島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

番外93-2後伏見天皇女御西園寺寧子

2021-07-22 | 天皇陵巡り番外
 
 西園寺寧子(サイオンジネイシ・ヤスコ)(1292~1357)は太政大臣西園寺実兼(1249~1322)の息子公衡(キンヒラ)(1264~1315)の娘で、14歳で持明院統の第93代後伏見天皇(1265~1317)(在位1287~1298)の女御となりました。
  寧子が夫後伏見の菩提を弔うために創建した大光明寺(ダイコウミョウジ)は、今は跡形も有りませんが、伏見に有る写真の大光明寺陵辺りだったそうです
 
 女御となった時には後伏見はもう上皇でしたが、弟富仁親王(トミヒト)を猶子にして第95代花園天皇として即位させたので、寧子は准母となり、後伏見上皇の本后にもなりました。
そして、第3皇子量仁親王(カズヒト)(1313~1364)(後の北朝初代光厳天皇)や第9皇子豊仁親王(ユタヒト)(1322~1380)(後の北朝2代光明天皇)、第1皇女ジュンシ内親王(1311~1337)(後に第96代後醍醐天皇の中宮)を産みました。
  現在大光明寺は伏見から離れて、塔頭寺院として相国寺内に有ります
 
 養子の息子花園天皇の後は大覚寺統の後醍醐天皇の治世になりましたが、1331年元弘の変で後醍醐は退位させられ、実の息子量仁親王が(第97代)北朝初代光厳天皇(明治になってから南朝が正統と言うことで歴代天皇から外されましたが)として即位しました。
これで再び夫の後伏見上皇は治天の君になっています。
   大光明寺は今は一般公開されてないので、ここまでしか入れません
 
 1333年後醍醐による建武の新政・1336年足利尊氏の室町幕府成立・1350~1352年の幕府内の内紛の観応の擾乱(カンノウノジョウラン)・1351年一時的な南北朝合体の正平一統など、どちらが味方でどっちが敵かわからないし、日本史でも憶えにくかった歴史が続き、とうとう北朝方に治天の君や皇位に付く人がいなくなりました。
そこで幕府の要請もあって、西園寺寧子(広義門院)が治天の君として君臨し、孫にあたる北朝第4代後光厳天皇(1338~1374)(在位1352~1371)が即位しました。
  相国寺横に、寧子から続くと言ってもいい伏見宮家墓地があります
 
 こうして寧子は女性としても初めてですし、皇室出身でもないのに治天の君になった唯一の人になりました。
こんな珍しいことを憶えた記憶が、私には全くありません。
 伏見宮墓地は、相国寺・同志社大学(写真後ろの建物)・御所や、私が週1回働いてる出町診療所に囲まれるようにありますが、中には入れないので、遠くからこんな写真しか撮れませんでしたし、寧子がここに眠ってるわけでもないので、今回は番外です。

       返事
Toitenlabeeさん:10年前28歳って、
    28はなかなか手ごろな微妙な突っ込みにくい数ですね。
花水木さん:いやいや70歳過ぎて、
    本当に老人になりましたよ。
     私の大学時代のラグビー試合は、ほぼ全試合無観客でやってましたので、
    無観客には慣れています。
    こうなったらTV中継も止めて、静かにオリンピックを迎えるのはどうでしょうか。
    それでも7人制ラグビーだけは、中継してね。
    

コメント (2)
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藤原(北)家3.

