。
家康は 天文11年(1542)12月 岡崎城で 生まれます。 幼名 竹千代。 家康が 生まれ
たとき 岡崎城の上に 龍が登ったとか・・。 それで 岡崎城は 龍ヶ城と言われる。
幼少のころ 人質に出され 織田家に 2年、今川家で 11年過ごします。 このとき 今川家の
菩提寺・臨済寺の大原宗孚雪斎から 教育を受け 多くのことを学びます。 雪斎は 今川家の
陰の軍師。 浜松城や 駿府城は 家康を育んだ お城です。
永禄三年(1560) 桶狭間の戦いで 大軍の今川義元に 少ない軍勢で 織田信長が 戦い
今川軍を破ります。 このとき 19歳の家康(松平元康)も 今川方として戦い 破れて 命から
がら 岡崎に逃げ帰り 徳川(松平)家の菩提寺・大樹寺で 腹と切ろうとします。 このとき 住
職・登誉上人が ”おんりえど ごんぐじょうど” と言って 家康を諭します。 ”おんりえど・・・”
という浄土宗の言葉、意味を 家康が 知っていたかどうか 分かりませんが 家康は 死ぬの
を止め 生き延びる・・・。 これが 家康の天下取りへの第一歩となる。
その後 家康は 今川家を離れ 自立を図り 織田信長と 講和を結びます。 信長は 東から
攻められたとき 家康の浜松城や 岡崎城が 守りとなり 安心することができます。
関ヶ原の合戦は 戦いが始まって しばらくたって 小早川秀秋が 動かないのを見た家康が
小早川陣目がけて 銃を撃ち込む。 これで目覚めた 小早川秀秋軍が 豊臣方を裏切り 石
田三成軍 目がけて なだれ込み・・。 戦いは 一気に 決着。 鉄砲を撃ち込まれた秀秋が
なぜ 徳川側を 目がけて 突撃しなかったのでしょう。
小早川秀秋は 秀吉の妻・おねの兄 木下家定の五男として生まれ 秀吉の養子になります
が 秀吉に 秀頼が生まれると 邪魔者になり 毛利側へ養子に出され 小早川秀秋となります。
天正10年(1582)生まれなので 関ヶ原の時 まだ 18歳。 戦いも 初めて?
三方ヶ原古戦場は 磯田道史さんが 案内してくれます。 元亀三年(1573) 三方ヶ原で
風林火山の武田信玄の2.7万と 家康の1.1万が 戦います。 武田信玄は 織田信長を
討つため 西へ進軍してきますが 東方を守る家康の前で あざ笑うかのように 向きを変え
北へ進む・・。 家康は 慌てて 後ろを追いかけます。 が これは ワナ。 信玄は 向きを変
え ”魚燐の陣” で 家康を迎え撃つ・・。 戦いでは 信玄が 一枚も 二枚も 上。
今回は 前編ということでしたが 後編は いつ放送されるのでしょうか? BS朝日では いま
高校野球を 放送しているので 野球が 雨で中止になったとき? 見逃しの三振かも・・。
。。。。。 。。 。。。。。。 。。 。。。。。。 。。 。。。。。。 。。 。。。。。。 。。 。。。。。。
・・・・・ これは 8月9日に 放送されたものです。 ・・・・・・・
8月 9日(土) 天気:曇りのち雨・風 室温:27.4℃
きょうから 甲子園で 高校野球 と思ったら 台風11号のため中止! 13:00 から BS朝日
で ”歴史発見 城下町へ行こう 家康SP 関ヶ原 前編” を放送していました。 レポーターは
大河ドラマ・軍師官兵衛で 蜂須賀小六を演じている ピエール瀧です。
この前 7月31日にも BS3プレミアムで ”英雄たちの選択スペシャル 両雄対決! 三
成VS.家康 関ヶ原へ!” が放送されました。 それは ”こちら” を・・。
スペシャル版ということで これまでに 放送された いくつかの番組を 組み合わせ 家康の関ヶ
原の合戦に至る話が まとめられているようです。 家康の天下取りの道のりは・・・。
