9月 1日(火) 天気:晴れ 室温:33.2℃
きょうは 久しぶりの歴史教室です。 4月の歴史教室が コロナで 中止になり 今月は 4月
のパート1と 今月予定のパート2を まとめた講座となります。 10月は 「明智光秀の娘・細
川ガラシャ波乱の生涯」 が予定されています。
公民館だより9月号には 元城郭研究室長の中川 秀昭さんの予告編があり 今年のNHK大河
ドラマ 「麒麟がくる」 の主人公は 明智光秀ですが、これまでは 「謀反人」 とか 「主殺しの大
悪人」 といった 悪いイメージで 語られてきた感があります。
ところが、彼は 連歌や 茶の湯にも造詣の深い教養人・文化人であり、特に 丹波では、善政を行
った名君として 今も慕われています。
謎に包まれた 彼の実像は もとより 何故 主君信長を討ったのか? 「本能寺の変」 の動機も 未
解決のままですが、光秀の生涯と足跡を辿る中で、少しでも この謎に迫ってみたいと思います。
中川 秀昭
。。。。。。。。 明智光秀の生涯と足跡をたどる 。。。。。。。。
1.明智光秀とは そもそも何者か?
・「謀反人」 「主殺しの大悪人」 のイメージ。 しかし 当代一流の文化人・教養人(茶道、連歌等)
・丹波(亀岡市・福知山市など)では、善政を行った名君として 今も 慕われる。
・参考文献:『明智光秀・光満』小和田哲男著・・「歴史は 勝者が書く、勝者の歴史である」
『明智光秀の生涯と丹波福知山』、『麒麟がくる 明智光秀とその時代』 など
2.謎に包まれた前半生
・生年:享禄元年(1528)・永正13年1516)説・・いずれも 子年
江戸時代の川柳:「丹波の鼠、京へ出て 馬を食い」(信長は 午年)
・主審地:岐阜県可児市瀬田、恵那市明知町、山県市美山町
・両親の名:父の名:光綱、光国、光隆 (三通りの名前)
母の名:お牧、お佐多、お市(伝承)
・家族:正室 妻木煕子(ひろこ)(妻木城主・妻木範煕(広忠)女)
子供 3男4女(明智玉(細川ガラシャ)など)
・出自:美濃守護・土岐氏の支族
・当初の名乗り:明智十兵衛尉光秀、天正3年から 明智惟任日向守光秀
3.長良川の合戦で 流浪ー越前へ
・長良川の合戦:斎藤道三×義龍(高政)父子の戦いー斎藤道三負死(弘治2年(1556))
・明智城落城ー斎藤義龍(高政)の軍勢が 明智城攻撃ー叔父・明智光安、光秀らに
脱出を命じ、討ち死。
-光秀ら明智城から落ち延び 越前へ。(朝倉義景を頼る)・・称念寺門前に10年居住
松尾芭蕉の句:「月さびよ 明智が妻の 拙(はなし)せむ」(奥の細道)
・越前一乗谷東大味(福井市東大味町)へ移る(朝倉義景に仕官か)
4.将軍義輝暗殺と弟・覚慶(足利義昭)大和・奈良脱出、越前へ
・室町幕府 第13代将軍足利義輝暗殺(永禄8年(1565))-首謀者:松永久秀(嫡男・久通)
・足利義輝・弟覚慶(興福寺一乗院門跡)に危機~奈良脱出
-覚慶・還俗⇒足利義秋に(のちに 足利義昭に改名~細川藤孝同行)
-将軍就任に意欲~各地の有力大名に上洛の支援要請
5.織田信長の台頭と美濃・斎藤氏の滅亡(永禄10年)(1567)
-尾張平定(永禄2年)、桶狭間の戦い(永禄3年)-今川義元を討つ
-織田信長、稲葉山城を落とし、「美濃」を手中に(永禄10.8)
6.明智光秀が 歴史の表舞台に登場
・越前で 明智光秀と足利義昭・細川藤孝 主従の出会い
-義昭主従、上洛し 将軍就任の道模索、朝倉義景は 上洛消極的→織田信長に期待
-光秀、織田信長とゆかり(光秀は 信長正室・濃姫(帰蝶)の従姉妹の間柄)
-足利義昭、光秀を足軽衆に取り立て~光秀、足利義昭の家臣に
※足利義昭一乗谷滞在中の直臣名簿・「足軽衆」14名の末尾に 「明智」とある
-光秀、義昭主従と信長の橋渡しに尽力
7.織田信長、足利義昭を奉じて 上洛。 義昭、15代将軍に就任
・明智光秀、足利義昭主従、美濃・織田信長の元へ
・足利義昭、第15代 室町幕府 将軍に就任(永禄11年)
8.元亀争乱(元亀元年(1570)~天正元年(1573))(天正元年 朝倉義景・浅井長政自刃)
・朝倉義景、信長の上洛命令を拒む⇒信長の越前攻め(元亀争乱の始まり)(元亀元年)
-信長の誤算:浅井長政(正室・お市)の反旗(元亀元年4)
-「金ヶ崎の退き口」(光秀 殿(しんがり)を務める)
-姉川の戦い(元亀元年6):織田・徳川連合軍×浅井・朝倉連合軍)
-志賀の陣(元亀元年9):浅井・朝倉連合軍が 近江・志賀へ侵攻
-比叡山焼き討ち(元亀2年9):浅井・朝倉軍に味方したことに対する報復