2020-10-11 | 天皇陵巡り番外
 
 基経⑧(モトツネ)の長男時平(871~909)は901年昌泰の変(ショウタイノヘン)で、写真の「飛梅」のある太宰府に菅原道真を左遷させ、学者門閥による権力奪取を阻止しましたが、道長の怨霊の崇りか早くに亡くなったので、基経の4男忠平⑨(880~949)が藤原北家9代目の氏長者になりました。
忠平からが、本来の摂関政治の始まりと言われています。
 
 忠平は外祖父にはなっていませんが、忠平次男の師輔⑩(モロスケ)(909~960)は、第62代村上天皇の中宮になった長女安子(アンシ)のおかげで、第63代冷泉天皇・第64代円融天皇の外祖父に成れ、忠平長男の実頼(サネヨリ)より上に立てました。
 969年の安和の変(アンナノヘン)で源高明を失脚させ、藤原北家の他氏排斥は終了しました。
 次いで北家の兄弟同士の争いに勝ったというか、長女超子(チョウシ・トオコ)が第67代三条天皇を、次女詮子(センシ)が第66代一条天皇を産んだことに依って、師輔3男の兼家⑪(929~990)が圧涛Iな権力者になれました。
  写真は、17人の藤原家出身の皇后などが眠る、何度も出してきた宇治陵総拝所です。
 
 そしてたなぼた式ではありますが、兼家5男の道長⑫(966~1028)が長男道隆系の中関白家(ナカノカンパクケ)に勝利し、天皇家と最高の身内的結合を完成させました。
 こうして12代約350年にわたる藤原(北)家の氏長者は、何故か長男ではなく次男以下が継ぐという結果になってしまい、道長の時代が藤原(北)家の最長点と思われますが、望月になった月はやっぱりかけ始めました。
  写真は、宇治木幡に道長が建てた大きなお寺浄妙寺跡ですが、今は小学校の前に建つこんな立柱だけです
 
 道長の後を継いだのは、写真の平等院を完成させた長男の頼通⑬(ヨリミチ)(992~1074)で、初の長男が氏長者になりました。
ただその後は、藤原北家の娘は入内はするが男子を産まない時代となり、大番頭(外祖父)が権力を握る藤原家の摂関政治から、会長(上皇・法皇)に早くなって息子の若社長(天皇)を操作するという、男系の院政の時代に移って行きました。
 
 頼通以後の藤原北家氏長者は、頼通6男の師実⑭(モロザネ)(1042~1101)に、次いで師実長男の師道⑮(モリミチ)(1062~1099)、師道長男の忠実⑯(タダザネ)(1078~1162)、忠実次男の忠通⑰(タダミチ)(1097~1164)と続きます。
忠通は保元の乱(1156年)を勝ち抜き、百人一首の歌人としても法性寺入道前関白太政大臣として名を残していますが、道長以後道長以上の権力者は藤原北家からは出ませんでした。
それでも昭和天皇の皇后は藤原家からですし、他にも藤原家からの皇后や天皇の母は沢山出ています。
 高校生の頃、日本史を学んでいて、平安時代は面白くなかった理由が判りました。
汚い陰謀や子を産ませたもん勝ちの歴史が、若かった私には退屈で、実力で奪い取る武士の世の歴史の方が面白かったはずですよ。
でも年とってみると、ややこしい相関関係やだましあいの世界も、ゴシップ的で面白くなっています。
 8月の猛暑で、天皇陵巡りを見合わせていましたが、難関の上醍醐陵にもなんとか行けて、又いよいよ武士の世の中になっていく天皇陵巡り、それでも地味で退屈かもしれませんが、時々スイーツを入れながら続きますので、どうか見捨てないでよろしくお願いいたします!!

      返事
花水木さん:又ややこしい話ですみませんです。
     立石電機の先先代?社長の奥さんは、
    私にも優しかった、しゃきっとしたおばさんさんでした。
     観るならアメフトかラグビーですよ。

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藤原(北)家2.

