島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

94-1後二条天皇

2021-07-31 | 天皇陵巡り
 
 邦治親王(クニハルシンノウ)は大覚寺統第91代後宇多天皇(1261~1324)(在位1274~1287)の第1皇子で、母は後宮の堀川基子(モトコ・キシ)(1269~1355)です。
 
 第92代伏見・第93代後伏見と、持明院統が続いたこともあり、後嵯峨上皇の両統迭立問題の意向に反するとの父後宇多の訴えに、前回でも報告した関東申次西園寺実兼(サネカネ)の持明院統から大覚寺統への乗り換えもあって、邦治親王は1298年に後伏見天皇の皇太子にたちました。
  陵は今出川通りに面して、大学時代よく行った、黒田辰秋さん作の大きながっちりした木のテーブルでも有名な、喫茶店「進々堂」の近くにあります
 
 そしてわずか3年の在位で、後伏見天皇は譲位せざるを得なくなって、邦治親王が第94代後二条天皇(ゴニジョウ)(1285~1308)(在位1301~1308)として即位し、父後宇多上皇の院政が始まりました。
 
 後二条天皇の即位と共に、やはり両統迭立の遵守から、皇太子には持明院統の伏見天皇第3皇子富仁親王(トミヒト)(後の第95代花園天皇)が立ちました。
 
 両統迭立という兄と弟の子孫が替わりばんこに皇位に付くと言う制度も、それぞれの兄にまた兄・弟が生れ、弟にも兄・弟が生れて増えていくので、ややこしくならざるを得ない制度です。
 元々は弟から出てる亀山天皇から始まった大覚寺統の路線は、その中で長男で繋いでいこうと画策しました。
しかし、後二条天皇が意外に早く在位7年で急病で亡くなってしまいましたし、後継ぎの長男はまだ小さく病弱でしたので、花園天皇の皇太子に立てずらかったようです。
  祖父や父の眠る蓮華峯寺に、後二条の分骨所もありました
 
 後二条天皇が葬られた北白河陵(キタシラカワノミササギ)(左京区北白川追分町)は、京都大学の構内にある感じで、京大農学部の一画を占めていますし、次回報告の天皇になれなかった長男邦良親王(クニヨシ)墓も同域に有りました。

        返事
Toitenlabeeさん:外観は地味で、
    食べ物屋かどうか迷いましたが、暖かい雰囲気の応援したくなる店ですよ。
じょんのびかあさんさん:ブログ「晴徨雨読」の更新無いので心配してました。
    ジョンノビ父さんはお元気なんですか?

コメント (1)
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4連休

2021-07-29 | ノンジャンル
 
 盛り上がってほしいのか、静かにそっと観て早く終わってほしいのか、なんかわかりませんが、オリンピックの為に作ったような先週の4連休。
いつも3連休なので、1日多い4連休になっただけの私ですが、なにも予定が無いので、少し長く感じた4連休でした。
 1日目は、祇園祭後祭の宵々山見物兼麻雀でしたが、暑い中宵々山には結構人出ありました。
 
 2日目は、開会式の為の休日にしたようですが、夜の開会式ですので、仕事終わって家に帰ってからでも十分観れるので、休日にする必要性は無かったのかもしれません。
 このアルゼンチンの入場行進は「ア」ですので、起きてる間に観れました。
 
 その2日目昼、何もすることが無い老夫婦は、あてもなく滋賀県にドライブ。
お昼前にたまたま入った近江八幡近くの店が、アルゼンチンで産まれ5歳まで過ごした(両親がJAICA海外協力隊だったようです)若い店主がやってるアルゼンチン料理の店でした。
開店してまだ半年ぐらいで、こんな場所でこんな料理でやっていけるのか心配しましたが、今の世の中ネットでは有名になってなんとかいけてますと、しっかりした感じの良い店主がニコニコと料理の説明をしてくれました。
 
 「アサード」と言うアルゼンチン伝統のバーベキュー料理です。
ちょっと食べた後の写真ですが、これでいろんな肉300ℊ、二人で食べて丁度良かったし、値段も高くなく、予想以上のお味でした。
岩塩やチミチェクを付けて食べると、よりすんなりとお腹に収まります。
 追加で頼んだパン(160円)を付け忘れてるのが、帰ってから分かりました。
のんびりと人の良さそうな店主の店が、上手にやっていけるかちょっと心配になりましたが、又行きたいので、この時払おうか黙っていようか思案中です。
 
