私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

姫路の旧街道を歩く 浜街道篇4(広畑~網干)

2020-01-04 15:51:02 | 歴史探索
  1月 4日(土)  天気:晴れ    室温:16.7℃

 12月27日に FMゲンキのフリーマガジン ”冬号” の ”姫路の旧街道を歩く 浜街道篇4(広畑~
網干)” を紹介し 以前歩いたことのある個所は 写真を入れましたが きのう・きょう 訪れていな
かった夢前川西の広辻辺りと 網干区浜田の不徹寺などを 歩いてきました。 27日のページに 追加し
ます。   以前歩いたことのあるページは
●姫路の旧街道を歩く ”室津道篇2(才崎橋西詰~下余部)は 2018.4.8 です。
●室街道を歩いたのは ”室街道を行く(英賀保駅~八十大橋)” 2015.1.12 です。
●”室海道を行く(西土井~龍門寺)” を歩いたのは 2018.9.19 でした。
●”網干まちなかあるき(ダイセル異人館~龍門寺)” は 2012.3.8 です。
 下の地図は 国土地理院 H13年発行の1/2.5万の 「網干」、「姫路南部」 をコピーしました。
  
 
1.広土地区画整理事業(「広畑区整理誌」より)
   世界恐慌と その後の満州事変による」軍需の急増を受け、昭和9年、国家の統制
  の下、官営八幡製鉄所を中心に 複数の民間製鉄会社を併合した国策会社 日本製鉄が
  誕生。 阪神地区に製鉄年産70万とん、鋼塊年産50万トン/製品年産40万トン
  新製鉄所の建設を行うという第4次 拡充計画に基づき 昭和11年7月から 建設用地
  の選定を開始。 翌年3月には いくつかの候補地から 諸条件を満たす広畑に決定し、
  事業に着手。 新興工業都市(土地区画整理事業)が 行われました。

2.渡し
   明治17年の絵図 「廣畑村ト英賀村ト境界争論現今景況略図」 には、夢前川の渡河
  地点に 「此所廣畑村渡舩場」 と表示してあります。 渇水期には 板橋もしくは 徒歩で
  渡り、それが適わない時期には 渡し舟によったと推測されます。

3.広畑天満神社
   江戸時代の広畑村は、当時の大庄屋制度の下では 英賀組に属しており、英賀村の英賀
  神社の氏子でもありましたが、両村の関係悪化から、明治2年に 英賀神社を離脱し。
  京都北野神社から 菅原大神を分祀し 新たに 広畑天満神社を創建しました。
   境内には 広畑に所縁のある司馬遼太郎の祖父・福田惣八と 父・福田是定の玉垣が残さ
  れています。



4.広辻
   天満社の境内にある広辻神社は 霊亀年間の創祀と伝えられ、神社が元あったとされる
  清水町の辺りを 広辻といい、清水が湧き出したという ここが 広畑村の始まりの場所だと
  考えられています。 英賀城 落城後 三木家家臣が 広辻に逃れたことで 村は大きくなりま
  した。 地元の田中酒造場の社長によると 湧水が 3カ所あり そのうちに一つが田中家にあった。




5.本町の道標
   裏面 「左 網干港室津 右 あぼし驛」、北面 「左 飾磨港」、南面には 「明治十七年
  施主 瀬尾孫次郎」 とあります。 最大の謎は 明治17年には 網干驛は まだなく・・
  さらに 「飾磨津」 が 「飾磨港」 に改称されたのも 明治22年だということです。

6.八町道(八丁道)
   広畑村は 夢前川西岸の沖積平野にあり、一帯に広々とした畑が広がっていたことから
  名づけられたと言われています。 戦後すぐの航空写真を見ると 京見山以南の日や部の
  北半分一帯に古代の土地区画の条里制が布かれていたいたことや 浜街道が 小坂へまっすぐ
  伸びていることが分かります。 恐らく 条里田八枚分すなわち八町(約880m)の距離。
    


7.室津道(室海道)
   西土井から東では 「室津道」と呼ばれ、天満から西では 「室海道」 と呼ばれているとか。
  古代からの重要港室津は、江戸時代の参勤交代の上陸地点、朝鮮通信使の寄港地にもなりました。 
  幕府は 重要度の増したこの港を、譜代大名の姫路藩に管理させました。


8.郡境石
   2枚の長方形の石の先端にV字状に切れ込みがあり、飾磨郡と揖保郡の境界を見通せるように
  なっていたそうです。 小坂橋付近の川から発見され、現在は 菅原神社の境内に保存されています。
  菅原神社内の金比羅社前の狛犬は 天明4年(1784)の年号があり、市内の狛犬の中では 古いもの。
  もと菅原神社前にあったものを、昭和17年に移したもので、阿形と吽形の配置が普通とは 反対になっている。

9.砂堆
   かって この辺りは 遠浅の海で、姫路南高校から県道421号線の間の地域には 東西に延びる
  3本の砂堆(波浪などによってできた砂州)がありました。 街道も この砂堆上にあり 「室海道」
  と呼ばれたことも うなずけます。 歩くと 道の北側の家屋の敷地や門扉が 3~4段上がっている。

