島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

124‐2昭和天皇皇后良子女王

2023-08-25 | 天皇陵巡り

 久邇宮邦彦王(クニノミヤクニヨシオウ)第1王女の良子女王(ナガコニョオウ)(1903~2000)は、生まれながらの皇族です。

母系島津家に色盲の遺伝があるので、皇太子妃にはふさわしく無いと言われた宮中某重大事件(1921年)を乗り越えて、1922年時の皇太子裕仁親王(ヒロヒト)(後の昭和天皇(1901~1989)(在位1926~1989)と婚約しました。

  大正・昭和天皇皇后陵は、この地図のような配置になっています

 虎の門事件と言う皇太子暗殺未遂事件も有って、少し予定より遅れましたが1924年結婚、次々と子供をもうけましたが、最初の4人は全て女子(内一人は夭折)でした。

1926年には裕仁親王が即位したので、良子女王も立后しています。

  武蔵野東陵(ムサシノノヒガシノミササギ)(東京都八王子市長房町)は他と同じく上円下方の陵です

 1933年(昭和5年)、二人の間の第5子として初めての男子、継宮明仁親王(ツグノミヤアキヒト)(後の第125代平成天皇(1933~ )(在位1989~2019)が産まれました。

その後は私もよく知ってる、「火星ちゃん」と呼ばれていた常陸宮正仁親王(ヒタチノミヤマサヒト)と「私の選んだ人を見て下さい」で有名な島津貴子を産んで、計7人の子供に恵まれました。

 晩年は「老人特有の症状」と報道された認知症が進行し、満97歳で亡くなり、皇淳皇后(コウジュン)と追号されて、この武蔵野東陵に葬られました。

 神話時代を除くと、歴代天皇皇后中二人共最高齢で亡くなっていますが、一番新しい陵に続く参道は、皇族も車で参拝しやすいように広かったです。

   満願成就

         ありがとうございました

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124‐1昭和天皇

2023-08-21 | 天皇陵巡り

 島から戻ってから始めた天皇陵巡り、7年間300回以上と予定をはるかに超えてしまいましたが、いよいよ最後の第124代昭和天皇(1901~1989)(在位1926~1989)にたどり着きました。

 次のシリーズ予定が決まらずに延ばし延ばししていましたが、これ以上延ばしてもう1代天皇陵巡りを追加する事態になるのも嫌なので、この辺で終わらせます。

 今年の暑すぎる夏も、終わってしまえば暑さを忘れて寂しく感じるかもしれないのと同様、不評だったこの天皇陵巡りも、終わるとなると寂しいと感じていただければ、私の立つ瀬もございます。

  東京まで大正・昭和の天皇陵を巡って、この地図を写真に撮ってからもう5年ぐらいたってます

 昭和はその年に25を足すと西暦になります(私は昭和23年生まれなので25足して1948年生まれ)し、大正は11足すと西暦になりますが、明治は何故か明治33年が3×3で西暦1900年と、高校の時は覚えました。

 1901年(明治34年)4月29日生まれの昭和天皇は、20世紀を生きた人です。

天皇誕生日と言えば、4月29日と思いゴールデンウイークの1日と思って育ってきた私ですし、昭和天皇の在位期間は64年と長く、生まれてから40歳までは昭和だった私にとっては、天皇と言えば昭和天皇でした。

  高尾駅から歩いてたどり着いた武蔵野陵(ムサシノノミササギ)(東京都八王子市長房町)は、大正天皇・皇后陵と同じところに有ります

 天皇陵巡りをしてきた歴代天皇で、唯一私の生きてる時代と重なるのは昭和天皇だけですし、その生涯(後半だけですが)を実際に目撃した天皇ですが、戦後の昭和天皇しか知らない私には、まあ平和的な戦争を嫌う天皇として写っていました。

 しかしながら私の父は、中国戦線から南洋のブーゲンビルまで軍医として地獄を見てきたようで、マラリアに罹患し捕虜になって、それでも何とか帰国出来たので私が生まれました。(ほぼ戦争の思い出は語ってはくれませんでしたが)

