島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

80-1高倉天皇

2021-01-30 | 天皇陵巡り
 
 第77代後白河天皇(1127~1192)の第7皇子で、母は平清盛の妻時子の異母妹平滋子(ジシ)(1142~1176)の憲仁親王(ノリヒトシンノウ)は、甥である3歳年下の第79代六条天皇(1164~1176)(在位1165~1168)皇太子に5歳でなり、8歳で即位し第80代高倉天皇(タカクラ)(1161~1181)(在位1168~1180)となりました。
 
 11歳で元服した時に、清盛と時子の娘で6歳年上の従姉弟徳子(トクシ)が入内して皇后となり、6年後には清盛待望の第1皇子言仁親王(トキヒト)(1178~1185)(後の第81代安徳天皇)が産まれました。
 
 この他にも、高倉天皇は7人の妃に子を産ませています。
その内藤原殖子(ショクシ)(1157~1228)には、第2皇子守貞親王(モリサダ)(後の高倉院)と第4皇子尊成親王(タカヒラ)(後の第82代後鳥羽天皇)と、次に続く皇統になる子が産まれています。
  清閑寺への石段から撮ってます、一般人はこれ以上は近づけないようです
 
 徳子の侍女の小督局(コゴウノツボネ)(1157~1205?)が徳子より先に身籠ったので、清盛の怒りに触れ追放、その後御陵横の清閑寺で出家し、以後も高倉天皇の菩提を弔い続けた話は有名です。
  御陵の右前の石段を登るとその清閑寺、右上山門の無人の箱に100円入れて入ります
 
 高倉天皇は、父後白河と義父清盛の間で苦労し、後白河の幽閉・義兄以仁王の敗死・福原遷都・平氏の東大寺焼き討ちなどの心労もあってか、21歳で亡くなり後清閑寺陵(ノチノセイカンジノミササギ)(東山区清閑寺歌の中山町)に六条天皇と並んで葬られています。
 
 清閑寺境内には、西郷隆盛が密談した茶室跡や、小督局を供養する塔など、苔の庭で静かな良い所です。
「要石」からは、写真のように扇を開いた形に京都市内が一望できました。

       返事
花水木さん:この2日ほどは又寒い京都です。
    どこにも行けないので、天気は気にならなくなったと言っても、
    春は早く来てほしいですね。
    (別に春に若返られるわけでもないですが)

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

79-1六条天皇

2021-01-27 | 天皇陵巡り
 
 第78代二条天皇(1143~1165)の第2皇子(第1皇子は4カ月年上の尊恵法親王(ソンエ))、順仁親王(ノブヒトシンノウ)の母は伊岐致遠(イキノムネトウ)の娘で、身分も低かったですが、父二条天皇が病弱だったこともあって、わずか2歳で即位し(歴代最年少即位)、第79代六条天皇(ロクジョウ)(1164~1176)(在位1165~1168)となりました。
  79・80代の甥と叔父ですが六条天皇と高倉天皇の陵はひっついています
 
 しかし平氏一門の権勢を背景とした後白河院政の下では、しょせんは六条天皇は中継ぎですので、5歳にして早くも退位し、替わって後白河上皇の第7皇子が第80代高倉天皇に成りました。
  陵印も79・80代と共通です
 
 六条自身は上皇となったのですが(歴代最年少上皇)、元服を迎えることなく妃もまだない13歳で崩御し、清閑寺陵(セイカンジノミッサギ)(東山区清閑寺歌の中山町)に葬られました。
  清閑寺陵は高倉天皇の後清閑寺陵の背側に有るので、近寄れませんし見えません。
隣の清閑寺の石段からズームでで、なんとか木間越しに塀や門がわかるぐらいでした
 
 五条通の延長に有る国道1号線の山科に抜けるトンネル手前に、参道の標柱が立っていました。
右の天智天皇陵まではまだまだ遠いですが、今回の陵はここから歩いてすぐです。
 
