島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

66-2一条天皇皇后定子

2020-07-08 | 天皇陵巡り
 
 藤原兼家の長男道隆(953~995)と高階貴子(タカシナノキシ・タカコ)(?~996)との間に産まれた長女が藤原定子(フジワラノテイシ)(977~1001)です。
定子の同母兄弟に伊周(コレチカ)(974~1010)や隆家(タカイエ)(979~1044)もいますし、母は息子伊周の官職から儀同三司母と呼ばれて、小倉百人一首のこの歌もある才女です。
 
 定子と言えば、彰子(ショウシ)(988~1074)と共に、歴代皇后の中では有名な皇后です。
定子は990年に14歳で3歳年下の第66代一条天皇(980~1011)(在位986~1011)に入内し、なんか難しい規約は有るのですが、中宮・皇后になりました。
  今熊野の光孝天皇母の沢子(タクシ)の陵から、泉涌寺の月輪陵に歩いて行く途中に見つけた鳥戸陵参道入り口です。
 
 定子の祖父兼家が990年に亡くなり、関白職を継いだ父道隆ですが、5年ほどで995年に亡くなりました。
道隆は息子伊周を関白にたてたかったのですが、これはかなわず、弟の道兼(ミチカネ)(961~995)が関白になりましたが、道兼も数日で亡くなりました(7日関白)。
  綺麗な参道の石段を登って行くと、見えてきました。
 
 この後定子兄伊周と叔父道長(966~1028)との激しい藤原家氏長者争いは、道長が征して、おまけに、翌年996年に起こった長徳の変で伊周と隆家は罪人に成った為、定子の後ろ盾は全くなくなってしまいました。
  鳥戸陵正面です。
 
 長徳の変の時にやっと懐妊していた定子は、髪を切って出家し、その後第1皇女脩子内親王(シュウシ)(997~1049)を産みました。
 その後伊周も許され、出家の身で又後宮入りは非難されましたが、再び入内し、999年には第1皇子敦康親王(アツヤス)(999~1019)も産みました。
皇后が産んだ第1皇子にもかかわらず、敦康親王は皇太子にも成ることなく、風雅の道を生きて20歳で亡くなっています。
  石段を下る帰り道、京都タワーも綺麗に見えました。
 
 定子は1001年に第2皇女媄子内親王(ビシ)(1001~1008)を産みましたが、そのお産の姿のまま亡くなったそうです。
 希望に沿って鳥辺野の南の鳥戸野陵(トリベノノミササギ)(東山区今熊野泉山町)に土葬されました。
この陵は藤原家ゆかりの皇后の火葬塚にもなっていました。
 
 なんとなく哀れを誘う定子ですが、高校の歴史や古文で出てきた、定子サロンの清少納言と彰子サロンの紫式部は有名ですね。
 定子と彰子は一条天皇の皇后であり(一帝二后)、ライバル同士だと思ってましたが、二人は会ったことはないのかもしれませんね。
 
 鳥戸陵の近くには、宮内庁の月輪陵墓監区事務所もあるので、ここで又陵印を沢山押してきました。
事務所の壁には昔の陵印が押された額が鰍ゥっていましたが、古い陵印の方が変化もあって綺麗です。

      返事
花水木さん:偉い人は昔から火葬もあったようで、
    歴代天皇最初の火葬は、第41代持統天皇と女帝です。
     木村君、能面彫るのも玄人肌ですし、
    京都検定1級に2回も受かってる京都通です。
    高校の成績はボチボチでしたが、私の人間形成には一役以上貢献してます。
    中止の祇園祭の山鉾連合会理事長で、またTVにも出てくると思います
花水木さん2:ありがとうございます。
    誕生日だけ1日お姉さんの花水木さんも、
    遅れましたがおめでとうございますbeer

コメント (1)
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66-1一条天皇

2020-07-05 | 天皇陵巡り
 
 藤原兼家(929~990)の娘詮子(962~1002)が産んだ、第64代円融天皇(959~991)(在位969~984)の唯一の子懐仁親王(ヤスヒトシンノウ)は、父円融天皇の譲位で従兄弟の第65代花山天皇が即位した時に、5歳で立太子しました。
  山の上にあった父円融の火葬塚から続く立派な石段を降りて行くと、御陵の裏側に出ました。
 
 986年寛和の変(カンナノヘン)で花山天皇を謀略で出家させた兼家は、懐仁親王を史上最年少7歳で第66代一条天皇(イチジョウ)(980~1011)(在位986~1011)として即位させ、念願の外祖父の地位を手に入れ、これまた自分の娘超子の産んだ冷泉上皇第2皇子居貞親王(オキサダ)(976~1017)(後の第67代三条天皇)を皇太子にたて、摂政関白として権力を握りました。
  裏側から陵の前方に廻りこみました。
 
 これで藤原北家の氏長者の地位は、師輔(モロスケ)の長男伊尹(コレタダ)や次男兼通(カネミチ)ではなく、3男の兼家が獲ったことになります。
 兼家死後は、自分の長男道隆(ミチタカ)(953~995)が関白・摂政となり、長女定子を一条天皇の中宮に入れています。
 道隆は亡くなる前に、自分の3男伊周(コレチカ)(974~1010)を関白に推したのですが、一条天皇自身などの不興もかって、それはなされませんでした。
  空中に浮かぶかのような立派な陵です。
 