「天皇陛下万歳!」と言いながら死んでいった戦友などをたくさん見てきたと思われるので、正直昭和天皇に対する強い恨みはずっと持っていたようです。

私もせめて敗戦の時に、昭和天皇は責任を取って退位はしたほうが良かったと思います。

  丁度陵の上空低く、たぶん米軍機が飛んでいましたが、昔なら撃ち落されていたかもしれません。

 昭和天皇の最後は、なんか医者によって(宮内庁職員によって・政治家によって)無理矢理生かし続けられた感じがしますが、それも昭和の時代だったのでしょう。

今の平成や令和の天皇は、もうあそこまで無駄な延命策は取らない気はしますが、

もう一つ陵巡りが増えないうちに終われそうでほっとしています。

 陵印は天皇・皇后共通でした。

これで残るは隣にあるその皇后陵だけになりました。

 中村草田男が

   「降る雪や 明治は遠くなりにけり」

と詠んだのは昭和6年だそうで、明治からまだ21年しかたっていません。

 今私が、

   「くそ暑い 昭和は遠くなりにけり」

と言っても、昭和からもう35年、昭和ははるか昔になりました。

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123-2大正天皇皇后節子

2023-07-28 | 天皇陵巡り

 公爵九条道孝の4女九条節子(クジョウサダコ)(1884~1951)は、里子に出されていたこともあってかたくましく育ち、「九条の黒姫様」と呼ばれるほどでした。

  写真は、夫大正天皇の多摩陵の東に並んで一回り小さい多摩東陵(タマノヒガシノミササギ)(東京都八王子市長房町)正面です

 皇太子嘉仁親王(ヨシヒト)は健康面に不安が有り、一夫一婦制導入も有って、妃としては、その頃の色黒イコール容姿端麗ではないとのマイナス面よりは、まず健康であることが第1条件になり、1900年節子は満15歳で5歳年上の嘉仁親王と婚約しました。

  陵は同じく上円下方です

 すぐに産まれた裕仁親王(ヒロヒト)(昭和天皇)(1901~1989)に続いて、秩父宮雍仁親王(チチブノミヤヤスヒト)(1902~1953)・高松宮宣仁親王(タカマツノミヤノブヒト)(1905~1987)・三笠宮崇仁親王(ミカサノミヤタカヒト)(1915~2016)と、4人の男の子に恵まれています。

  貞明皇后多摩東陵とあります

 1912年嘉仁親王が皇位継承し第123代大正天皇(1879~1926)となったので、節子は皇后となり、大正天皇崩御後は皇太后となって、以後亡くなるまでの26年間をほぼ黒色の服で過ごされました。

死後大正天皇陵の隣多摩東陵に葬られ、貞明皇后と追号されました。

 大喪の儀は昭和26年に行われましたが、平凡な3歳の私にはその葬儀の記憶は全くありません。

  制札は4人の天皇皇后が併記されていますが、月輪陵のようにこのままここにどんどん天皇皇后陵が作られていくのですかね。

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123‐1大正天皇

2023-07-24 | 天皇陵巡り

 1879年(明治12年)、第122代明治天皇(1852~1912)(在位1867~1912)の第3皇子(他の皇子は夭折)として産まれた嘉仁親王(ヨシヒトシンノウ)の母は、側室の柳原愛子(ヤナギハラナルコ)(1855~1943)です。

  天皇陵巡り初めての関東遠征です、東京の中心からは結構遠い多摩地方でした

 明治20年、9歳で儲君治定を受け明治天皇皇后一条美子(ハルコ)(1849~1914)(後の昭憲皇太后)の実子となり、2年後に立太子した嘉仁親王ですが、生後すぐに大病を患ったりしたので、心身の発達は思うにまかせませんでした。

  多摩陵(タマノミササギ)(東京都八王子市長房町)正面、上円下方の形であることががよくわかります

 明治33年22歳の嘉仁親王は、九条道孝(ミチタカ)の娘17歳の節子(サダコ)(1884~1951)と結婚、この御世からは一夫一婦制となりました。

翌年には昭和天皇になる裕仁親王(ヒロヒト)(1901~1989)が誕生しています。

  数年前の平日だったせいもあって、この陵周囲にはあまり人影は有りませんでした

 明治45年(1912年)に崩御した明治天皇の跡を継いで、嘉仁親王は第123代大正天皇(タイショウ)(1879~1926)(在位1912~1926)として皇位に就きましたが、歩行障害もあって議会にもなかなか出られず、言語障害の為勅語を朗読することも困難であったようです。

  陵印は夫婦一緒です

 1920年(大正9年)には、大正天皇の病状が重いことが発表され、皇太子裕仁親王を摂政として、天皇は療養生活に入りました。

大正15年47歳で亡くなった天皇は、多摩陵に葬られましたが、私ぐらい大正天皇が生きていれば、私は大正生まれになっていたんですがね。

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122-2明治天皇皇后一条美子

2023-07-02 | 天皇陵巡り

 従一位左大臣一条忠香の娘で、母は側室の新畑民子の一条勝子(マサコ)(1849~1914)は、美子(ハルコ)と改名して、1869年に第122代明治天皇((1857~1912)(在位1867~1912)に入内し女御宣下後皇后に立てられました。

  陵は明治天皇陵とほぼ並んで同じような形で有ります

 美子には子は産まれず、明治天皇側室の一人柳原愛子が産んだ嘉仁親王(ヨシヒト)を養子としました。

 陵は丘陵地にあるので、眺めは良いです

 明治天皇の崩御で、皇太子嘉仁親王が大正天皇として即位したので、皇太后になった美子ですが、2年後に沼津御用邸で狭心症の為亡くなりました。

  Toitennさんに先に指摘されていた、陵の急こう配の階段ですが、手すりの無いこれぐらいの階段はもう降りるのは怖くなっています

 その年に昭憲皇太后と追号され、夫の明治天皇と共に明治神宮の祭神とされましたが、陵墓は明治天皇陵の隣の同じ敷地、伏見桃山東陵(フシミノモモヤマノヒガシノミササギ)(伏見区桃山町)です。

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