島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

50-6桓武天皇皇孫遍照

2019-08-31 | 天皇陵巡り
 
 京都市山科の西北の辺りに遍照墓(ヘンジョウノハカ)はあります。
通勤の帰り道に、天智天皇陵に近い地下鉄御陵(ミササギ)駅で降りて(地図上の方)、ブラブラと遍照墓(地図下の方)を訪ねました。
 
 地図を見て探しているのにもかかわらず、一度は見落として通り過ぎた、狭い道の奥に墓らしき姿を見とめました。
 
 ぐるっと回りを住宅に囲まれている、小さな円形の丘が遍照墓ですし、はっきりと宮内庁が管理してる制札がありました。
 
 遍照(ヘンジョウ)と言われてもピンときませんが、遍照の意味は「あまねく世間を照らすこと」らしいです。
このありがたい名前の持ち主は、桓武天皇の孫にあたります。
すなわち父親が良岑安世(ヨシミネノヤスヨ)で、桓武天皇の息子なんですが、生母の身分が低いので親王宣下を受けられず、良岑姓を賜与されて臣籍降下しました。
 
 この安世の八男として生まれた良岑宗貞(ヨシミネノムネサダ)(816~890)は、850年に出家して遍照僧正(ヘンジョウソウジョウ)となりました。
 
 なんといっても有名なのは、まだ出家する前の宮中に出入りしていた頃に作った小倉百人一首の11番目
   天津風 雲の通い路 吹きとじよ
      乙女のすがた しばしとどめむ
この和歌、昔ノック・フック・パンチのマンガトリオが、
  天津風 余った風は どこに行く
と、漫才の冒頭によく使っていたので、憶えました。
 
 遍照も突然妻子を捨てて出家したのですが、その息子良岑玄利(ヨシミネノハルトシ)が父遍照を訪ねると、「お前もお坊さんになれ」と強引に11歳で出家させて、素性法師(ソセイホウシ)にさせられました。
まあそれでも、親子して小倉百人一首に載せてもらえるような歌人になったのですから、良しとしましょう。
 でも、臣籍降下した天皇の孫の墓まで宮内庁が管理してるのは、何故なんでしょうかね?

     返事
花水木さん:子供も多かったですが、妻も多いので、
    私たちの祖母年代が、一人でたくさん産んでる方が驚きですね。
     私の家族はAとBが結婚したので、
    子供はO・A・ABと一家で全て揃いました。
    どの型の子が産まれても、私の子だと言わなくてはならない、
    悲しい定めの私です。
    何だかなあ~。(花水木さんから盗作)

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50-5桓武天皇皇子仲野親王

2019-08-28 | 天皇陵巡り
 
 第50代桓武天皇には35人の子供がいたそうですが、その第12皇子である仲野親王(ナカノシンノウ)(792~867)と言われても、ピンときませんし今まで聞いたこともなかったです。
でも墓は、嵐電帷子ノ辻(カタビラノツジ)駅とJR山陰線太秦(ウズマサ)駅の間にあって、結構目立つ大きな墓でした。
 
 藤原四家の中で一番目立たず人材も少なかった藤原京家の出の藤原大従(フジワラノオオツグ)の娘藤原河子(カワコ)が、桓武天皇の宮人(キュウジン)となり、5人の親王・内親王を産みましたが、その内の一人が仲野親王です。
 住宅街の中にある高い丘に木々が生い茂り、森のようになった高畠墓(タカバタケノハカ)、参道も非常階段のように細く伸びていました。
 
 仲野親王は歴史の中で特に何かしたと言うわけではないようですが、垂箕山古墳(タルミヤマコフン)と言われるこの大きな前方後円墳に葬られているのは、少し不思議です。
まあ、治定されたのが明治になってからですから・・・・。
 
 空濠のなってるような墓外周の道を、丁度聡恍?フ職員に咎められないように一周巡りました。
 仲野親王にも17人の子供がいましたし、75歳と長生きです。
 
 仲野親王の沢山の子供のうちの一人班子女王(ハンシジョオウ)が、親王時代からの第55代光孝天皇の妃となっていて、源定省(ミナモトノサダミ)を産んでいます。
この一時は臣籍降下していた定省が、第56代宇多天皇になってしまったので、仲野親王は死後20年経ってから、天皇の外祖父として一品太政大臣を追贈されています。

     返事
花水木さん:今や私のブログは、
    半分は花水木さんのコメントを期待してる読者で成立っていますので、
    面唐ナすが一行でもコメントお願いいたします。
     京都は大文字がすむと、秋になりました。
    今年も半分以上が過ぎ、月日は巡りますが、
    目標無く生きるのはしんどいです。

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50-4桓武天皇皇子伊予親王

2019-08-24 | 天皇陵巡り
 
 木曜日の午後の仕事を辞めたので、午前中の仕事を終えて山の上の施設から、いつもの帰りとは逆の方向に降りて行き、色々訪問すること(道草です)が増えました。
山から降りた所が、写真の奥に見えてる六地蔵方面、京アニの放火殺人事件のあった所です。
 
