島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

99‐1後亀山天皇

2021-12-30 | 天皇陵巡り
 
 (南朝2代)第97代後村上天皇(1328~1368)(在位1339~1368)の第2皇子で、母は女御藤原勝子(ショウシ)ですので、第98代長慶天皇(1343~1394)(在位1368~1383)の同母弟になる煕成親王(ヒロナリシンノウ)ですが、誕生日は不祥ですし、後宮に入内した女性も確かでなく、皇子には恒敦親王(ツネアツ)がいたといわれてるぐらいです。
  奥嵯峨(鳥居本)と言われてる、以前は女性に人気の化野念仏寺・祇王寺・二尊院の近くに、陵へ続く写真の参道がありました
 
 同母兄長慶天皇の譲位を受けて、1383年頃に即位し(南朝4代)第99代後亀山天皇(ゴカメヤマ)(?~1424)(在位1383頃~1392)になった煕成親王ですが、治世の初めは同母兄長慶の院政が行われ、北朝方に対して徹底抗戦を行っていたようですが、劣勢は免れず、次第に和平の方向に舵を切ったようです。
 
 北朝方の足利3代将軍義満も和平を望み、三種の神器を返して譲位の形で地位を譲り、その後は替わり番この両統迭立で行き、領地は公平に二つに分けるという条件で、1392年南北朝合一がなされました。
 
 この合意によって、後亀山天皇は吉野の行宮を出発、京都に入って北朝の後小松天皇に神器を渡し、南北朝合一ということですが、南朝は消滅しましたし、その後約束の両統迭立も守られませんでした。
 
 京都嵯峨に行った後亀山はその後出家し、一時は吉野に戻りましたが、再び帰り嵐山の小倉山で隠遁生活を送り、たぶん78歳で崩御し、この嵯峨小倉陵(サガオグラノミササギ)(右京区嵯峨鳥居本小坂町)に葬られています。
 これで残りは5分の一、何とか天皇陵巡りは75歳までには完結できそうです。

 今年はこれでたぶん終わりです、皆様良いお年をお迎えください。
来年も駄文に飽きず、読んでいただければ幸いです。
   to be continued


        返事
Toitennさん:美味しいものは噛みしめよ、
    といつも言われてますが、
    貧乏性か、美味しいものは慌てて食べています。

コメント (3)
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45.三笠野と荒城の月

2021-12-26 | 菓子たくさん
 
 創業文化4年(1804年)の但馬屋老舗は、大分県駐c市駐c町にあります。
初代但馬屋幸助は但馬の最近私も行った朝来の生まれで、京都伏見の駿河屋で修業したそうですので、豊後の駐cも但馬の朝来も京都伏見も知ってるので、勝手な思い込みですが、なんか他人とは思えません。
 
 「三笠野」の由来は、昔奈良に燧焼(ヒウチヤキ)と言う日田の岡藩藩主が好きなお菓子があり、これを模すように但馬屋に作らせたのが、奈良の三笠山・春日野に因み「三笠野」と名付けられた、この茶色いほうのお菓子です。
1枚1枚丁寧に焼き上げた生地で、自家製こしあんを包んでいます。
 
 真っ白いのは「荒城の月」、明け方の空に浮かぶ白い月を菓子名に「夜越の月」と藩主より名を貰っていましたが、滝廉太郎が岡城を想って作曲した「荒城の月」を菓子名にいただいた(昭和9年)、黄身あんを泡雪で優しく包んだ上品なお菓子です。
 どちらも1個180円でしたが、2口で食べられます。

         返事
Toitennさん:コロナ禍の世の中、
    マスクでひげが隠れるため、サンタのお呼びはありませんね。

コメント (1)
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98‐3長慶天皇皇子承朝王

2021-12-24 | 天皇陵巡り
 
 承朝王(ジョウチョウオウ)(1374~1443)は第98代長慶天皇(1343~1394)の皇子ですが、母は不明、俗名は憲明と言いました。
  嵐山嵐電駅近くの長慶天皇嵯峨東陵の制札に、並んで承朝王墓とありました
 
