7月30日(火) 天気:曇り 室温:30.4℃
きょうは 久し振りに 公民館の「歴史教室」 に出席しました。 6月は 欠席。 第2
火曜日の16日の予定でしたが 大西先生が 前立腺の手術で 入院され 2週間遅れになりま
した。 8月は 休講です。
本日の演題は 「赤松氏と姫路」 です。 大西 文雄先生は 姫路古文書研究会で 多くの文
献等から資料を作成されるので いただく資料も 13ページあります。
細かい内容を書くことはできませんので いただいた資料の項目だけ記します。

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
。。。。。。。 赤松氏と姫路 。。。。。。。。
はじめに
1.赤松氏について
①赤松則村(円心)の出自・・弘安2年(1279) 赤松茂則の子として 佐用で 生まれる。
村上源氏略家系図によると 赤松氏の先祖は 62代村上天皇の流れを汲む家系で
村上天皇から 11代目にあたる。
公武政権や 荘園領主に敵対し 蜂起した集団=悪党 と言われた。 楠木正成なども悪党である。
②赤松(円心)則村の台頭
・則村の動き・・摂関家大番役で 京都に出る。 播磨は 六波羅探題の直轄地になっており
その政治に不満を持っていた。
・元弘の乱・・元弘元年(1331) 後醍醐天皇が起こした2度目の鎌倉幕府への倒幕運動。
後醍醐天皇 捕縛され 隠岐の島へ配流。(元弘2年)
・護良親王の令旨・・太山寺に 唯一残っている。 義兵を挙げ 軍勢を率し 朝敵を誅罰せしむべし。
護良(もりよし)親王は 後醍醐天皇の皇子。
令旨(りょうじ)とは 皇太子、皇后、皇太后が 命令を伝えるために出した文書。
・元弘の乱による赤松氏の武功・・
・建武の新政 :赤松氏への恩賞
足利尊氏→鎮守府将軍 武蔵国司 武蔵、上総国守護
新田義貞→上野、越後の国司 越後国守護 播磨介=後 播磨国司に
楠木正成→河内、和泉国司
赤松則村→播磨守護・・・この時代では 薗基隆播磨守の下に 新田義貞播磨介、その下に
赤松則村播磨守護。 赤松則村は 不満だった。
③赤松則村の叛乱・・・恩賞への不満が原因
・護良親王事件 :征夷大将軍になった護良親王は 足利尊氏を討とうと 募兵。 後醍醐天皇は
護良親王を捕縛、足利直義に命じ 鎌倉に幽閉さす。
・中先代の乱:北条時行の叛乱、信濃の国で蜂起し 足利直義軍を破り 武蔵の国へ
尊氏、直義軍と合流し 北条時行を破る。
・足利尊氏の叛乱 :尊氏挙兵。 後醍醐天皇 新田義貞に追討を命じる。 尊氏 三河で敗退。
赤松則村 尊氏と謀り 尊氏に 九州に下がり 軍備を調え・・・。
則村 白旗城を築城。 新田軍を迎え撃つ準備をする。 義貞軍 白旗城を囲む。
則村 使者を 大宰府にいる尊氏に遣わし 東上を促す。 義貞全軍 退却。
尊氏 則村に 論功行賞で 美作、備前、摂津、播磨の四国守護を与える。
④赤松氏大守護に
・四カ国の守護に
・三管四職 :三管は 管領(かんれい)の三家 斯波氏、細川氏、畠山氏。
四職=侍所頭人の四家 赤松氏、一色氏、山名氏、京極氏。
2.赤松氏の衰退と再興
①嘉吉の乱
・嘉吉の乱の原因 :応永35年 足利義教(よしのり) くじ引きで 将軍になる。
永享9年 義教 赤松家所領 播磨、美作を借用の申し出。
10年 義教 赤松家家臣 依藤ら4人を殺す。
12年 義教 赤松満祐の弟義雅の所領を没収。
摂津国 昆陽野庄を 赤松貞村(春日部家)に与える。
将軍・足利義教と 赤松満祐の対立 深まる。
・嘉吉の乱 :嘉吉元年(1441)6月 赤松教康(赤松満祐の嫡子)義教を招き 自宅で酒宴を催し
足利義教を殺害。 赤松満祐 追討始まる。
9月 満祐 城山城で自害。 義雅 小児を託し 赤松満政軍に投降 自害。