 道隆に変わって関白に着いたのが、兼家次男の同母弟道兼(ミチカネ)でしたが、わずか数日後に病死し、「7日関白」と呼ばれています。
 こうして次の藤原家氏長者の地位は、国母でもあった同母姉銓子の覚え良かった5男道長(966~1028)と、長男道隆の息子伊周の争いになりましたが、996年長徳の変(伊周などが花山法皇に汲ヒかけた)により伊周の政治生命は絶たれてしまいました。
 拝所の前に立つと、京都市街パノラマの絶景です。
高校同級生で20歳前には天皇陵すべてを廻り切っていて、今年祇園祭山鉾連合会の理事長になって苦労してる木村君(きんすけ)は、ここからの眺めが陵の中で最高だと推薦していました。
 
 一条天皇は7歳で即位し32歳で亡くなっていますが、その在位期間は25年の長きにわたりました。
成人するまでの母詮子の政治への介入は仕方がないですが、成人してからは勢力を拡大していく道長との確執もかなりあったようです。
  御陵印には堀河天皇陵ともあります。
 
 一条天皇の妃としては5人いましたが、皇后は道隆長女の定子(テイシ)(977~1001)で、二人の内親王と第1皇子敦康親王(アツヤス)(999~1019)がいましたが、外祖父道隆亡き後道長と権力争いしていた伊周・隆家も失脚し、敦康親王は結局立太子すら出来ませんでした。
  ここは一条天皇陵と第73代堀河天皇陵を兼ねていました。
 
 もう一人の皇后は、道長の長女彰子(ショウシ)(988~1074)で、道長の期待を背に999年に一条天皇に入内し、一天皇に二后という前例なき事態になりました。
 彰子は10年近く懐妊しませんでしたが、1008年に第2皇子敦成親王(アツヒラ)(後の後一条天皇)を、次の年には敦良親王(アツナガ)(後の後朱雀天皇)をもうけ、道長天下の道筋を作っています。
  火葬塚は別の場所にありますが、そこの制札はパソコン文字。
 下手でもかすれていても、手書きの方が有難味が有ります。
 まあ字に関して、偉そうなことは言えない私ですが。
 
 結局、一条天皇は道長の権勢の前には太刀打ち出来ず譲位し、その年に崩御、写真で見てきた立派な圓融寺北陵(エンユウジキタノミササギ)(右京区竜安寺朱山(シュウヤマ))に葬られました。
 火葬塚は金閣寺近くの北区鏡石町に三条天皇と共にあります。
  火葬塚は別の日に自転車で廻っています。

      返事
花水木さん:日本の歴史なんて、
    勝った人の歴史、中央の歴史ですもんね。
    私は地方郷土史家が好きです。
     お菓子も魚も生ものは、
    現地で食べないと美味くないですね。

コメント (2)
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明智藪

2020-07-02 | 京都
 
 NHK大河ドラマ「麒麟がくる」、まあ半分ぐらいボチボチ観てますが、新型コロナの影響で撮影が遅れ、途中中断中ですね。
いろんな所でやってる「麒麟がくる」目当ての特別展の会場も、どこも出来なくなってるようで、春に訪れた西教寺の展示会場も閉鎖中でしたが、大河で木村文乃さんが扮してる光秀夫人煕子(ヒロコ)(細川ガラシャ夫人の母になります)さんの墓は、明智一族の墓と共にこの西教寺にあると、今春紹介してますね。
 
 撮影がずれこむために、本能寺の変は来年の放映になりそうですね。
天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝に起こった本能寺の変の舞台本能寺は、私が通った高校の隣にあった本能小学校にあったようで、私の高校時代にはなかった碑も建っています。
 
 伏見の山の上にある老人ホームからの帰り道、反対方向に寄り道して、貞Mの道を下りました。
本能寺の変の後、山崎の合戦で秀吉軍に敗れた光秀は、滋賀の居城である坂本城に落ちのびる際に、多分老人ホームの敷地内ぐらいを越えて、この辺の山道を降りて行ったと思います。
 
 貞Mの道を抜けて住宅地に出ましたが、捜してる明智藪は見つからず、あきらめかけていた時に、この幟に出会いました。
大河人気にあやかろうと、幟が立てられていたのです。
 
 その後はここまで、手書きの道案内標と幟に導かれ歩きました。
最後は、隣の住宅の私有地かなとも思うような道です。
 
 明智藪のこんな石碑もありました。
たまたま居合わせたボランティアのお爺さんの説明によると、最近少し位置をずらされた石碑のようです。
 
 一部造成地が近くまで及んでいますが、これがお目当ての明智藪です。
まあ誰かが、「この辺にしようか」と言いだしただけのことだと思いますが。
 
 どこにでも親切なボランティアのお爺さんがいます、自家製のパネルを出して懇切丁寧に説明してくれました。
ちょっと前の写真の方が、明智藪らしい?風情はあります。
近くには小さな城と言うか砦の跡もあって、それなりに街道としての役割と地の人の支配が有った場所だった、というようなことも説明されて、それなりに納得。
 
 天正10年6月13日(1582年7月2日)、そうです438年前の今日7月2日、落ち武者となり下がっていた明智光秀は、山科小栗栖(オグルス)のこの明智藪で、土民の窒竄閧ナ腹を刺され亡くなりました。
 このすぐ近くの複合施設「小栗栖の家ほっこり」でも、私は少し働いています。

      返事
花水木さん:その地方にとって当たり前の食べ物も、
    他の地方の人はまったく知らないことはよくありますね。
    でも、雲龍を知ってた花水木さんが、
    水無月を知らないのは驚きました。
    水無月もマイナーな和菓子なんですね。
toitenlabeeさん:昔東京の伯母が祇園祭の頃に来て、
    「京都のちまきは安い」と買ってきて、
    中身が無いので怒っていたことを思い出しています。
    中身の有るちまきは美味しいですね。

 
コメント (1)
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