・光秀、信長家臣として 頭角を現す(「金ヶ崎の退き口」、「比叡山焼き討ち」などで 戦功)
9.近江志賀郡拝領(5万石)と坂本城築築城(元亀2年)
-織田家臣団の中、「一国一城の主・第1号」(信長家臣団の中 途中入社ながら)
-坂本城:水城(本丸・二の丸・三の丸、天守・小天守) ≪水軍の城・堅田水軍掌握≫
10.室町幕府 事実上の滅亡(天正元年(1573))
・将軍・足利義昭と織田信長の軋轢(二人の思惑に差・将軍権威回復⇔将軍は傀儡)
※武田信玄:三方ヶ原合戦で 徳川家康を破る(元亀3年(1572)12)
・足利義昭、宇治・槇島城に立籠るも、信長軍の攻撃に会い 降伏(天正元年7)
-光秀、足利義昭と決別し 信長の家臣に(明智光秀・村井貞勝、京都所司代に)
11.苦難の丹波攻め(天正3年(1575)~天正7年)(丹波の国衆ら織田信長から離反)
・第1次丹波攻略(天正3年~)・黒井城(萩野直正)攻め←波多野秀治・突然の寝返り⇒坂本城へ退却
・第2次丹波攻略(天正6年~)・八上城(波多野秀治)籠城戦(兵糧攻め)・・波多野秀治・秀尚ら降伏
・第2次黒井城(赤井忠家ら)攻め・落城(天正7年7)
12.丹波を平定、丹波国拝領(29万石)(天正8年 信長:天下の面目をほどこし候)
・丹波の主要な城に 一族・重臣を配置ー福知山城・明智秀光、黒井城・斎藤利三、八上城・明智光忠
-「明智光秀家 中軍法」制定(天正9年6)(軍法・軍役賦課基準)
13.信長家臣団の重臣として
・「京都馬揃え」 統括奉行(天正9年2)-織田軍団の威容をアピール、正親町天皇、公、家町衆が見物
◆光秀、武田攻めに従軍(天正10年3)ー武田勝頼 自刃・甲斐・天目山麓、田野
・徳川家康の安土城接待役(天正10年5)ー武田攻めの論功行賞・家康に駿河一国(家康 安土城へ)
『信長公記』:「御振舞の事、惟任日向守に仰付けられ、京都・堺にて 珍物と調え、生便敷結構にて」
14.中国出陣命令と本能寺の変
・中国攻めの羽柴秀吉から 信長へ出馬要請⇒光秀に中国への出陣命令(天正10年5月)
・愛宕参籠(愛宕神社・愛宕勝軍地蔵)
・愛宕百韻(連歌会・威徳院西坊)(天正10.5.27)・・「時は今 雨が下知る 五月哉」(光秀)
◇本能寺の変(天正19年6.2)
・6月2日AM2 本隊が桂川に到着、AM4 全軍 本能寺を包囲し 一斉攻撃
信長、あえなく自刃・49歳、信忠 本能寺へ向かうも 明智軍に阻まれ 防戦したが 自刃・26歳
『信長公記』:「是は謀反か、如何なる者の企ぞと 御諚の処に、森乱申す様に、明智が者と見え申候へば
是非に及ばずと 上意候」
◇本能寺の変の動機(約50の説)
・怨恨説:信長にパワハラを受けた光秀が 積もり積もった・・
・野望説:天下を取る野望を持っていた光秀が・・
・信長非道阻止説:武田攻めの際の信長親子の非道など・・
・黒幕説:朝廷・足利義昭黒幕説など(共同謀議の意味合)
・四国問題説:長曾我部元親は・・
15.山崎の戦い(天正10.6.13)と落命
・光秀の誤算:羽柴秀吉の中国大返し(約200km、7日間)、細川藤孝・忠興父子の離反
・山崎の戦い:羽柴秀吉軍4万×明智光秀1.3万、光秀敗れる→勝龍寺に退く
・坂本城へ向かうも 京都・小栗栖で 落ち武者狩りに遭 命を落とす。(天正10年6.13)55歳
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きょうは 久しぶりの歴史教室です。 4月の歴史教室が コロナで 中止になり 今月は 4月
のパート1と 今月予定のパート2を まとめた講座となります。 10月は 「明智光秀の娘・細
川ガラシャ波乱の生涯」 が予定されています。
公民館だより9月号には 元城郭研究室長の中川 秀昭さんの予告編があり 今年のNHK大河
ドラマ 「麒麟がくる」 の主人公は 明智光秀ですが、これまでは 「謀反人」 とか 「主殺しの大
悪人」 といった 悪いイメージで 語られてきた感があります。
ところが、彼は 連歌や 茶の湯にも造詣の深い教養人・文化人であり、特に 丹波では、善政を行
った名君として 今も慕われています。
謎に包まれた 彼の実像は もとより 何故 主君信長を討ったのか? 「本能寺の変」 の動機も 未
解決のままですが、光秀の生涯と足跡を辿る中で、少しでも この謎に迫ってみたいと思います。
中川 秀昭
。。。。。。。。 明智光秀の生涯と足跡をたどる 。。。。。。。。
1.明智光秀とは そもそも何者か?
