島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

立木観音

2017-06-28 | 京都から
 
 京都の人は「立木さん・立木さん」と言って、よく厄除けにお参りする立木観音、滋賀県石山の瀬田川沿いにあります。
  
 いかんせん、この登りの石段がつらい!
私ももう50年以上前(花水木さんすみません、25年以上前です)になる、男の本厄の時に参って、しんどかった記憶がありますが、この時の立木さん厄除け参りは、他の神社仏閣より効果があった記憶も残っています。
  
 今回朝早いこともあって、すんなり登れました。(上にしかないトイレに早く行きたい一心もあってですが。ちなみに上のトイレは最新で綺麗でした。)
途中では、一人私より若いが太った今にも死にそうな男性を軽快に抜き去りました。
69年近い人生でも、人を抜く経験はあまりありませんが、死にそうに疲れた人でも、人を抜くのは気持ちの良いものです。
  
 今回の目的は、自分の厄除けではなく、長男が男の本厄・末娘が女の本厄なので、その代参です。
ずいぶん子供思いの親になったものです。
  
 この立木さん、立木山寺(タチキサンジ)、正式には安養寺(アンヨウジ)と言うそうです。
どこにでも出没する空海を、観世音菩薩の化身の白鹿が背に乗せて、瀬田川を渡ってこの地に連れて来たそうです。
その時空海42歳、だから厄除けのお寺になったそうですが、何故かこの寺は真言宗ではなく浄土宗とのことです。
  
 自分の厄年のお参りの時には、10円ぐらいのお賽銭だけで済ましたと思いますが、今回は1本100円のローソクを2本立て、お賽銭も100円、家内は御朱印帖も書いてもらい、厄年の子供にはそれぞれ厄除けの箸を買って、ゆっくり御茶所で休んで帰りました。

    返事
和さん:高槻(和さんすみません、茨木でした。)の継体天皇陵にもそろそろ行く順番です。
花水木さん:私の贔屓阪神もたまには優勝します。
    ですから私が贔屓しても、悪いことばかりは起こりませんので、
    息子さんの贔屓筋の一人にしておいてください。
福山市さん:私もブログを書かないと寂しいのです。
大雪男さん:阪神、死のロードどころか、
    オールスターまでも持たないかもしれませんね。
    巨人と最下位争いなんて嫌ですよ!

コメント (2)
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桂南光独演会

2017-06-25 | 趣味
 
 久しぶりに京阪八幡市駅に降り立ちました。
小学校の嫌いだった水泳遠足は、この駅裏の木津川の京阪電車の鉄橋の下であったと、記憶しています。
 駅からすぐに、岩清水八幡宮に行く男山ケーブルが見えていました。
  
 駅前に飾ってあった八幡市の名所・名物。
もちろん岩清水八幡宮がメインですが、そこの窒tィラメントに使ってエヂソンが電灯を灯したことも有名です。
松花堂弁当の発祥地でもあり、八幡巻もここからのようですね。
 
 今日この駅に降り立ったのは、ここから京阪バスで5分ほどの八幡市文化センタ―に行くためです。
駅前の喫茶店で、卵サンドとコーヒー飲みながらバスの発車時刻を待ちました。
 目的はセンターで行なわれる「桂南光独演会」、枝雀のネタで好きだった「つぼ算」と江戸落語から取り入れた「火焔太鼓」で、家内は隣でよく笑います。
 
 南光さんは、結構好きな落語家で、楠正成の千早赤阪村の出身です。
 漫才は金を出して観に行く気があまりありませんが、落語はまあクラッシックコンサートよりはたくさん行ってるでしょうね。
 吉本新喜劇は昔からあまり好きとは言い難いですが、松註V喜劇はおもしろいと思っていました。
どうも私が贔屓するものは、伸び悩むようですね。

   返事
久しぶりにコメントなしになって、寂しいですよ。

コメント (3)
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12≠R景行天皇皇子日本武尊の1

2017-06-22 | 天皇陵巡り
 
 三重県亀山市は、東海道亀山宿で栄えた城下町で、有名な亀山ローソクやAQUOSで一時は世界的になったシャープの亀山モデルの工場があった所です。
 第2名神高速が出来て、京都からも行き易くなりましたが、そこの能褒野神社(ノボノジンジャ)を訪ねます。
   