 この辺りは「歌の中山」と言われていて、清閑寺の山道で美女に出会った僧が、俗念を起こしましたが、気の利いた言葉が出てこず、「清水寺へはどう行けばいいのですか?」と聞くのがやっとだったそうです。
美女は「見るにだに まよふ心のはかなくて
      まことの道を いかでしるべき」
の歌を返されたそうです。
 もちろんここで美女には合えませんでしたし、若い時に美女に声をかける機会もなかったわけではありませんが、「今何時ですか?」ぐらいしか聞けなかった私です。

       返事
花水木さん:花水木さんも、
    センサーにめげないで~
toitennさん:旅行どころか、
    「京都の人は滋賀県に来ないで」キャンペーンしてるので、
    大好きな滋賀県にも行けない生活です。
    こうなったら週末は毎週雨でも良いですよ。
和さん:やっぱりコロナの時代は
    これっ霧!より、これっきり!の方が良いですね。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

これっ霧

2021-01-22 | ノンジャンル
 
 今年も20日以上終わりましたが、世の中暗いです。
年賀状の返事も、病気になったとか、亡くなりましたとか、さんざんですし、年賀状のお年玉抽選の当たりも少なかったです。
 働いてる老人ホームで、年明け2回目のクラスター発生かと心配しましたが、これはなんとか無事に済みました。
 正月から撮った楽しい写真は少なく、来てくれた孫たちの可愛い写真と、TVから撮った大学選手権で早稲田をボコボコにしてくれた天理大学松岡大和主将の写真ぐらい。
 競馬は相変わらず、上手に来ない馬を当てていますし、楽しみにしてたトップリーグは延期になったり。
WOWWOWで録画したウッデイ・アレンの映画を観たり、NHKBSで録画したNFLを観るぐらいの楽しみしかない私です。
 
 今週もいつもの金・土・日三連休ですが、外は朝から雨と言うか、霧と言うか、靄と言うか。
でもどうせどこにも行けない世の中、雨の休日も苦痛でもありませんし、この数日体調も悪い。
 ゆっくりブログでも書こうと思いますが、なんせ天皇陵巡りの人気のなさには参っています。
それでもあと三分の一ぐらい残ってるので、菅首相のようにここは皆さまの顔を見ないように、下を向いて続けて行きたいと思っています。
 
 同じ霧でも、奈留島のこの海霧は綺麗でしたね!
奈留島も行けませんが、摩周湖やサンフランシスコ・ロンドンにも行けない今の世の中、家の近くで霧にあった時は、ぜひこの歌を口ずさんで下さい。
     山口百恵さんで、お願いしますsymbol7symbol7
  これっ霧  これっ霧
    もうお  これっ霧ですか
  これっ霧  これっ霧
    もうお  これっ霧ですか
  今も海が見えるでしょうか
    ここは  奈留島
この歌はイントネーションを変えて、色々歌えるので、いつどんな霧の中でも歌えます!
    これっ霧!  これっ霧!
     もうお  これっ霧ですか?
       これっ霧?  これっ霧?
         もうお  これっ霧ですよね!
     今も(  )が見えるでしょうか
        ここは  (    )
とこんな具合にお願いします。

        返事 
前回の花水木さん:すみません!
    捨てないでくださいね!
toitennさん:上の字を音読み、
    下の字を訓読みする重箱読みは、当時は絶対ないようです。
     また、読み方が分からない女性名は音読みすると言う、
    歴史学の慣習があるそうなので、
    多子は(タコ)ではなく、(タシ・マサルコ)と読みますが、
    当時そう呼ばれてたかどうかは、不明だそうです。

    
 
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

78-1二条天皇

2021-01-18 | 天皇陵巡り
 
 第77代後白河天皇(1127~1192)(在位1155~1158)の第1皇子で、大納言藤原経実(ツネザネ)の娘11歳年上の懿子(イシ)(1116~1143)を母として産まれたのが守仁親王(モリヒトシンノウ)です。
母懿子は産直後に疱瘡で亡くなった為に、美福門院得子に養育されました。
 
 そもそも後白河が天皇に成れたのは、実の子近衛天皇(1139~1155)が眼病の為夭折したので、守仁親王を次の天皇にしたかった養母の美福門院得子などの働きによるものでした。
したがって父後白河天皇の即位と共に、守仁親王は立太子し、3年で譲位した(させられた)後白河天皇に替わって、16歳で即位し第78代二条天皇(ニジョウ)(1143~1165)(在位1158~1165)となりました。
 
