島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

107-3後陽成天皇皇子覚深入道親王

2022-06-29 | 天皇陵巡り

 第107代後陽成天皇の第1皇子は、権中納言中山親綱(ゴンチュウナゴンナカヤマチカツナ)の娘中山親子(チカコ)(1576?~1608)が産んだ良仁親王(カタヒトシンノウ)です。

  写真の墓は、前の柵のため正面に廻れませんでした。

 生後すぐから、豊臣秀吉はこの子を次の天皇に考えていて、次期天皇即位を前提に6歳で親王宣下された良仁です。

いずれ朝鮮出兵が勝利したら、後陽成天皇を明の皇帝にし、良仁親王か後陽成天皇の弟八条宮智仁親王(トシヒト)を次の天皇にする計画もあったようです。

  右に体をずらして、正面に近いような写真を撮りましたが、どれが誰の墓塔かまでは分かりませんでした。

 しかし秀吉が死ぬと、父後陽成天皇は良仁親王を皇位継承者から外そうとし、これが関ヶ原合戦(1600年)後に政治の実権を握った徳川家康の、秀吉政権色が強かった良仁親王外しと合致し、第3皇子の政仁親王(ユタヒト)が第108代後水尾天皇(1596~1680)(在位1611~1629)として即位しました。

  2020-11-25のブログで紹介した、絶世の美人であった第94代鳥羽天皇皇后待賢門院藤原璋子(ショウシ)の花園西陵の正面左に、仁和寺宮墓地の制札がありました。

 これにより、良仁親王は出家し御室仁和寺に入り、覚深入道親王(カクシンニュウドウシンノウ)(1588~1648)として仁和寺第21世門跡も務めました。

 墓のある仁和寺宮墓地(ニンナジノミヤボチ)(右京区花園宮ノ上町)は、仁和寺というより妙心寺のほうが近いですが、11人の仁和寺門跡の皇族が眠っています。

  奥に映ってるのが璋子の陵です。ここから右に進むと1枚目の写真になります。

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107-2後陽成天皇女御藤原前子

2022-06-26 | 天皇陵巡り

 近衛前久(コノエサキヒサ)(1536~1612)は全く知らなかった名前でしたが、結構歴史的にも有名な、戦国時代の破天荒な関白だったようです。

「麒麟が来る」で本郷奏多(カナタ)さん(その後朝ドラ「カムカムエブリバデイ」でも3番目の主人公の恋人殺陣師もしてました)が、前久を演じていました。

  月輪陵(ツキノワノミササギ)(東山区今熊野泉山町泉涌寺内)のある、写真の泉涌寺には、陵に行くと言ったら拝観料は免除されました。

 この近衛前久を父に持つ藤原(近衛)前子(コノエサキコ)(1575~1630)は、1586年に豊臣秀吉の猶子になり、第107代後陽成天皇(1571~1617)(在位1586~1611)に入内、久しぶりの摂関家からの入内になりました。

  写真は泉涌寺内にある月輪陵の入り口です。

 前子は後陽成天皇との間に5男7女をもうけ、そのうちの長男政仁親王(コトヒト)が後に第108代後水尾天皇になりましたので、月輪陵に葬られています。

今までの制札中一番沢山の名が並ぶ月輪陵の制札、その後ろから5番目に後陽成天皇女御中和門院藤原前子墓とありました。

 

 

 

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丹後半島の旅2.

2022-06-22 | 

 丹後半島間人(タイザ)近くにあった立岩(タテイワ)遠景です。

最初に遠景で観たせいか、私の頭の中にあった立岩より小さく感じました。

立岩はマグマが冷えて固まった柱状節理の大きな岩の塊です。

 2014-3-12のブログで紹介した、五島列島椛島の鷹ノ巣がんぎの写真ですが、こっちのほうが迫力あったと思いますが、ここは普通の観光旅行では行けない場所なので、返す返すも残念です。

 砂浜を歩いて立岩に近づき見上げると、それなりの迫力はありますし、ベタ凪の日本海の海の色もきれいでした。

 第31代用明天皇の第3皇子麻呂子親王(マロコ)が、この地で鬼退治をして、退治した鬼をこの岩に封じ込めたので、今でも岩の中から鬼の号泣する声が聞こえてくるそうですが、その日は風も波もないので聞こえませんでした。

 奈留島の洞窟が鳴る話を思い出します。

 異母兄(異母と言っても異母同士も蘇我氏の姉妹)である第31代用明天皇(父は第29代欽明天皇)の皇后穴穂部間人皇女(アナホベノハシヒトノヒメミコ)とその子聖徳太子の母子像も、この海岸に立っていました。

 その頃の天皇家の無茶苦茶血が濃い結婚で生まれたのに、聖徳太子(兄妹の子に近い)は賢かったんですね、というか血が濃かったので極端だったのか。

 蘇我氏と物部氏の争いから逃れてこの地に居た穴穂部間人皇女は、都に帰るときに世話になったこの地に、自分の名前の間人(ハシヒト)を贈ったそうですが、村人たちは畏れ多いと、皇后が退座(タイザ)したということにして、間人をタイザと読んだそうです。