 降りて行く途中を少し外れて、住宅街の中を探していると、なんの目印も無くなかなか見つからなかった伊予親王(イヨシンノウ)(783?~807)の巨幡墓(コハタハカ)(京都市伏見区)を、この奥に見つけました。
正式には黄金塚2号墳と言う、元々は120mもあった前方後円墳らしいです。
 
 第50代桓武天皇は26人の女性を娶り、35人の子供をもうけていますし、この内の3人が天皇になりました。
 この伊予親王も、藤原南家の恵美押勝の乱を起こした仲麻呂の甥である藤原是公(フジワラノコレキミ)の娘で、桓武天皇夫人の藤原吉子(キッシ)から産まれていますので、天皇になっても不思議はなかったようです。
 
 父の桓武天皇には愛されていたようですが、桓武の次の天皇になったのは、異母兄の第1皇子である第51代平城天皇です。
 兄の平城天皇に疎まれていた可能性もあるし、藤原四家の間の権力争いもあって、伊予親王が謀反の首謀者だと言われ、母吉子と共に捕縛幽閉されました。「伊予親王の変(807年)」
 
 「伊予親王の変」を日本史で学んだ記臆が全く無く、その墓が勤務地の近くにある自覚も、残念ながら私には全くありませんでした。
 この不幸な母子は、幽閉後1ヶ月ほどして、二人とも毒を仰いで自害したそうです。
 
 恵美押勝の乱でボロボロになっていた藤原南家は、これでとどめを刺されたようですが、後に伊予親王は無実とされ、母と共に復号・復位されました。
こんなこともあってかどうか知りませんが、墓の中央には石の宝塔が立っていました。

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50-3桓武天皇夫人藤原旅子

2019-08-21 | 天皇陵巡り
 
 藤原式家の百川(モモカワ)とその姪にあたる藤原諸姉(モロネ)【良継の娘で、前回の乙牟漏の姉になります】との間に、長女として産まれたのが藤原旅子(フジワラノタビコ)(757~788)です。
 この陵の訪問も一度失敗してたどり着けずに、再挑戦です。
 
 父の百川と、伯父でもあり祖父でもある良継が推した山部親王が第50代桓武天皇になったので、旅人の1歳下ですが叔母にあたる乙牟漏が皇后とはなっていましたが、更に785年に旅子自身も26歳で桓武天皇の後宮に入りました。
 苧ムの間の道を少し登っただけで、たどり着けます。
 
 786年には大伴親王(オオトモシンノウ)(後の第53代淳和天皇)を産みましたが、788年には30歳で亡くなっています。
 妻の乙牟漏・旅子を次々と若くして死なせ、母の高野新笠も亡くなったので、桓武天皇はより一層早良親王(崇道天皇)の霊を畏れたようです。
 
 こうして宇合(ウマカイ)から始まった藤原式家は、武智麻呂から始まった藤原南家の仲麻呂が恵美押勝の乱を起こして滅びたので、桓武・平城天皇の時代には種継や薬子(クスコ)等を擁して、藤原四家の中で一番栄えました。
 
 旅子が若くして亡くなった時にはまだ2歳だった大伴親王が、37歳で即位して第53代淳和天皇になったので、旅子は皇太后を贈られて、洛西の丘陵地にあるこの宇波多陵(ウハタノミササギ)(京都市西京区大枝)に葬られました。

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大文字

2019-08-17 | 京都
 
 また大文字が巡ってきました。
自宅が「妙」の前にあるので、島から帰って4年連続の鑑賞です。(と言うことは、4年連続同じようなブログです)
今年は京都市の半地下状の体育館が前に建ったので、少し景色は変わっています。
 
 昨日の台風も過ぎ去ってくれて、夕方には火床周囲の草に水を撒くぐらいになっています。
 
 今年はお客さんはなしで、その替わり家族12人全員集合です。
いつも知り合いから料理を少しとってるのですが、今年はなんと清水六兵衛さんのお皿に盛って来てくれました。
料理より皿の方が100倍高価でしょうね。
 
 8時過ぎ「妙」に点火、少しばらついたので、あとで怒られてるかもしれません。
 
 それでも今年は綺麗に安定して「妙」は燃えていました。
 
 我が家からは「大文字」の上ちょっとと、「船形」も見えます。
子供の時は、大文字が終わると夏休みが終わると、悲しくなっていましたが、今年は人生を感じて悲しくなっています。

      返事
大雪男さん:若い時は、ラグビーのヘッドギアも、
    全共闘の赤ヘルも、それなりに似あっていると思っていましたが、
    額が無いせいか、帽子はまったく似合いません。
    火野正平さんが被っていたような布製の自転車ヘルメットも買いましたが、
    全くダメです。
花水木さん:「漏」確かにあまり漏れると、
    仕事にも差障りが出るかもしれないので、
    これで仕事をやめるかもしれないですね。

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