2月24日(木) 天気:晴れ 室温:15.8℃
今回の山歩きは、2003.12.7に登った 多可町八千代区の野間山310mと
光竜寺山206mです。 「はりま歴史の山ハイキング」 で紹介されています。
八千代町は、「敬老の日」発祥の地で、当時の村長が 提唱したのが 始まりとか。
本には、周辺の砦を含め、一括して 「野間城」と呼ばれる野間山城と 光竜寺山城。
野間川の流れは、赤松一族の哀歓を、500年の時を経た今も 倒影し続けていますと。
両山とも 昔の城跡です。 野間山城主は、北播磨に勢力を誇った在田氏。 1575
年ころ、同じ赤松一族の別所氏に滅ぼされてといわれています。
野間川に架かる大門橋から西へ入ったところにある極楽寺の仁王門わきに車を置き、
大手道を登り、兵溜まりの分岐から ます 南のしょうどの丸350mへ登り、引き返し
て 野間山に登り、俵田橋へ降りて、橋を渡り、車道を東へ歩いて、緩い坂の峠を越
え、右の回ると 光竜寺山の登山口があります。 光竜寺山へ登り、道なりに 南へ降り
ると、大門橋に降りて 極楽寺に戻ります。
極楽寺は 天台宗・比叡山延暦寺の末寺で、ご本尊は 千手観世音菩薩です。 寺が
開かれたのは、今からおよそ1300年余り前 すなわち 白雉二年のことで、天竺から 渡来
された 法道仙人の開創と伝えられます。 室町の頃、この地も 弥陀の浄土であるとして
極楽寺と号されるようになりました。
野間山城から 俵田橋へ降りて、橋を渡り、道路を東へ歩き、光竜寺山城へ向かいます。
光竜寺山を 東に回ると、登山口があります。 光竜寺山城へは 搦め手道を登ります。
光竜寺山城の二の丸、本丸、三の丸を歩いて、南へ降りると 大門橋へ降ります。
光竜寺山城は、鶴が翼を広げた姿に似ているので、「鶴琳城」 とも呼ばれているそうですが・・。
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今回の山歩きは、2003.12.7に登った 多可町八千代区の野間山310mと
光竜寺山206mです。 「はりま歴史の山ハイキング」 で紹介されています。
八千代町は、「敬老の日」発祥の地で、当時の村長が 提唱したのが 始まりとか。
本には、周辺の砦を含め、一括して 「野間城」と呼ばれる野間山城と 光竜寺山城。
野間川の流れは、赤松一族の哀歓を、500年の時を経た今も 倒影し続けていますと。
両山とも 昔の城跡です。 野間山城主は、北播磨に勢力を誇った在田氏。 1575
年ころ、同じ赤松一族の別所氏に滅ぼされてといわれています。
野間川に架かる大門橋から西へ入ったところにある極楽寺の仁王門わきに車を置き、
大手道を登り、兵溜まりの分岐から ます 南のしょうどの丸350mへ登り、引き返し
て 野間山に登り、俵田橋へ降りて、橋を渡り、車道を東へ歩いて、緩い坂の峠を越
え、右の回ると 光竜寺山の登山口があります。 光竜寺山へ登り、道なりに 南へ降り
ると、大門橋に降りて 極楽寺に戻ります。
極楽寺は 天台宗・比叡山延暦寺の末寺で、ご本尊は 千手観世音菩薩です。 寺が
開かれたのは、今からおよそ1300年余り前 すなわち 白雉二年のことで、天竺から 渡来
された 法道仙人の開創と伝えられます。 室町の頃、この地も 弥陀の浄土であるとして
極楽寺と号されるようになりました。
野間山城から 俵田橋へ降りて、橋を渡り、道路を東へ歩き、光竜寺山城へ向かいます。
光竜寺山を 東に回ると、登山口があります。 光竜寺山城へは 搦め手道を登ります。
光竜寺山城の二の丸、本丸、三の丸を歩いて、南へ降りると 大門橋へ降ります。
光竜寺山城は、鶴が翼を広げた姿に似ているので、「鶴琳城」 とも呼ばれているそうですが・・。
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