 3日目も、家に居ると暑すぎるので、今度は亀岡方面にドライブ。
「徒然草」にも出てくる(狛犬の立ち方の由緒話)、丹波国一宮出雲大神宮(イズモダイジングウ)に初めて行きました。
 
 この神宮、縁結びがよく叶い、結婚相手がすぐにみつかったと、おばさん連中の間では有名らしく、確かにこの暑いのにまあまあ参拝者はいました。
 奥の磐座(イワクラ)までは木陰を歩けましたが、でも私が祈るのは家内安全です。
 この日の真の目的は、この近くの山中にあった、行っても行かなくても良い親王墓でしたが。
 
 4連休最後の日は、来てくれた孫Ⅲ≠Pと京都市バスの旅です。
空いてて冷房も効いてる市バスの旅は、家に居るよりずっと快適で楽でした。
 競馬はとうとう貯金が無くなってしまいましたので、又入金に行かなくてはです。

         返事
Toitenlabeeさん:素直な気持ちでオリンピック観れませんが、
    あまり見ないスメ[ツも楽しいですね。

コメント (2)
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東京オリンピック

2021-07-26 | 趣味
 
 すったもんだで色々あったし、今後もありそうな2020東京オリンピックも始まりましたね。
2021年にやるのに、いつまでも2020を掲げてるのが、なんかごまかしの集大成のような気がしています。
東京2020なんて、東京の1日新規感染者数のような言い方は、いずれにしても止めた方が良い気がしますが。
 開会式もトルコの入場ぐらいで寝てしまいましたので、巨人の3人が出てくるのを観ずにすんで、良かったです。
 
 1964年の東京オリンピックの時、私は高校1年生でした。
東海道新幹線や名神高速道路が開通したりで、10月10日の開会式までずっと、日本中がざわついていたような記憶があります。
 そんな中で、夏休みに同級生と小豆島までキャンプに行ってる間に、阪神は首位に立ちましたが、オリンピック騒ぎに埋もれるように、日本シリーズでは静かにあっさり南海に負けてしまいましたね。
菅総理が言うほどは、東京オリンピックには感動せずに、終わったような気がします。
 今年の阪神、オリックスに負けても良いですから、日本シリーズには前回の東京オリンピックの時のように出てほしいですね。
 
 前回の東京オリンピックで唯一私が感動したのは、ソ連の女子砲丸投げ選手のタマラ・プレスです。
姉妹共に出てましたが、男か女か分からん様な人でした。
TV画面で砲丸を投げる時、金色(白黒画面なので想像ですが)に光ってた、丸見えの腋毛がすごくエロチックでした。
私が太めの女の子を好むようになったのは、この頃植え付けられた思い出の為かもしれません。
 オリンピック、3X3バスケットを初めて知りましたが、面白いですね。
女子日本チームで一番背の低い(たぶんNISIMURA)選手、顔は地味ですがプレーは好きになりました。
やっぱりスメ[ツは観てしまいますね!

       返事
Toitenlabeeさん:我が家のトイレの便座蓋も、
    入ってから一呼吸してから上がってるような気がします。
    こう暑いと、蓋もボーとしてしまうのか、
    身も蓋もないですね?

コメント (1)
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後祭

2021-07-24 | 京都
 
 祇園祭前祭(サキマツリ)は7月17日が巡行で、後祭(アトマツリ)は今日24日が巡行ですが、今年も巡行は中止です。
 でも今年は少しだけ山鉾が立てられたので、前祭も紹介しましたが、今年2回目のやっと出来た麻雀のついでに寄った、後祭も紹介します。
  私の実家から一番近い八幡山(ハチマンヤマ)
 
 行ったのは宵々山ですが、暑いです。
子供の頃から祇園祭は暑かったですが、年とるとこの暑さはこたえます。
 北観音山は山と言っても車輪が付いてる、皆で曳く曳山です。
子供の時は曳き初めで曳かしてもらったり、巡行終わってから元の位置に戻る時に手伝って曳きました。
 