1600年9月15日 午前8時。 関ヶ原で 銃声とともに 合戦が 始まりますが 徳川方の布陣
からみて 先頭の福島正則が 先陣を切る と思いきや 徳川方の井伊直政、松平忠吉が 抜け
駆け・・。 なぜ? 徳川方が 勝ったとしても 勝ち方が 大事。 豊臣方から 寝返った 福島正則
が 戦いの先陣を 切ったとなれば・・・。
秀吉の死後 家康が 関東で 挙兵したため これに反発して 石田三成りも挙兵し 東へ
進軍。 9月15日 霧が晴れた 関ヶ原で 双方が 激突します。 笹尾山に 石田三成軍、
桃配山に 陣を張っていた家康は 三成の目と鼻の先に 陣を移し・・・。
東軍・徳川方は 福島正則が 最前線に陣取りますが なぜか 後方にいた 井伊直政と
松平忠吉が 抜け駆けして 戦いを始める。 これは 徳川の戦いなので・・・。
家康は 天文11年(1542)12月 岡崎城で 生まれます。 幼名 竹千代。 家康が 生まれ
たとき 岡崎城の上に 龍が登ったとか・・。 それで 岡崎城は 龍ヶ城と言われる。
幼少のころ 人質に出され 織田家に 2年、今川家で 11年過ごします。 このとき 今川家の
菩提寺・臨済寺の大原宗孚雪斎から 教育を受け 多くのことを学びます。 雪斎は 今川家の
陰の軍師。 浜松城や 駿府城は 家康を育んだ お城です。
永禄三年(1560) 桶狭間の戦いで 大軍の今川義元に 少ない軍勢で 織田信長が 戦い
今川軍を破ります。 このとき 19歳の家康(松平元康)も 今川方として戦い 破れて 命から
がら 岡崎に逃げ帰り 徳川(松平)家の菩提寺・大樹寺で 腹と切ろうとします。 このとき 住
職・登誉上人が ”おんりえど ごんぐじょうど” と言って 家康を諭します。 ”おんりえど・・・”
という浄土宗の言葉、意味を 家康が 知っていたかどうか 分かりませんが 家康は 死ぬの
を止め 生き延びる・・・。 これが 家康の天下取りへの第一歩となる。
その後 家康は 今川家を離れ 自立を図り 織田信長と 講和を結びます。 信長は 東から
攻められたとき 家康の浜松城や 岡崎城が 守りとなり 安心することができます。
関ヶ原の合戦は 戦いが始まって しばらくたって 小早川秀秋が 動かないのを見た家康が
小早川陣目がけて 銃を撃ち込む。 これで目覚めた 小早川秀秋軍が 豊臣方を裏切り 石
田三成軍 目がけて なだれ込み・・。 戦いは 一気に 決着。 鉄砲を撃ち込まれた秀秋が
なぜ 徳川側を 目がけて 突撃しなかったのでしょう。
小早川秀秋は 秀吉の妻・おねの兄 木下家定の五男として生まれ 秀吉の養子になります
が 秀吉に 秀頼が生まれると 邪魔者になり 毛利側へ養子に出され 小早川秀秋となります。
天正10年(1582)生まれなので 関ヶ原の時 まだ 18歳。 戦いも 初めて?
三方ヶ原古戦場は 磯田道史さんが 案内してくれます。 元亀三年(1573) 三方ヶ原で
風林火山の武田信玄の2.7万と 家康の1.1万が 戦います。 武田信玄は 織田信長を
討つため 西へ進軍してきますが 東方を守る家康の前で あざ笑うかのように 向きを変え
北へ進む・・。 家康は 慌てて 後ろを追いかけます。 が これは ワナ。 信玄は 向きを変
え ”魚燐の陣” で 家康を迎え撃つ・・。 戦いでは 信玄が 一枚も 二枚も 上。
今回は 前編ということでしたが 後編は いつ放送されるのでしょうか? BS朝日では いま
高校野球を 放送しているので 野球が 雨で中止になったとき? 見逃しの三振かも・・。
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