 左へ行けば日本武尊(ヤマトタケル)の墓へ、右の鳥居は明るい林に囲まれた能褒野神社の鳥居です。
  
 神社自体は明治以後に出来た、それほど由緒のある神社ではないですが、ご祭神は12-1景行天皇と12-2播磨稲日大郎姫との間に産まれたヲウスノ命、すなわち大英雄の日本武尊です。
  
 先ほどの道標に従ってぐるっと回っていって、最後かぎ状の坂道を曲がると、第12代景行天皇皇子日本武尊の能褒野墓(ノボノハカ)です。
ここは全長90ⅿ・高さ9ⅿの4世紀後半の前方後円墳の能褒野王塚古墳(ノボノオウツカコフン)で、明治まではあまり日本武尊の墓とは思われてなかったようです。
  
 父の景行天皇記のほとんどを占めて記されている、息子の日本武尊の話の発端は次の如くです。
父の景行天皇は上の息子大碓命(オオウスノミコト)が食事の席に出てこないので、弟の小碓命(ヲウスノミコト)に、兄を呼ぶように命じました。
それでも兄が出てこないので、ヲウス命に尋ねると、「手足をもぎ取ってバラバラにし、薦に包んで捨てました」と平然と答えたそうです。
 父の景行天皇は、優しそうな少年がこんなことをするのかと、行く末を恐れて、地方の征伐に行かせるようにしたそうです。
ここから日本武尊の武勇伝は始まりました。
   
 先ずは九州の熊襲(クマソ)退治を命じられたヲウス命は、叔母のヤマトヒメから貰った衣装を身に付けて女装し、クマソタケルの宴会に潜り込みます。
宴たけなわになった頃に、酔って無防備になったクマソタケル兄弟を刺殺するという、ちょっとひきような手で退治されたクマソタケルは、それでもあなたは強いのでと、倭建御子(ヤマトタケルノミコ)と称えたそうです。
  
 その後の話は次回に又続きます、なんせ日本武尊の墓(陵)は四つもあるのですから。
 話の最後は、日本武尊は伊吹山の神に喧嘩を売ってあなどったため、祟りのような感じで足も腫れあがり、三重(ミエ)にくびれた餅のようになったため、この地を三重(県)と言うようになったそうです。
    大和は  国のまほろば
      たたなづく   青垣
         山ごもれる  大和しうるわし
と、有名な望郷歌を詠んで、日本書紀によると30歳ぐらいで亡くなりました。
昔フークと一緒に登った(伊吹山ドライブウエイでほとんどを)伊吹山の山頂には、この日本武尊の像が建っていますし、その麓のここ亀山市に能褒野墓があるのです。

     返事 
花水木さん:この漢字を出すのに私も苦労しました。
    ヒレでは出ませんで、中学地理で習った押されてできる褶曲山脈(シュウキョクサンミャク)、
    で漢字を出し、曲山脈を消して褶だけで検索すると出てきます。
     褶(ヒレ)は最近の中高年女子がしてる薄い軽いマフラーの様なものですかね
。   
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12≠Q景行天皇皇后

2017-06-17 | 天皇陵巡り
 
 吉備の臣の祖である若建吉備津日子(ワカタケキビツヒコ)は第7代孝霊天皇の皇子で、以前岡山の墓にも行って紹介した7≠R大吉備津日子命(オオキビツヒコノミコト)の弟にあたります。
この若建吉備津日子の娘が今回の針間(ハリマ)の伊那毘能大郎女(イナビノオホイラツメ)、書紀では播磨稲日大郎姫命(ハリマノイナビノオオイラツメ)と書き、第8代孝元天皇の従妹になるのですが、その人が第12代景行天皇の最初の皇后なので、やや時代的には無理があるような気もします。
   
 第12代景行天皇は名前が挙がってるだけでも7人の妻がいるのですが、その最初の妻、この播磨稲日大郎姫命との間には5人の子をもうけています。
5人のうち2番目が大碓命(オホウスノミコト)、3番目が小碓命(ヲウスノミコト)です。
この3番目が別名倭男具那命(ヤマトヲグナノミコト)、すなわち超有名な倭建命(ヤマトタケルノミコト)・日本武尊(ヤマトタケルノミコト)です。
  次回から4回続けて日本武尊を書きます。
  
 兵庫県加古川市にある日岡神社(ヒオカジンジャ)は日本武尊の出産に際して、安産祈願をしたので、今でも安産の神様です。
   
 この神社の北門の横から、日岡御陵への石畳の道が続いていました。
   
 陵の山すその石畳を上がってやっと、景行天皇皇后播磨稲日大郎姫命の
日岡陵(ヒノオカノミササギ)にたどり着きました。
 この陵の学名は日岡陵古墳(ヒオカリョウコフン)で、4世紀の古墳時代前期の前方後円墳です。
  