 こちらも曳山の南観音山。
どちらも家に近いのでなじみがありましたが、鉾ではなく曳山なので、子供心にはややひけ目を感じていました。
 祇園祭の間は、家の前には写真のような提灯が出ます。
1年間家の隅にあった提灯立て(名前が判らず、同級生の山鉾連合理事長の妹に尋ねて、忙しい理事長から返事貰ったので確かです)を、各家の前に作られてる四角の穴に立てます。
今はもう立てる家が少なくなったようですが、家の前の聡怩フ時にいつも砂がたまる四角の穴は、どうなったのでしょうかね。
 
 最近復活した大船鉾、前祭の船鉾もかっこいいですが、大船鉾もかっこいいです。
この後急いで参加した麻雀は負けました。

         返事
Toitenlabeeさん:良かった、と言えば良かったです。
花水木さん:私に一番近い女性も、
    ヤスコです。

コメント (1)
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番外93-2後伏見天皇女御西園寺寧子

2021-07-22 | 天皇陵巡り番外
 
 西園寺寧子(サイオンジネイシ・ヤスコ)(1292~1357)は太政大臣西園寺実兼(1249~1322)の息子公衡(キンヒラ)(1264~1315)の娘で、14歳で持明院統の第93代後伏見天皇(1265~1317)(在位1287~1298)の女御となりました。
  寧子が夫後伏見の菩提を弔うために創建した大光明寺(ダイコウミョウジ)は、今は跡形も有りませんが、伏見に有る写真の大光明寺陵辺りだったそうです
 
 女御となった時には後伏見はもう上皇でしたが、弟富仁親王(トミヒト)を猶子にして第95代花園天皇として即位させたので、寧子は准母となり、後伏見上皇の本后にもなりました。
そして、第3皇子量仁親王(カズヒト)(1313~1364)(後の北朝初代光厳天皇)や第9皇子豊仁親王(ユタヒト)(1322~1380)(後の北朝2代光明天皇)、第1皇女ジュンシ内親王(1311~1337)(後に第96代後醍醐天皇の中宮)を産みました。
  現在大光明寺は伏見から離れて、塔頭寺院として相国寺内に有ります
 
 養子の息子花園天皇の後は大覚寺統の後醍醐天皇の治世になりましたが、1331年元弘の変で後醍醐は退位させられ、実の息子量仁親王が(第97代)北朝初代光厳天皇(明治になってから南朝が正統と言うことで歴代天皇から外されましたが)として即位しました。
これで再び夫の後伏見上皇は治天の君になっています。
   大光明寺は今は一般公開されてないので、ここまでしか入れません
 
 1333年後醍醐による建武の新政・1336年足利尊氏の室町幕府成立・1350~1352年の幕府内の内紛の観応の擾乱(カンノウノジョウラン)・1351年一時的な南北朝合体の正平一統など、どちらが味方でどっちが敵かわからないし、日本史でも憶えにくかった歴史が続き、とうとう北朝方に治天の君や皇位に付く人がいなくなりました。
そこで幕府の要請もあって、西園寺寧子(広義門院)が治天の君として君臨し、孫にあたる北朝第4代後光厳天皇(1338~1374)(在位1352~1371)が即位しました。
  相国寺横に、寧子から続くと言ってもいい伏見宮家墓地があります
 
 こうして寧子は女性としても初めてですし、皇室出身でもないのに治天の君になった唯一の人になりました。
こんな珍しいことを憶えた記憶が、私には全くありません。
 伏見宮墓地は、相国寺・同志社大学(写真後ろの建物)・御所や、私が週1回働いてる出町診療所に囲まれるようにありますが、中には入れないので、遠くからこんな写真しか撮れませんでしたし、寧子がここに眠ってるわけでもないので、今回は番外です。

       返事
Toitenlabeeさん:10年前28歳って、
    28はなかなか手ごろな微妙な突っ込みにくい数ですね。
花水木さん:いやいや70歳過ぎて、
    本当に老人になりましたよ。
     私の大学時代のラグビー試合は、ほぼ全試合無観客でやってましたので、
    無観客には慣れています。
    こうなったらTV中継も止めて、静かにオリンピックを迎えるのはどうでしょうか。
    それでも7人制ラグビーだけは、中継してね。
    

コメント (2)
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