 その間人の漁港を見下ろす旅館にわらじを脱ぎ、明るいうちから誰もいない露天風呂に一人つかって、ぼーっと海を眺めていました。

 夕食のお刺身盛り合わせが旅の目的の一つでしたが、野菜多すぎと思いました。

でもこの野菜が美味しかったですよ。

 旅の朝食はいつも2~3杯食べるのですが、もう歳ですね、茶碗にこれだけで終わりました。

 接客係が男性で、この人が優しく良かったので、この人がいる間ならもう一度行きたい旅館でした。

 帰りは天橋立の小型版である小天橋によって、その久美浜湾を見ながらこれを食べたぐらいで、豊岡にも少し寄って帰りました。

 一度行くと、また行きたくなるのは、映画と旅行ですね。

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丹後半島の旅1.

2022-06-19 | 

 新型コロナ禍(下?)日帰りの旅ではなく、久しぶりの一泊旅行です・

私は4回目のワクチン接種も受けましたので、ワクチン予防接種済証があれば割引される府民割を利用してと、やっぱり美味しいお刺身も食べたいので、丹後半島間人(タイザ)の旅館に1泊です。

 泊まった部屋から間人港と漁火が見える予定も、夕方漁船は出て行ったのに、写真のように漁火はありませんでした。

 行には源頼光の鬼退治で有名な大江山にある、平成5年開館の「日本の鬼の交流博物館」(330円)にも寄りました。

入り口にある高さ5m・重さ10tの巨大鬼瓦です。

 世界の鬼の展示。

 大江山の鬼の展示などはありましたが、今一歩という感じで、私がよく行くB級の施設なんですかね。

 もちろん観覧者は我々だけ、施設は立派で周囲を掃除してる人は沢山いましたが、平日のこの日、今日は我々以外は誰も来ないかもしれません。

  こちらは特A級観光地、日本三景の一つ天橋立です。

以前この下の橋立界隈の寺や回旋橋と知恵の餅は紹介していますが、今回は「天橋立ビューランド」(リフト・モノレール往復込みで850円)に、我々は待たずに乗れるリフトで上がりました。

途中綺麗な小型の二重連モノレールとすれ違います。

 まずまず上天気です。

向かいの山にある縦の線が成相寺のケーブルカー、今までは成相寺の方からしか眺めたことがない天橋立、今回のようにこちらから見たほうが綺麗かもしれません。

 天橋立と言えば、やっぱり「股のぞき」です。

私の大腿内側が写りこんだ天橋立ですが、撮った後クラクラして、倒れかけました。   続く

そして、今回からToitennさんの助言を受けて、返事はその回のコメント欄に書き込むことにしました。

返事は、前回を見てくださいね。

 

 

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107-1後陽成天皇

2022-06-16 | 天皇陵巡り

 第106代正親町天皇の皇子誠仁親王(サネヒト)(106-2で紹介した陽光太上天皇です)の第1王子で、母は勧修寺晴子(カジュウジハルコ)の和仁(カズヒト)、後には周仁(カタヒト)が今回の主人公です。

 

 本来なら天皇になる父が亡くなっていたので、祖父正親町天皇が譲位した後に、16歳の孫にあたる和仁親王が第107代後陽成天皇(ゴヨウゼイ)(1571~1617)(在位1586~1611)になりました。

  何度も飽きるほど紹介してる深草北陵(フカクサノキタノミササギ)(伏見区深草坊町)

 女御藤原前子(サキコ)(1575~1630)との間に5男7女と多くの子をもうけ、そのうちの政仁親王(コトヒト)が後に第108代後水尾天皇(ゴミズノオ)となりました。

 また典侍藤原(中山)親子(チカコ)との間に第1皇子と第2皇子をもうけた他にも、全部で9人の妃から13男12女が産まれています。

  4年前に訪れてブログにも書いた写真の奈良県長谷寺の仁王門に揚がってる扁額は、後陽成天皇の宸筆です。

 後陽成天皇在位中には、1588年の室町幕府滅亡や秀吉による天皇の聚楽第行幸が行われ、秀吉政権の権威付けとして利用された感はありますが、朝廷は優遇されました。

 秀吉の朝鮮出兵によって、後陽成天皇を明の皇帝にたてる構想もあったようです。

 週に2回JR奈良線の車中から、深草北陵の横顔をこんな感じに見ていますが、いよいよ今回でこの陵ともおさらばです。

 しかし、後陽成天皇の在位後半は、徳川家康政権時代になり、1603年に家康を征夷大将軍に任命しましたが、宮中内の密通事件の処理や譲位の時期などで家康と対立しました。

結局、第3皇子政仁親王(コトヒト)に譲位し上皇になった後、47歳で崩御し、火葬されて(その後の天皇は400年間、昭和天皇まですべてが土葬です)深草北陵に葬られました。

  制札の最後12番目に名前が挙がってます。 

               返事

和さん:「眉山」映画もありましたね。観てませんが。

    隣のビルから丸見えのトイレでした。

花水木さん:目は大きくパッチリで、体はふくよかが良いですね。

    と言っても、今は女性なら皆好きですが、これもセクハラかなあ。

 

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