  
10.平松の道標
   昭和2年建立。 南面 「右 しかま ひめじ 左 むろつ あぼし」 道、西面 「右 吉見村
  左 太田 網干駅」。 県道421号線の敷設に伴い 現在地に移されたとのこと。


11.吉見
   揖保川分流の網干川と大津茂川の合流地点に位置する吉見は 良好な河口湊で 林田藩役人の
  常勤する蔵屋敷や藩主の御茶屋のほか、廻船問屋が軒を連ねていました。


12.大吉橋
   吉見⇔大江島間は 昭和7年に 架橋。 当時は 帆船や高瀬舟が 大津茂川を頻繁に航行して
  いたため、橋の東半分を手動ウインチで 巻き上げる跳ね橋として 架設された。(記念碑より)

13.大江島の地蔵
   大江島という地名は、河口の大きな江の島から名付けやれたという説や 洲が増加・生長するかの
  ようであったので 「生い島」 と呼ばれ、それが転訛したとも言われています。 弘治2年に没した
  梶山城主 肥塚和泉守祐忠らの霊を弔うため 大江島に土着した子孫が 建立したものです。

14.播電網干港駅跡
   明治39年、揖保郡小宅村の実業家・堀豊彦を社長に 龍野電気鉄道が 設立。 明治42年に
  国鉄網干駅から龍野町間の営業を開始、さらに同年、北は 觜崎、南は 網干港まで延伸し 最終的に
  新宮まで延伸しています。 大正14年に 播電鉄道に改称。 昭和9年に 幕を閉じました。


15.稲香村舎 誠塾
   林田藩の儒学者 河野鉄兜の弟・東馬が 慶応4年に設立した私塾。 医業の傍ら子弟の教育に
  あたりました。 東馬は 勤皇の志士として 蛤御門の変に参加、敗れて 出石藩に捕らわれ・・。

16.船渡八幡神社
   網干町史は 「船戸は 道祖神であり、猿田彦明神を祀ったものであるとしています。 船戸は
  「岐の神」(くなと=道祖神)からの転嫁と考えられます。 境内の燈籠は 元は堤防の上にあり
  高瀬舟や筏が 夜の目印としていたもの。

19.ダイセル異人館
   日本セルロイド人造絹糸株式会社(現ダイセル化学工業)の技術指導に来たイギリスやドイツ
  からの技師らの宿舎として建てられた洋風住宅。   通天閣を設計した設楽貞雄による設計で
  竣工は 明治43年。

20.旧網干銀行本店
   網干銀行は 明治27年 山陽鉄道網干駅に近い高田村で 開業。 明治29年に 網干支店を開設。
  その後 日本セルロイド人造絹糸や 龍野電機鉄道の開業に伴い 本店を網干に移し、レンガ造りの
  洋館を建設。 その後 第三十八銀行、神戸銀行となり、令和元年 レストランになりました。

21.山本家住宅
   網干銀行頭取や町長を務めた山本真蔵の住宅。 明治初期建築の主屋と 大正7年建築の洋館・離れ
  などで構成されています。 外観の特徴は 三階建て洋館の望楼。 洋風の近代和風建築です。 現在
  第1・第3日曜日に 公開されています。 山本家住宅を訪れたのは 2016.10.2 です。


22.大覚寺
   天福元年(1233) 隆禅上人の開基。 天文3年(1534)兵火で焼失。 その後 現在地に
  移りました。 信長・秀吉・家康それぞれが 当地について発した禁制を保管するなど、網干の中心的
  位置付けの寺。 江戸時代には 将軍家光から朱印地30石を認められ、盤珪国師、鉄兜らが学んだ。


18.境橋
   龍野藩(新在家)と 丸亀藩(興浜)の藩境となっていた掘割に架かっていた石橋。
  道路拡幅のため掘割は無くなり 橋は 取り外されました。



17.揖保川舟運
   江戸時代初期、網干と山崎を結ぶ揖保川舟運が 開通。 網干は 揖保川流域の物資の集散地で
  かつ河川水路と海上航路を結ぶ拠点となり、龍野藩、丸亀藩、幕府の三つの領主が それぞれ
  新在家、余子浜、興浜を分割統治しました。


23.不徹寺
   田捨女が開いたお寺。 氷上郡柏原(現丹波市)で 庄屋の家に生まれ、6歳で 「雪の朝 二の字
  二の字の 下駄のあと」 の俳句を詠んだ捨女は、夫の死後 仏門に入り、京都での修業ののち 盤珪
  禅師の徳を慕い 網干に移住。 多くの弟子を育てました。 座禅堂は 元禄13年(1700)に建
  てられたもので、全国でも数少ない 尼僧修業道場である。
   太宰府天満宮の飛梅で作った小さな天神様が 不徹庵の守り神(300年以上前の作)
   1月25日 合格祈願、厄落とし 初天神祭を行います。


24.龍門寺
   地元浜田の出身で 17歳で出家し 全国を修養、難解な禅をやさしく説いて多くの
  信者を得た盤珪禅師が、丸亀藩京極氏の保護と 豪商 佐々木家の援助を受け、寛文元年
  (1661)に 創建した播磨屈指の禅宗寺院。

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