島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

名古屋市内の旅3

2017-03-28 | 
 
 夕食を食べるためにホテルからブラブラと夜の街へ出ました。
すぐ近くに、夕空に浮かぶ名古屋テレビ塔がありました。
  
 テレビ塔の足元にあった、円盤のような屋根を持つ半地下のバスターミナルと商業施設のオアシス21。
昼のひつまぶしで未だ空腹を覚えていなかったため、夕食はここで軽く回転ずし。
  
 短い夕食を終えて外に出ると、テレビ塔は夜空の中にありました。
高所恐撫ヌなのに高い所に登りたがる私は、せっかくの名古屋なのでやっぱりテレビ塔に登ります。
  
 シースルーエレベーターで上がりますが、東京タワーのように混んでないのが良いです。
100ⅿの高さと、今ではそれほど高い建物ではないですが、やっぱり前の方に立つと浮「ですし、その一つ上のオープンデッキはもっと浮「です。
下の丸い円盤が、食事をしたオアシス21です。
  
 ライトアップされた名古屋城天守を、今度は逆にテレビ塔から見下ろします。
今秋から、立て直しのため天守には登れなくなるようですよ。
  
 栄の地下街には不二家があったので、最後はちょっと小さめのパフェを食べて、名古屋の1日目は終了です。

     返事

花水木さん:失礼しました、三遊亭朝橘(チョウキツ)ですね。
     関西ではお目にかかれないようですが、応援していきます。
大雪男さん:してるかどうか知りませんが、
     羽鳥アナとアリナミン宣伝の男優の目が気になります。
コメント (1)
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名古屋市内の旅2

2017-03-24 | 
 
 大曾根駅から徳川美術館まで歩く道すがら、たまたま入った鰻屋さんはそれなりに有名なのか、すぐに満席になり、特上のひつまぶしは当たりで、美味しく腹一杯になりました。
 徳川園の梅は満開で、風は少々強いですが上天気です。
   
 尾張藩第2代藩主の隠居所を再整備した名古屋徳川園、徳川美術館への近道でもあったので、通り抜けるように庭園散歩。
  
 一度行きたかった、今回の第1目的地徳川美術館に到着。
徳川美術館はひな人形と源氏物語絵巻で有名で、丁度お雛さんの季節で、雛飾りや近衛家から嫁入りした福君の日本最大の婚礼調度も飾ってありました。
 しかし、観れると思っていた源氏物語絵巻は、実物ではありませんでした。
  
 隣接する蓬左文庫は、尾張徳川家の蔵書を集めた公開文庫。
蓬左(ホウサ)と言うのは、熱田神宮を蓬莱宮(ホウライグウ)と称したことから、それに向かって左、すなわち北の一帯の地域を指すそうで、名古屋城も別名蓬左城とも言うらしいことを知りました。
 
 本日はここまでの予定でしたが、まだ時間があったのでタクシーで、その蓬左城に向かいました。
名古屋市内を歩くのはまだ4回目ぐらい、今まで名古屋市内観光で行ったことがあるのは東山動物園だけと思います。
 
 本丸御殿が復元されたところなのか、ピカピカの二条城という感じです。
廊下も新しすぎて、二条城のうぐいす廊下のように泣きませんでした。
 地震で昨年行けなかった熊本城の復元本丸もこんな感じなんでしょうね。
   
 名古屋城のシンボル金のしゃちほこは、当然ピカピカ。
   
 名古屋城天守閣に登って、名古屋の街並みを眺めますが、山並みが見えるほどの快晴ではありません。
これまた名古屋市のシンボルのテレビ塔は見えました。
昨日のニュースで、この鉄筋の名古屋城天守閣も古くなったので、木造の天守に再建されることが決まったことを知りました。
  
 桜はまだですが、場内の梅は満開です。
歩き疲れて、早めに繁華街のホテルに入りました。  
     続く。

   返事  
花水木さん:名前も変わるのですね、
    「也」が無くなるのは、親として寂しいかもしれませんが、活躍を祈ってます!!
     朝橘はあさきちと読むのですか?