・「謀反人」 「主殺しの大悪人」 のイメージ。 しかし 当代一流の文化人・教養人(茶道、連歌等)
・丹波(亀岡市・福知山市など)では、善政を行った名君として 今も 慕われる。
・参考文献:『明智光秀・光満』小和田哲男著・・「歴史は 勝者が書く、勝者の歴史である」
『明智光秀の生涯と丹波福知山』、『麒麟がくる 明智光秀とその時代』 など
2.謎に包まれた前半生
・生年:享禄元年(1528)・永正13年1516)説・・いずれも 子年
江戸時代の川柳:「丹波の鼠、京へ出て 馬を食い」(信長は 午年)
・主審地:岐阜県可児市瀬田、恵那市明知町、山県市美山町
・両親の名:父の名:光綱、光国、光隆 (三通りの名前)
母の名:お牧、お佐多、お市(伝承)
・家族:正室 妻木煕子(ひろこ)(妻木城主・妻木範煕(広忠)女)
子供 3男4女(明智玉(細川ガラシャ)など)
・出自:美濃守護・土岐氏の支族
・当初の名乗り:明智十兵衛尉光秀、天正3年から 明智惟任日向守光秀
3.長良川の合戦で 流浪ー越前へ
・長良川の合戦:斎藤道三×義龍(高政)父子の戦いー斎藤道三負死(弘治2年(1556))
・明智城落城ー斎藤義龍(高政)の軍勢が 明智城攻撃ー叔父・明智光安、光秀らに
脱出を命じ、討ち死。
-光秀ら明智城から落ち延び 越前へ。(朝倉義景を頼る)・・称念寺門前に10年居住
松尾芭蕉の句:「月さびよ 明智が妻の 拙(はなし)せむ」(奥の細道)
・越前一乗谷東大味(福井市東大味町)へ移る(朝倉義景に仕官か)
4.将軍義輝暗殺と弟・覚慶(足利義昭)大和・奈良脱出、越前へ
・室町幕府 第13代将軍足利義輝暗殺(永禄8年(1565))-首謀者:松永久秀(嫡男・久通)
・足利義輝・弟覚慶(興福寺一乗院門跡)に危機~奈良脱出
-覚慶・還俗⇒足利義秋に(のちに 足利義昭に改名~細川藤孝同行)
-将軍就任に意欲~各地の有力大名に上洛の支援要請
5.織田信長の台頭と美濃・斎藤氏の滅亡(永禄10年)(1567)
-尾張平定(永禄2年)、桶狭間の戦い(永禄3年)-今川義元を討つ
-織田信長、稲葉山城を落とし、「美濃」を手中に(永禄10.8)
6.明智光秀が 歴史の表舞台に登場
・越前で 明智光秀と足利義昭・細川藤孝 主従の出会い
-義昭主従、上洛し 将軍就任の道模索、朝倉義景は 上洛消極的→織田信長に期待
-光秀、織田信長とゆかり(光秀は 信長正室・濃姫(帰蝶)の従姉妹の間柄)
-足利義昭、光秀を足軽衆に取り立て~光秀、足利義昭の家臣に
※足利義昭一乗谷滞在中の直臣名簿・「足軽衆」14名の末尾に 「明智」とある
-光秀、義昭主従と信長の橋渡しに尽力
7.織田信長、足利義昭を奉じて 上洛。 義昭、15代将軍に就任
・明智光秀、足利義昭主従、美濃・織田信長の元へ
・足利義昭、第15代 室町幕府 将軍に就任(永禄11年)
8.元亀争乱(元亀元年(1570)~天正元年(1573))(天正元年 朝倉義景・浅井長政自刃)
・朝倉義景、信長の上洛命令を拒む⇒信長の越前攻め(元亀争乱の始まり)(元亀元年)
-信長の誤算:浅井長政(正室・お市)の反旗(元亀元年4)
-「金ヶ崎の退き口」(光秀 殿(しんがり)を務める)
-姉川の戦い(元亀元年6):織田・徳川連合軍×浅井・朝倉連合軍)
-志賀の陣(元亀元年9):浅井・朝倉連合軍が 近江・志賀へ侵攻
-比叡山焼き討ち(元亀2年9):浅井・朝倉軍に味方したことに対する報復
