古代に都のあった桜井や飛鳥から見て、奈良盆地の北西の対角地域としての辺国(ヘグニ)がなまって、平群(ヘグリ)という読みが難しい地名になりました。
その平群には、今回の長屋王(676?~729)や以前紹介した山背大兄皇子と、政権争いに敗れて滅ぼされた人の墓があります。
近鉄平群駅を降りて、住宅地のような農地のような道を歩いて、到着したのが長屋王墓(ナガヤオウノハカ)です。
長屋王の父の高市皇子は、第40代天武天皇の長男ですが、母親の身分が低いために、高い身分の持統天皇系の皇子の補佐役として、天武天皇以後の皇親政治を支えてきました。
長屋王の母親は第38代天智天皇の皇女で、第43代元明天皇の同母姉でもある御名部皇女(ミナベノヒメミコ)です。
以上から長屋王は天皇に成れるに充分な身分だったのです。
44≠Qではなく、天武天皇の40で紹介するべきだったかもしれませんが、44-1元正天皇が義姉弟なので、44にしています。
長屋王の夫人は、母親は第43代元明天皇で、第42代文武天皇や第44代元正天皇を弟姉に持つ吉備内親王(キビナイシンノウ)です。
しかも長屋王自身も、政治的にもなかなか優れた人だったようで、藤原不比等と共に皇親政治を支えたようですし、もしかしたら天皇位を狙っていたのかもしれません。
長屋王墓の横にあるほぼトイレだけの長屋王御陵公園の案内板には、不比等が死んだ後も、不比等の娘宮子の子第45代聖武天皇を助けて政治の中心にいたのですが、藤原4兄弟の陰謀と言われてる謀反の疑いで、長屋王夫婦とその子4人は縊死に追い込まれた書いてありました。(729年長屋王の変)
長屋王は吉備内親王以外にも、不比等の娘藤原長娥子(ナガコ)も妻にしていますが、長屋王の変でもこちらの子には御咎めなかったようです。
この藤原4兄弟、変後天然痘で次々と死んでいったので、長屋王の祟りとか呪いとか言われています。
奈良そごうの建設現場から、昭和63年に大量の木簡が発掘され、平城京の東南隅に長屋王の大邸宅があったことが、事実として証明されました。
ここに建った、内部に夢殿を模した建物があったり、有名老舗店が入ったちょっと高い食堂街がある、バブル期の象徴奈良そごう店は、2000年(平成12年)に閉店に追い込まれ、その後に入ったイトーヨーカ堂も地の利が悪いのかもう一つパッとせず、2017年(平成29年)閉店しました。
そして今は、ミ・ナーラという商業施設になっていますが、がらんとしていてもひとつ人は入っていませんでした。
これらは「今だに長屋王の呪いが続いているせいだ」と言われています。
返事
花水木さん:若い時に憶えた事は今でも憶えていること多いので、
わけのわからん暗唱も、全くの無駄とは言えないと思いますが、
あの頃は嫌でした。
歴代女性天皇は8人いますが、
結婚した人の相手は皆男天皇ですので、その子は男天皇の子でもあります。
愛子さんは皇室典範をなおしたら、天皇になれます。
でも、一般人と結婚して子をなしても、
その子が次の天皇に成るのは、私はやめておいた方が良いと思います。
日本天皇家の拠りどころ、男系がつぶれるからです。