2020-10-07 | 天皇陵巡り番外
 
 807年第50代桓武天皇第3皇子伊予親王の謀反をでっちあげて、恵美押勝の乱(764年)後もなんとか残っていた藤原南家の残党を一曹オた式家と北家ですが、810年薬子の変(クスコノヘン)で、藤原式家の仲成・薬子の兄妹を殺し、藤原四子体制は北家の一人勝ちになりました。
  写真は、私の働く伏見区の老人ホームから坂道を降りて行くと住宅街の一画にある、あまり有名ではないですが伊予親王巨幡墓(コハタノハカ)です
 
 鎌足①から数えて6代目の藤原氏長者、北家冬嗣⑥(フユツグ)(775~826)は第52代嵯峨天皇と強く結びつき、出世街道をまい進し、とうとう長女順子(ノブコ)を第54代仁明天皇に輿入れさせ、待望の孫第55代文徳天皇を産ませています。
  写真は、立石電機(オムロン)の社長さん旧宅。
私の産まれた家の真向かいに有ったので、今ほど大会社でもなかったからか、子供の時はこの家の庭で私のような庶民の子でも遊ばせてもらえました。
ここから私が1歳にして早くも行ってる、文徳天皇陵までは徒歩5分です。
 
 冬嗣の次男良房⑦(ヨシフサ)(804~872)は、842年承和の変で大伴氏・橘氏など他氏排斥を実行し、娘明子(メイシ・アキラケイコ)を文徳天皇に嫁がせ、産まれた第56代清和天皇の外祖父として、摂政の地位も得ました。
 良房は兄の長良(ナガラ)の三男基経⑧(モトツネ)(836~891)を養子として、藤原氏長者を継がせています。
 866年応天門の変で大伴氏・紀氏を排斥した基経は、同母妹高子を清和天皇に嫁がせ、第57代陽成天皇を産ませますが、高子さんと基経は折り合いが悪く、陽成天皇で一旦天皇の外戚の地位は藤原北家から離れました。
しかし、政権はまだ藤原北家が握っていて、基経は何やかんやごねながら(887年の阿衡事件(アコウ))、実質上の関白にもなっています。
  写真は、基経の墓と言われてる許波多神社(コハタジンジャ)内に有る宇治陵36号です。 
 
 基経は娘を第59代宇多天皇になんとか入れましたが、内親王しか産まれませんでした。
しかし、もう一人の娘穏子(オンシ・ヤスコ)を第60代醍醐天皇に入内させ、第61代朱雀天皇・第62代村上天皇が産まれたので、ここに完全に北家が外戚の地位を握りました。
  写真は、宇治陵総拝所前に建つ藤原氏塋域の碑ですが、そうそうたる名が並んでいます

       返事 
花水木さん:ややこしいですよね。
    わかったつもりで書いていますが、すぐ忘れてしまうぐらいややこしいです。
     サッカーは単純な割に目が離せないし、あまりにもゴールが少ない。
    得点シーンだけ録画で見たらよいスメ[ツかもしれません。
     そろそろラグビーが始まりそうですが、
    昨年の興奮を皆さんが忘れていなければ良いのですが。

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藤原(北)家1.

2020-10-04 | 天皇陵巡り番外
 
 奈良時代から平安時代へと天皇陵巡りを続けながら、一緒に歴史の勉強もしてると、限りなく天皇家と藤原家は交じり合って、1000年頃の天皇は天皇家の人ではなく藤原家の人だと思ってしまいました。
 そもそも天皇家と藤原家の関わり合いは、藤原鎌足①(614~669)が第38代天智天皇と蹴鞠で知り合い、奈良の多武峰にある談山神社の境内で、645年の大化の改新(乙巳の変)の談合をしてからです。
  写真は鎌足の長男で唐に渡っていた定慧和尚(ジョウエ)が建立した談山神社で、私がたまたま見れた蹴鞠の会です。
 