・光秀、信長家臣として 頭角を現す(「金ヶ崎の退き口」、「比叡山焼き討ち」などで 戦功)
9.近江志賀郡拝領(5万石)と坂本城築築城(元亀2年)
-織田家臣団の中、「一国一城の主・第1号」(信長家臣団の中 途中入社ながら)
-坂本城:水城(本丸・二の丸・三の丸、天守・小天守) ≪水軍の城・堅田水軍掌握≫
10.室町幕府 事実上の滅亡(天正元年(1573))
・将軍・足利義昭と織田信長の軋轢(二人の思惑に差・将軍権威回復⇔将軍は傀儡)
※武田信玄:三方ヶ原合戦で 徳川家康を破る(元亀3年(1572)12)
・足利義昭、宇治・槇島城に立籠るも、信長軍の攻撃に会い 降伏(天正元年7)
-光秀、足利義昭と決別し 信長の家臣に(明智光秀・村井貞勝、京都所司代に)
11.苦難の丹波攻め(天正3年(1575)~天正7年)(丹波の国衆ら織田信長から離反)
・第1次丹波攻略(天正3年~)・黒井城(萩野直正)攻め←波多野秀治・突然の寝返り⇒坂本城へ退却
・第2次丹波攻略(天正6年~)・八上城(波多野秀治)籠城戦(兵糧攻め)・・波多野秀治・秀尚ら降伏
・第2次黒井城(赤井忠家ら)攻め・落城(天正7年7)
12.丹波を平定、丹波国拝領(29万石)(天正8年 信長:天下の面目をほどこし候)
・丹波の主要な城に 一族・重臣を配置ー福知山城・明智秀光、黒井城・斎藤利三、八上城・明智光忠
-「明智光秀家 中軍法」制定(天正9年6)(軍法・軍役賦課基準)
13.信長家臣団の重臣として
・「京都馬揃え」 統括奉行(天正9年2)-織田軍団の威容をアピール、正親町天皇、公、家町衆が見物
◆光秀、武田攻めに従軍(天正10年3)ー武田勝頼 自刃・甲斐・天目山麓、田野
・徳川家康の安土城接待役(天正10年5)ー武田攻めの論功行賞・家康に駿河一国(家康 安土城へ)
『信長公記』:「御振舞の事、惟任日向守に仰付けられ、京都・堺にて 珍物と調え、生便敷結構にて」
14.中国出陣命令と本能寺の変
・中国攻めの羽柴秀吉から 信長へ出馬要請⇒光秀に中国への出陣命令(天正10年5月)
・愛宕参籠(愛宕神社・愛宕勝軍地蔵)
・愛宕百韻(連歌会・威徳院西坊)(天正10.5.27)・・「時は今 雨が下知る 五月哉」(光秀)
◇本能寺の変(天正19年6.2)
・6月2日AM2 本隊が桂川に到着、AM4 全軍 本能寺を包囲し 一斉攻撃
信長、あえなく自刃・49歳、信忠 本能寺へ向かうも 明智軍に阻まれ 防戦したが 自刃・26歳
『信長公記』:「是は謀反か、如何なる者の企ぞと 御諚の処に、森乱申す様に、明智が者と見え申候へば
是非に及ばずと 上意候」
◇本能寺の変の動機(約50の説)
・怨恨説:信長にパワハラを受けた光秀が 積もり積もった・・
・野望説:天下を取る野望を持っていた光秀が・・
・信長非道阻止説:武田攻めの際の信長親子の非道など・・
・黒幕説:朝廷・足利義昭黒幕説など(共同謀議の意味合)
・四国問題説:長曾我部元親は・・
15.山崎の戦い(天正10.6.13)と落命
・光秀の誤算:羽柴秀吉の中国大返し(約200km、7日間)、細川藤孝・忠興父子の離反
・山崎の戦い:羽柴秀吉軍4万×明智光秀1.3万、光秀敗れる→勝龍寺に退く
・坂本城へ向かうも 京都・小栗栖で 落ち武者狩りに遭 命を落とす。(天正10年6.13)55歳
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