・赤松氏の旧領配分 :播磨国守護職→山名持豊 備前国守護職→山名教之 美作国守護職→山名教清
摂津国中島郡→細川持賢 播磨国三郡→赤松満政
②赤松氏の再興
・神壐の奪還
禁闕の変:後南朝 三種の神器を吉野山中に持ち去る。
長禄の変:赤松浪人 神器を奪い 京都に変換する。
加賀半国の守護に:赤松義雅の遺児(後の時勝)の子・赤松政則 加賀半国守護と 備前新田庄を得る。
・応仁の乱:原因は 山名・細川の勢力争いに 細川勝元が赤松の再興に力を貸す。
守護大名家の跡目争い 将軍家の跡目争い が絡む。 東軍、西軍のいわれ・・
③赤松氏の衰退と滅亡
・守護代の台頭・・・宇野氏、別所氏、小寺氏
・秀吉の播磨入国
・関ヶ原の合戦
3.赤松氏と姫路
①赤松氏本城を姫路市域へ
・赤松氏の本城の変遷 :苔縄城、白旗城、坂本城、置塩城
・赤松氏が本城を姫路市域に置いた理由 :姫路市域が播磨の中心であり 領国の中心。 交通の便。
・姫路市域の北部に偏っているのは :この時代の城は まだ 山城だった。
②姫路市域での築城
・赤松時代の姫路市域での築城
姫路市域に赤松一族が建てた城 :坂本城、庄山城、置塩城、天神山城・・・15
赤松附城(赤松盛衰記):姫路城、有明城、庄山城、英保城、恒屋城・・・8
赤松附城(播磨古城記):松山城、窪城、円山城、英賀城、姫山城、御着城・・・29
諸城主構主并郷士之記 :姫路城、阿保城、林田城・・・12
播磨には 城が 約120あった。
4.赤松氏略年譜
弘安2年(1279) 則村 赤松茂則の子として生まれる。
・
・(中略)
・
文明18年(1486) 政則 政豊を英賀に破り 坂本城を攻める。
政則 坂本城を陥れ 播磨、備前、美作3国を回復する。
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きょうは 久し振りに 公民館の「歴史教室」 に出席しました。 6月は 欠席。 第2
火曜日の16日の予定でしたが 大西先生が 前立腺の手術で 入院され 2週間遅れになりま
した。 8月は 休講です。
本日の演題は 「赤松氏と姫路」 です。 大西 文雄先生は 姫路古文書研究会で 多くの文
献等から資料を作成されるので いただく資料も 13ページあります。
細かい内容を書くことはできませんので いただいた資料の項目だけ記します。



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はじめに
1.赤松氏について
①赤松則村(円心)の出自・・弘安2年(1279) 赤松茂則の子として 佐用で 生まれる。
村上源氏略家系図によると 赤松氏の先祖は 62代村上天皇の流れを汲む家系で
村上天皇から 11代目にあたる。
公武政権や 荘園領主に敵対し 蜂起した集団=悪党 と言われた。 楠木正成なども悪党である。
②赤松(円心)則村の台頭
・則村の動き・・摂関家大番役で 京都に出る。 播磨は 六波羅探題の直轄地になっており
その政治に不満を持っていた。
・元弘の乱・・元弘元年(1331) 後醍醐天皇が起こした2度目の鎌倉幕府への倒幕運動。
後醍醐天皇 捕縛され 隠岐の島へ配流。(元弘2年)
・護良親王の令旨・・太山寺に 唯一残っている。 義兵を挙げ 軍勢を率し 朝敵を誅罰せしむべし。
護良(もりよし)親王は 後醍醐天皇の皇子。
令旨(りょうじ)とは 皇太子、皇后、皇太后が 命令を伝えるために出した文書。
・元弘の乱による赤松氏の武功・・
・建武の新政 :赤松氏への恩賞
足利尊氏→鎮守府将軍 武蔵国司 武蔵、上総国守護
新田義貞→上野、越後の国司 越後国守護 播磨介=後 播磨国司に
楠木正成→河内、和泉国司
赤松則村→播磨守護・・・この時代では 薗基隆播磨守の下に 新田義貞播磨介、その下に
赤松則村播磨守護。 赤松則村は 不満だった。
③赤松則村の叛乱・・・恩賞への不満が原因
・護良親王事件 :征夷大将軍になった護良親王は 足利尊氏を討とうと 募兵。 後醍醐天皇は
護良親王を捕縛、足利直義に命じ 鎌倉に幽閉さす。
・中先代の乱:北条時行の叛乱、信濃の国で蜂起し 足利直義軍を破り 武蔵の国へ
尊氏、直義軍と合流し 北条時行を破る。
・足利尊氏の叛乱 :尊氏挙兵。 後醍醐天皇 新田義貞に追討を命じる。 尊氏 三河で敗退。
赤松則村 尊氏と謀り 尊氏に 九州に下がり 軍備を調え・・・。
則村 白旗城を築城。 新田軍を迎え撃つ準備をする。 義貞軍 白旗城を囲む。
則村 使者を 大宰府にいる尊氏に遣わし 東上を促す。 義貞全軍 退却。
尊氏 則村に 論功行賞で 美作、備前、摂津、播磨の四国守護を与える。
④赤松氏大守護に
・四カ国の守護に
・三管四職 :三管は 管領(かんれい)の三家 斯波氏、細川氏、畠山氏。
四職=侍所頭人の四家 赤松氏、一色氏、山名氏、京極氏。
2.赤松氏の衰退と再興
①嘉吉の乱
・嘉吉の乱の原因 :応永35年 足利義教(よしのり) くじ引きで 将軍になる。
永享9年 義教 赤松家所領 播磨、美作を借用の申し出。
10年 義教 赤松家家臣 依藤ら4人を殺す。
12年 義教 赤松満祐の弟義雅の所領を没収。
摂津国 昆陽野庄を 赤松貞村(春日部家)に与える。
将軍・足利義教と 赤松満祐の対立 深まる。
・嘉吉の乱 :嘉吉元年(1441)6月 赤松教康(赤松満祐の嫡子)義教を招き 自宅で酒宴を催し
足利義教を殺害。 赤松満祐 追討始まる。
9月 満祐 城山城で自害。 義雅 小児を託し 赤松満政軍に投降 自害。
・赤松氏の旧領配分 :播磨国守護職→山名持豊 備前国守護職→山名教之 美作国守護職→山名教清
摂津国中島郡→細川持賢 播磨国三郡→赤松満政
②赤松氏の再興
・神壐の奪還
禁闕の変:後南朝 三種の神器を吉野山中に持ち去る。
長禄の変:赤松浪人 神器を奪い 京都に変換する。
加賀半国の守護に:赤松義雅の遺児(後の時勝)の子・赤松政則 加賀半国守護と 備前新田庄を得る。
・応仁の乱:原因は 山名・細川の勢力争いに 細川勝元が赤松の再興に力を貸す。
守護大名家の跡目争い 将軍家の跡目争い が絡む。 東軍、西軍のいわれ・・
③赤松氏の衰退と滅亡
・守護代の台頭・・・宇野氏、別所氏、小寺氏
・秀吉の播磨入国
・関ヶ原の合戦
3.赤松氏と姫路
①赤松氏本城を姫路市域へ
・赤松氏の本城の変遷 :苔縄城、白旗城、坂本城、置塩城
・赤松氏が本城を姫路市域に置いた理由 :姫路市域が播磨の中心であり 領国の中心。 交通の便。
・姫路市域の北部に偏っているのは :この時代の城は まだ 山城だった。
②姫路市域での築城
・赤松時代の姫路市域での築城
姫路市域に赤松一族が建てた城 :坂本城、庄山城、置塩城、天神山城・・・15
赤松附城(赤松盛衰記):姫路城、有明城、庄山城、英保城、恒屋城・・・8
赤松附城(播磨古城記):松山城、窪城、円山城、英賀城、姫山城、御着城・・・29
諸城主構主并郷士之記 :姫路城、阿保城、林田城・・・12
播磨には 城が 約120あった。
4.赤松氏略年譜
弘安2年(1279) 則村 赤松茂則の子として生まれる。
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・(中略)
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文明18年(1486) 政則 政豊を英賀に破り 坂本城を攻める。
政則 坂本城を陥れ 播磨、備前、美作3国を回復する。
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