 昭和11年に建てられた不思議な建物 聖徳閣。
    
 その跡地に建てられた日岡山展望台から、手前の陵と加古川を望みます。
 日岡陵は別名 褶墓(ヒレハカ)とも呼ばれています。
これは姫の遺骸を船に乗せて加古川を渡る時、急に嵐になって舟が沈み、遺骸は川中に没して上がらず、わずかに匣(クシゲ)(化粧箱)と褶(首にかける布)だけが見つかったため、この二つだけを墓に入れたので、この名があるそうです。
わざわざ加古川まで行って、私は空の陵を見ただけということですかね。

     返事 
花水木さん:コメントが入ってないと非常に寂しいです。
     なるべく花水木さんの興味を引くような文を書いていきますので、
     よろしくお願いいたします。
      他の人も時にはコメントお願いいたします。
大雪男さん:絵画鑑賞も好きですが、映画鑑賞も好きです。
    昨日日本映画の「追憶」を観ましたが、なかなかよく出来ていました。
     中日・ヤクルト・巨人の得点力が、
    少し上向いてきたのが気になりますので、
    いつもいつも不安ばかりの観戦人生です。

コメント (1)
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展覧会

2017-06-14 | 趣味
 
 先週と先々週は展覧会週間、無料券を貰ったこともあって、いろんな展覧会に行きました。
でも、展覧会のはしごもしんどくなった年頃、一日一展がせいぜいです。
 第2名神が出来て便利になった、滋賀県の信楽にまずは出かけました。
タヌキの置物で有名な信楽焼きの本場です。
このタヌキ、人間に化けてみましたが、腹がへこまないのですぐにばれそうです。
  
 信楽陶撃フ森で「うつわ ドラマチック展」を観ました。
日本の陶撃マる機会は多いのですが、世界の陶潔ニの方がダイナミックで独創的で、色々な試みをしてるような気がして、なかなか楽しい展覧会でした。
また陶撃nめようかとまで思いました。
   
 西園寺公望公が揮氓オた「泉屋博古」の額が架けられている泉屋博古館(センオクハクコカン)は、京都東山の鹿ケ谷にあります。
あの財閥住友家の美術コレクション、特に中国古代青銅器(3千年以上前ですよ)の収集で有名です。
あまり青銅器には興味ありませんでしたが、今回はボランティアの解説員が丁寧に説明してくれたので、ちょっとは理解でき面白かったです。
それに京都久津川車塚古墳出土の本物の三角縁神獣鏡も観れたので、天皇陵巡りで少しはその辺りの歴史にも興味を持っている私には、良かったです。
   
 でもそこへ行ったのは、青銅器の常設展を観るためではなく、浅井忠の展覧会
「浅井忠の京都遺産ー京都工倦@維大学美術工激Rレクション」です。
私の今の家のすぐ近くにある京都工倦@維大学の教授として、浅井忠は長く京都に住み、墓も京都にあるそうです。
私の思う洋画ばかりの浅井忠のイメージと違って、大津絵的なデザインや、フランス留学から持って帰ってきたアールヌーボのガラス器や陶剣iも陳列されていました。
   
 京都駅も大きく綺麗になってもう20年ぐらいか、大階段も有名ですが、中に入った伊勢丹にある美術館「えき」KYOTOでやっている
  「これぞ暁斎!This is Kyosai!」にも行きました。
  
 河鍋暁斎(カワナベキョウサイ)を私は知りませんでしたが、江戸から明治にかけての浮世絵画家です。
でも国芳の弟子だけあって大胆な構図や、北斎のような漫画絵も書き、春画でさえもユーモラスで、絵の一枚一枚が目の付け所が違う、と思いながら観て回りました。
それでいて筆力や写生力はすごいですし、なかなか良い画家ですね。
父親は幕臣の株を買って武士になり、母親は慶喜に付いて静岡に移住したりしてる所も、うれしいかぎりです。
  
 最後はこんな茶釜の展覧会にも行ってきました。
私の実家から500mぐらい、高校の通学路としてよく通っていた懐かしい場所にある
   大西清右衛門美術館です。

      返事
大雪男さん:大雪男さんと私の予想がほぼ当たれば良いのですが。
    でも久しぶりに死のロードまでは楽しめそうで、うれしい限りです。

コメント (2)
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