 二条天皇は祖父鳥羽天皇と美福門院得子との間に出来た、2歳年上の姝子内親王(シュシ・ヨシコ)(1141~1173)を中宮に迎えましたが、関係は良くなく子にも恵まれていません。
 また、多分藤原忠通の娘藤原育子(ムネコ・イクシ)も中宮となりましたが、二条天皇には早くに先立たれ子は無く、身分の低い伊岐氏の娘に二条が産ませた後の六条天皇の養母となっています。
 又、先々代の叔父にあたる第76代近衛天皇の皇后だった「天下一の美女」と言われていた多子(マサルコ)が、史上初ですが皇后ともなっています。
  参道は住宅街の中に立派な松並木を持ってありました
 
 幼帝ではなかった二条天皇は父後白河上皇の院政を嫌い、親政を目指し平清盛とも結んで頑張りましたが、なかなか父には勝てず、病により2歳の息子頼仁親王(ヨリヒト)に譲位して直ぐ、23歳で亡くなり香隆寺陵(コウリュウジノミササギ)(北区平野八丁柳町)に葬られています。
 もう少し元気で長生きしてたら、また違う武家世界になっていたかもしれませんね。
  平野神社に近い住宅地の中にある陵は、だだっ広く開けた感じのする、左大文字も見えそうな明るい陵でした

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

77-2後白河皇子以仁王

2021-01-16 | 天皇陵巡り
 
 第77代後白河天皇には沢山の妃や、二条・高倉天皇など多くの子もいましたが、天皇に成った子以外、皇后や子供で宮内庁治定陵墓に祀られてるのは以仁王(モチヒトオウ)(1151~1180)のみです。
  写真は、京都府の南、木津に有る以仁王を祀る高倉神社横の、以仁王墓への入り口です(京都府木津川市山城町)
 
 以仁王の母藤原成子(シゲコ)は待賢門院璋子の姪で、後白河天皇の愛も受けて以仁王以外にも、殷富門院の号を持つ亮子内親王(リョウシ)や小倉百人一首の式子内親王(シキシ)など二男四女をもうけていますが、正式な女御にはなれていません。
 
 以仁王は後白河天皇の第3皇子で、その母成子の家柄もよく、皇位継承の有力候補でもあるはずですが、異母弟憲仁親王(ノリヒト)(1161~1181)(後の高倉天皇)の母がなんせ平滋子(ジシ・シゲコ)ですので、その頃の平家の勢いからしても無理でした。
  奈良の興福寺目指して落ち延びる途中に、以仁王はここで流れ矢に当たり落命したので、この地に祀られたようです
 
 平清盛の勢いは衰えず、父後白河上皇を幽閉し、高倉天皇も譲位させて、孫である安徳天皇を即位させたため、とうとう以仁王は全国の源氏に令?リョウジ)を出して挙兵しました。
しかしすぐに敗れてしまい、加勢した源頼政と共に奈良興福寺を目指して落ちる途中、宇治平等院で頼政は自刃(76歳)したため、写真の宇治平等院中に源三位頼政公墓がありました。
 
 三井寺の僧兵で強かった筒井浄妙(ツツイジョウミョウ)も以仁王に従って、宇治平等院の戦いでも宇治川の上で奮戦したようですが、以仁王墓の100ⅿほど南の畑の中にある宮内庁管理の傍塚に、何故か筒井浄妙塚として名を残しています。
 祇園祭の後祭の山に「浄妙山」がありますが、この人形は宇治川で戦ってる浄妙さんです。
 
 写真左の塚が筒井浄妙で、右の森が以仁王墓のある高倉神社です。
JR奈良線が通り、まだ田畑が多いこの地を、以仁王一行は逃げ落ちていったんですね。
 以仁王の令獅ナ源氏が奮い立って武家社会が生れた経過から、それなりに日本史では有名な親王ですので、多分この墓には遺品ぐらいしか入ってないかもしれませんが治定されたのですかね。

 
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする