島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

7≠Q孝霊天皇皇女

2017-04-30 | 天皇陵巡り
 
 第7代孝霊天皇は4人の妻を持ち、8人の子をもうけていますが、4人の妻のうちオホヤマトクニアレヒメノミコトが産んだのが、古事記では夜麻登登母母會毘売命(ヤマトトモモソビメノミコト)、日本書紀では倭亦亦日百襲姫命(ヤマトトトビモモソヒメノミコト)と表記されている娘(皇女)です。
  
 巫女的存在として、皇女にしてはいろいろな話が残っていますが、卑弥呼のモデルではないかとの話が一番有名です。
 その墓は、奈良盆地の東の桜井市にある大市墓(オオイチノハカ)、普通には箸墓古墳(ハシハカコフン)と呼ばれています。
  
 近くにあった桜井市立埋蔵文化財センターに寄って、付近の様子を勉強した後に、箸墓に向かいました。
  
 箸墓を真横から眺めた写真です。
長さ280ⅿ高さ30ⅿ、右に前方部左が後円部にあたります。
3世紀中頃に作られ、日本で11番目の大きさで、全国でも古いほうの前期古墳に入る大型前方後円墳です。
卑弥呼(~248年)と同時期に作られたこともあって、邪馬台国畿内説の人々には卑弥呼の墓ではないかと思われています。
「昼は人が造り、夜は神が造った」そうです。
  
 ヤマトトトビモモソヒメノミコトは大物主神(オホモトヌシノカミ)の妻となっていましたが、夜しか来ないのでお顔が分かりませんでした。
ぜひ顔をお見せ下さいと願ったら、「櫛の箱に入ってる」と言われたので、朝になって箱を開いて見てみると、小さな蛇が入っていたので、思わず驚いて叫んでしまいました。
正体を見て驚き、恥をかかされたので、大物主神は「私は離婚して、お前に恥をかかす」と、山に帰ってしまいました。
姫は悔いて、その場にペタリと座り込んだ時、下にあった箸が陰(ホト)に刺さり死んでしまったので、その墓を箸墓という伝説があります。(ちょっと意図が不明の伝説ですね。)
  
 箸墓のちょうど向かいに、昔からsymbol7三輪そうめんやっまっもと
のコマーシャルソングで懐かしい三輪そうめん山本の店と広い駐車場があったので、ここに車を停めさしてもらって(もちろん帰りに細いそうめんを買いました)、箸墓をゆっくり見学に行きました。
 三輪そうめん山本は創立300年の会社ですが、看板のごとく、株式会社三輪山本に名前が変っていたのですね。
  
     少し勉強というか:
 初代神武天皇から第124代昭和天皇まで、すなわち紀元前660年から1989年までの2649年間で124人の天皇ですから、1代の平均在位年数は2649÷124≒21年間。
これなら20歳で子供を産んで、20歳で即位して40歳で死んだ時に、子供が20歳になっていて、また即位して子を産むという繰り返しで、何とか計算は成り立ちます。
 これに比べて初代神武天皇から第33代推古天皇まで、紀元前660年から601年までの一蔀1260年では、1260÷33≒38年間と、これはなかなか不可能な数字です。
 さて、それで日本の始まりを紀元前660年としてしまった人たちは困ったんでしょうね。
         続く

    返事
花水木さん:カタカナで読み方を書いていますが、
    書き間違ってるような、いないような、わからない時があります。
     頑張るので、よろしくお願いします。

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7-1孝霊天皇

2017-04-26 | 天皇陵巡り
 
 第6代孝安天皇の第2皇子大倭根日子賦斗邇命(オホヤマトネコヒコフトニノミコト)は黒田盧戸宮(クロダノイオトノミヤ)を作って天下を治めました。(奈良県田原本)
この人が今回の第7代孝霊天皇(コウレイ)です。
  
 この孝霊天皇には4人の妻がいて、全部で8人の子をもうけています。
   
 106歳で崩御し、片岡馬坂陵(カタオカノウマサカノミササギ)に葬られました。
  
 この孝霊天皇陵は奈良県王子にあって、車が通る道からV字型になった石段を上がるとすぐにありました。
  
 第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの9代の天皇は「欠史8代」と言って、本当に本当に存在した天皇かどうか怪しまれています。
特に第2代から第6代孝安天皇までは、古事記でも短い内容で終わっていますが、この孝霊天皇からは欠史8代でも少し長く書かれています。
  
 ちょっと前まではこの陵をぐるっと回れたようですが、今はだめなようですので、私も無理はしませんでした。
   
     もう一度勉強の時間:
 600年代後半、第40代天武天皇の国史編纂事業により、以前からあった帝紀と旧辞を検討して、712年太安万侶が古事記を編纂、720年には舎人親王が日本書紀を献上しています。
私の天皇陵巡りの内容も、古事記や日本書紀から成り立っています。
 そもそもなんで、日本の天皇家の始まり初代神武天皇の即位を紀元前660年にしたのでしょうか。
 ここで前回勉強した干支を思い出して下さい。
干支一周の60年を一元と言うのですが、それが21回廻る60×21=1260年を一蔀(ホウ)と言います。
そして一周60種類のうち58番目の辛酉(カノトノトリ・シンユウ)には王朝が交代する革命が、一蔀の1260年に1回の辛酉の年には大革命が起こる、との説が中国にはあったそうです。
古事記よりもっと前の帝紀・旧辞があったのが、それより100年ほど前の推古天皇の頃だとすると、その時代の601年は辛酉の年になります。(601年はたいしたことは起こっていませんが)
 601年頃、日本の天皇家の始まりはいつ頃にしようかと集まって相談した人たちは、その年が辛酉の年でもあったので、それより逆算して「一蔀の1260年前の辛酉の年が、大革命が起こって神武天皇が即位して日本が始まったとするのが、歴史もあって良いのではないか」、「そうしよう そうしよう」になってしまったのでしょうね。
これで日本の始まりは紀元前660年に決まりました、がそれによってそれに合わせないといけないことが起こってきたようです。
  続く

     返事
花水木さん:小布施の栗きんとんとおこわは、
    私には美味しかった印象がありますよ。
     桜も良いですが、梅の良さが少しわかってきた気もしています。
    今はどこも花水木が満開ですね。(満開とは言わないかもしれませんが)
大雪男さん:箱館山は反対側、北寄りの湖西の方向です。
     阪神も少しづつボロが出てきていますね

コメント (1)
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最後の桜

2017-04-24 | 京都から
 
 先週は海津大崎の桜でも船から見ようかと、マキノまで出かけましたが、1日1便になってしまっていた船は出てしまい、海津の桜ももう終わりぐらい。
箱館山スキー場にだけ、少し雪が残っていたぐらい。
  
 日曜日はブラブラと北野神社まで、桜は見当たりませんが、いつも受験でお世話になってるので、お礼参りと、横の観音堂にもお参り。
  
 西陣のお茶屋街である上七軒をブラブラ、ここも石畳になって電柱もなくなって、明るくなっていました。
 家内が美味しかったというケーキ屋さんで一休み。
家内が頼んだモンブランの方が美味しかったです。
 
 千本釈迦堂にも30年ぶりぐらいに寄りました。
本堂横のこのチェーンの低い柵、我が家の記念碑的笑い話である、皆の前で次男が笑いながらこれを飛び越えようとしてつまづき転唐オた事件、30年たってもチェーンは有りました。
次男が偉くなったら、「つまずき柵」として名所になるのですが、さすが京都の歴史は奥深い??。
  
 同じく本堂前の普賢像桜はまだ満開です。
  
 枝垂れ桜のおかめ桜はもう終わってました。
   
 そのかわり、阿龜像の前の桜はまだ満開で、初夏のような日差しの影が、私の件p心?を刺激しました。
  
 我が家の小さな2代目桜もまだ花が付いていますが、今年の京都の桜はほぼ終了です。

     返事
花水木さん:丙午の話は統計学ではないと思います。
     丙も午も火の性らしく、それに丙午の年に江戸によく火災が起こったことや、
    八百屋お七の話と結びついて、迷信が広まったようです。
     なんで古い天皇が100歳以上の長生きなのか?
    これから私の勉強で、私なりの説明をしていきたいと思います。
     別に半年暦説と言うのもあって、
    古代日本では半年を1年と数えていたという説です。
    それなら120歳の長生きも、今なら60歳で納得。
大雪男さん:10と12の組み合わせなら120通り、
    と早とちりしてしまいますよね。
     パは今のままの順位ではないと思いますが、
    セはだいたいこの順位ですかね?!
    交流戦でどうなることやら、パに勝てそうな気はしません。
    

コメント (1)
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6-1孝安天皇

2017-04-21 | 天皇陵巡り
 
 縦長長方形の形の奈良盆地の西南隅近くにあるのが御所市ですし、ここから24号線を南下すると、すぐに和歌山県に入ります。
 第五代孝昭天皇陵から東へ3㎞、第6代孝安天皇の玉手丘上陵(タマテオカノエノミササギ)は御所にありました。
  
 第5代孝昭天皇の2番目の息子、大倭帯日子国押人命(オホヤマトタラシヒコクニオシビトノミコト)が即位し第6代孝安天皇として、葛城の室に秋津島宮(アキヅシマノミヤ)を置いたそうです。
姪(兄の子)のオシカヒメノミコトを妻として、二人の子をもうけ、123歳(日本書紀では137歳)で崩御と長命です。
 
 初期の頃の天皇はだいたい次男がなっていますね。
長男は神に仕え第2子が国を治める、というパターンは何故なんでしょうね?
  
 この陵は実際丘の上にあるので、麓に自転車を置いて、どこの陵もこんな感じの石畳の参道を上ります。
  
 坂道の上に冬の午後の陽を浴びて現れたので、なかなか荘厳な感じのする陵です。
  
 西に葛城の山並みも望めましたが、この陵も真正面には廻れませんでした。
   
 再び下に降りて、麓を廻って陵を見上げましたが、真下にある大きな寺の建物の影になって、陵は石柱ぐらいしか見えません。
   
 麓の交差点の看板の如く、高校ラグビーで今や奈良では天理高校よりも強いどころか、全国でも五本の指に入るぐらい強い奈良県立御所実業高校(ゴセジツギョウと読みますよ)は、ここにあります。
   
   今回は干支(えと・かんし)の勉強をします:
 十干(ジュッカン)は現代ではあまり使いませんが、甲(コウ・キノエ)・乙(オツ・キノト)・丙(ヘイ・ヒノエ)・丁(テイ・ヒノト)・戊(ボ・ツチノエ)・己(キ・ツチノト)・庚(コウ・カノエ)・辛(シン・カノト)・壬(ジン・ミズノエ)・癸(キ・ミズノト)の十種類。
十二支は皆さんよくご存知の、子(ネ・シ)・丑(ウシ・チュウ)・寅(トラ・イン)・卯(ウ・ボウ)・辰(タツ・シン)・巳(ミ・シ)・午(ウマ・ゴ)・未(ヒツジ・ビ)・申(サル・シン)・酉(トリ・ユウ)・戌(イヌ・ジュツ)・亥(イ・ガイ)の十二種類。
 干支とは、この十干と十二支を組み合わせた(10と12の最小公倍数は60)60を周期とする数を表わす語です。
すなわち、1甲子(キノエネ)2乙丑(キノトウシ)3丙寅(ヒノエトラ)・・5戊辰(ツチノエタツ)・・・・・・43丙午(ヒノエウマ)・・・・・58辛酉(カノトノトリ)59壬戌(ミズノエイヌ)60癸亥(ミズノトノイ)の60です。
 最初の組み合わせは甲子(キノエネ)で、1924年(大正13年)はその甲子の年、その年に完成したのが甲子園球場です。
 会津藩が涙が出るほどよく戦った戊辰戦争(ボシンセンソウ)は1968年(明治元年)の戊辰(ツチノエタツ)の年に始まったのでこの名が付いています。
 大化の改新虫五匹と憶えた645年、今は大化の改新と言わず乙巳(イッシ)の変と言うようですが、645年は乙巳(キノトノミ)の年だからです。
 だから有名な丙午の年も60年に1回来るのです。
 そして61回目は又元の干支に戻るので、暦が還るということで、還暦になります。
ちなみに2週(120年)した時は大還暦と言うそうですが、我々の年代の何人かは大還暦を経験するかもしれませんね。
  ということで、干支と言う言葉は十二支だけを表わしてるのではなく、十干・十二支で干支であることを私も知りました。
これを基本に、天皇陵巡りには大事な情報なので、又勉強は続きますよ。

     返事
花水木さん:私は人情に厚く優しい人ではなく、
    ひがみっぽくって、世の中を斜めからしか見ない人間のようですよ

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5-1孝昭天皇

2017-04-18 | 天皇陵巡り
 
  
   
 そもそも天皇陵巡りを始めたのは、50歳を過ぎた頃に、おのれの記憶力の衰えを自覚し、記憶力のトレーニングのつもりで、通勤電車の中で懸命に歴代天皇124人の名前を、戦前の小学生のように覚えはじめたのが発端です。
どちらかと言えば、反体制・反権力・左翼系として、人生を過ごしてきましたが、せっかく覚えたのだからと、平成15年頃から天皇陵巡りを開始しました。
しかしながら、突然奈留島に行こうと思ったため、天皇陵巡りは半分ぐらいで頓挫してしまいました。
昨年島から京都に戻ったため、また、奈留島で始めたブログのネタとして、天皇陵巡りを再開してブログで記録しておこうとしている次第です。
 前回も集めていた陵印を、今回も貰っていますが、せっかくの陵印を2.綏靖 3.安寧 4.懿徳と掲載を忘れていたので、ここに三つ並べて掲載します。
  
 今回の第5代孝昭天皇(コウショウ)は、第4代懿徳天皇(イトク)が妻のイヒビヒメノミコトに産ました長男の方の御真津日子訶恵志泥命(ミマツヒコカエシネノミコト)です。
  
 孝昭天皇は今の奈良県御所市である葛城の掖上(ワキノカミ)に宮殿を作って天下を治め、古事記では93歳で崩御しています。
 第5代孝昭天皇の陵である掖上博多山上陵(ワキノカミノハカタヤマノエノミササギ)は、JR御所(近鉄御所)駅から南へ1㎞程、1~4代の天皇陵があった橿原からは南西に5㎞ほど離れて有りました。
  
 第5代孝昭天皇陵の陵印です。
陵印は今では各陵にあるのではなく、奈良地区はまとめて、神武天皇陵にある宮内庁の畝傍陵墓監区事務所にあります。
 
 孝昭天皇陵は微妙に正面に廻ることが出来ないので、せっかく来たのに、横から写真を撮るしかありませんでした。
  
 陵のすぐ横には小さいながら孝昭宮と言う神社もありました。
  
 神社参道を上って行くと、小さな社があって、そこから陵の墳丘を眺められましたが、住宅街の中にある小さな丘ぐらいにしか確認できませんでした。

    返事
花水木さん:そんなに忙しくない仕事が多いですし、
    金・土・日はだいたい三連休で、これを楽しみに生きています

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