コメント (1)
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名古屋市内の旅1

2017-03-22 | 
 
 3月のお彼岸、私は金曜日も休みなので4連休でした。
じっと家に居るのはつらいし、出ていって混むのもつらいので、金・土のみ1泊で近場の名古屋の旅を、日曜日は孫と遊び、祝日の月曜日は昼麻雀となりました。
 その内名古屋の旅、京都地下鉄で京都駅まで行って、先ずは京都駅から新快速で、米原まで1時間弱の旅。
いつも車から見る湖東の景色を、上からゆっくり眺めます。
  
 米原で普通に乗り換えて大垣まで35分、意外と混んでましたが、なんとか座って行けました。
先週また寒かったので、南下から見上げる伊吹山は、先々週の長浜から見た時と変わらず、まだ雪を冠っていました。
  
 大垣からは豊橋行の新快速、この列車が折り返して名古屋方面に行きます。
入ってくる列車を運転手さんと待ち、先頭車両で前の景色を見ながら名古屋へ30分。
  
 名古屋からはそのまま中央線に乗り換えて4駅ほど向こうの大曽根まで、その列車にはこんなゆったりした座席もありました。
 のんびりした老夫婦の旅行なので、新幹線なら40分弱で行ける京都名古屋間を新幹線代3000円をケチって、地下鉄も入れると五つの列車に乗り換えて、全部で2時間20分かけた旅行です。

   返事
花水木さん:三遊亭橘也さんの真打昇進、本当におめでとうございます。
    京都公演があれば、ぜひコメントに入れて下さい。
コメント (1)
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4-1懿徳天皇

2017-03-19 | 天皇陵巡り
 
 めちゃくちゃ難しい漢字ですが、パソコンでは一発で変換できますので、これしか使わないのかもしれない、懿徳です。
安寧天皇の3人の息子の内第2子の大倭日子鉏友命(オホヤマトヒコスキトモノミコト)は、軽の境岡(カルノサカイオカ)に宮殿を作り、そこで天下を治め第4代懿徳天皇となりました。
  
 第3代安寧天皇陵から、更に左回りに畝傍山沿いを自転車で走ると、出発した橿原神宮に戻る寸前に懿徳天皇陵は見えてきました。
この陵にはちゃんとお濠もあるようです。
  
 参道は開放的ですが、左右は民間の駐車場のようです。
懿徳天皇はフトワカヒメノミコトを妻として、二人のお子さんをもうけました。
 
 懿徳天皇は45歳で崩御し、陵は畝傍山の真名子谷(マナコダニ)の上にあると、古事記には記されています。
   
 懿徳天皇陵の畝傍山南繊沙谿上陵(ウネビヤマノミナミノマサゴタニノエノミササギ)ですが、ここの背後はこんもりとした山で濠も有り、古墳らしく見えます。
  
 畝傍山周囲の地図が、懿徳天皇陵の近くにありました。
中央の緑が畝傍山、左上に橿原神宮が黒い線で描かれ、私が写真に赤で書き入れた1~4代天皇陵の位置がわかりますでしょう。
この陵がすべて正しい位置と正しい埋葬者かどうかはほぼ不明ですし、そもそも1~4人の天皇が実在したかどうかもわかりませんが、天皇家の始まりはだいたいこの辺と言うことでしょうね。

コメント (1)
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3≠P安寧天皇

2017-03-15 | 天皇陵巡り
 
 綏靖天皇の一人息子師木津日子玉手見命(シキツヒコタマデミノミコト)は、父の綏靖天皇の崩御に伴い、片塩浮穴宮(カタシオノウキアナノミヤ)で即位し、第3代安寧(アンネイ)天皇となりました。
  
 母の兄の娘アクトヒメを妻に迎えましたから、従姉同士の結婚ですし、3人の子ももうけています。
 古事記には49歳で亡くなり、畝傍山の陰処にあたる場所に陵があると記されています。
  
 初代神武・2代綏靖陵を巡ってから、畝傍山に沿って左回りにぐるっと、やや迷いながら自転車を走らせ、この地元の薬屋さんの看板の向こうの道沿いに見つけました。
 
 近鉄電車に積んで輪行で持ってきた自転車と共に写った、安寧天皇の
畝傍山西南御陰井上陵(ウネビヤマヒツジサルノミホトノイノエノミササギ)です。
 
 陵の看板、内容は皆どこも同じですが、書体はそれぞれ違います。
ここの字は、微妙の部類に入る字体でした。
 
 奈良のこの辺りの道端にはこんな案内道標がありまして、安寧天皇陵の目の前にもありました。
次はこの道標に従って第4代天皇陵を目指しますが、下調べではこの近くに安寧神社があるはずなんですが、近所の人3人に尋ねても行きつけませんでした。

    返事
花水木さん:結局この話も、後妻の子供が先妻の子である、
    異母兄を殺して皇位についたという、今の北朝鮮の様な話を堂々と正史に書いている。
    あの頃の感覚は今とは違うようですね。
コメント
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