 1392年南北朝合一で出家し、海門承朝(カイモンジョウチョウ)と名乗り、南禅寺・天竜寺・河内観心寺などで偉いお坊さんとして過ごし、父の菩提を弔うために慶寿院を開創してますので、承朝王ははっきり実在した人のようです。
  陵の入り口から左手に長慶天皇を見て奥に進み、振り返ってみた写真ですが、手前が承朝王の墓です
 
 昭和19年(1944年)にここが慶寿院跡地であることから、平坦な長慶天皇陵とされたのですが、一緒に承朝王墓(右京区嵯峨天竜寺角倉町)ともされたのでしょうね。
  長い入れない参道の奥に墓があるようです

         返事
Toitennさん:まあ夢ですね。

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98-2長慶天皇皇子世泰親王

2021-12-22 | 天皇陵巡り
 
 吉野如意輪寺にある第96代後醍醐天皇(1288~1339)の塔尾陵(奈良県吉野郡吉野町吉野山)の制札には、長慶天皇皇子世泰親王墓の名も書かれていました。
 
 世泰親王(ヨヤス・セイタイシンノウ)は第98代長慶天皇(1343~1394)(在位1368~1383)の第1皇子で、母は三条教子と推定されているだけです。
 塔尾陵への参道を上ってすぐの右側に、小さな階段とその奥に世泰親王の墓がありました。
 
 この墓は父長慶天皇が治定される前の1879年(明治12年)には、もう治定されていますし、こんな何もわからない親王墓を、わざわざ後醍醐天皇陵の脇に治定してるのも不思議です。
この吉野に南朝方の行宮(アングウ)が置かれていた1373~1378年頃に親王が死んだからですかね。

          返事
Toitennさん:私も死後550年後に認められて、
    地球を救った英雄として立派な墓を作ってもらえるような、
    そんな老人に今から成りたいですが???。

コメント (1)
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98-1長慶天皇

2021-12-20 | 天皇陵巡り
 
 父第97代(南朝2代)後村上天皇(1328~1368)(在位1339~1368)の第1皇子で、母はたぶん女御の勝子(ショウシ・カツコ)で、吉野山中で生誕したといわれてる寛成親王(ユタナリシンノウ)は、父後村上天皇の崩御の頃に第98代(南朝3代)長慶天皇(チョウケイ)(1343~1394)(在位1368~1383)として即位したらしいです。
 
 その頃、南朝方の楠正儀(マサノリ)(正成の息子)の北朝帰参などで、南朝方は衰退の一途をたどっており、長慶天皇の業績もほとんど記録に残ってないため、そもそも即位したかどうかさえ不明でした。
 
 1911年(明治44年)に南北朝正閏問題は、明治天皇の裁定により、南朝が正統とされましたが、その時でさえ長慶天皇は歴代天皇代数に入れられず、1926年(大正15年)にやっと長慶天皇は皇統加列に入ったぐらいです。
 このだだっ広い御陵に至っては、1944年(昭和19年)(私の生まれる4年前ですよ)に死後550年たってからここに決定されたようです。
 
 こんな天皇ですから、皇妃や子供も不明で、1383年頃に同母弟といわれる煕成親王(ヒロナリ)に譲位しましたが、その煕成親王が第99代後亀山天皇になって南北朝合一後京都に帰還した時も、長慶上皇は同行しなかったようです。
 
 京都で亡くなったのか、吉野や河内で亡くなったのか判りませんが、京都嵐山にこの嵯峨東陵(サガノヒガシノミササギ)(右京区嵯峨天竜寺角倉町)が造られたわけは、息子承朝が父長慶天皇を弔うために開創した慶寿院の、ここが跡地だからだそうですよ。

        返事
Toitennさん:日曜日朝は、
    今季初のうっすら雪化粧でしたね。
大雪男さん:恐縮です。
    ライトアップは、なんでも綺麗にしますね。

コメント (1)
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