 天智天皇の腹心の部下となった鎌足ですが、672年壬申の乱で政権が第40代天武天皇系に変わった時は、天智はもちろん鎌足ももう死んでおり、鎌足次男不比等②(659~720)は13歳でした。
連座制で処罰を受けてもよい立場の不比等でしたが、不二山(富士山)のように比べることは出来ないような名前まで付いて、何故か天武→第41代持統天皇政権の中枢に入りこみ、養女宮子を第42代文武天皇に嫁がせ、出来た皇子第45代聖武天皇にも娘の光明子を嫁がせています。
以前の蘇我家と同じように藤原家がとってきた、娘を天皇に嫁がせる策の始まりです。
 そうして729年長屋王の変で、天武の望んだ皇親政治さえ終わらせたのは、不比等の4人の息子たち武智麻呂(南家)・房前③(フササキ)(681~737)(北家)・宇合(ウマカイ)(式家)・麻呂(京家)の藤原四子体制です。
  写真は長屋王墓周囲にある長屋王公園です
 
 写真の平城京を舞台に、藤原家と他の豪族や皇親との争いは続きましたが、宇合の式家は息子広嗣が738年広嗣の乱を起こし、五島列島宇久島まで逃げて捕まり、孫の種継(タネツグ)は長岡京遷都では貢献しましたが陰謀で射殺されています。
 
 長男武智麻呂の南家は、その子仲麻呂(恵美押勝)(エミノオシカツ)が強大な権力と武力を握り、天皇に替わって政権を獲れそうなぐらいでしたが、764年恵美押勝の乱で予想外にもあっという間に敗れ、琵琶湖畔で敗死しました。
 麻呂の京家は、元々人材不足でそれほどは栄えていません。
  写真は滋賀県湖西の高島にある内湖の乙女ヶ池で、仲麻呂や一族がここで戦いに敗れ処刑された「勝野の鬼江(カツノノオニエ)」です。
 
 次男房前③の北家が何とか生き延び、藤原北家は恵美押勝の乱から学んだ、「なんぼ強くなっても社長(天皇)には成ろうとするな、社長に自分の娘を嫁がせ若社長(次期天皇)を産ませ、外祖父として大番頭(摂政関白)の地位を獲得して、そこで会社(日本)を実質我が物にする」と言う藤原家憲法で生きる道を選びました。
 房前の3男真順C(マタテ)(715~766)・真盾フ次男内麻呂⑤(756~812)・内麻呂の次男冬嗣⑥(フユツグ)(775~826)達は、自分の娘が天皇の妃に成れなければ、弱い家の妃の息子が天皇に成るほうが得策だと、第50代桓武天皇の母親は渡来人でも良いとまでしています。
  写真は第49代光仁天皇夫人で第50代桓武天皇の母親になった渡来人の娘高野新笠の御陵です。

       返事
花水木さん:添臥を私も今回憶えましたが、
    もうこれを何と読むのか、確認しないと忘れていますよ。
     私の母は7人兄妹の末っ子で、父は4人兄妹の長男ですが、
    連れ合いも含めて、もう残ってるのは父方の叔母のみです。
    次は私の番がついに廻ってきてます。

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番外藤原基経の墓?

2020-04-15 | 天皇陵巡り番外
 
 新型コロナで、今朝の仕事も自粛中です。
 宇治の木幡(コハタ)にある許波多神社(コハタジンジャ)、645年に第35代皇極天皇が中臣鎌足に命じて、ここに社殿を造らせたという由緒正しい神社です。
 大化の改新の頃から、ここは藤原家と繋がっていたのです。
 
 境内にある「お休み石」、天武天皇が近江の大津京から吉野に逃げる時に、途中ここに腰かけて休んだので、その後の壬申の乱に勝利したそうです。
やけに新しそうな石ですが、ここに腰かけて願えば、勝運が授かるので、この神社は競馬の神様でもあるので、もちろん私は腰かけて祈りました。
しかし以後も競馬の勝運は寄ってきていません。
 
 伏見の施設の仕事の帰りにここに来たのは、石に腰かけるためではありません、この境内に宇治陵の36号陵があるからです。
しかしこの36号陵は、皇族ではなく藤原基経(フジワラノモトツネ)(836~891)の墓と言われています。
 
 そもそもこの宇治陵の治定自体が、藤原北家の墓か藤原北家ゆかりの皇后などの墓か判らないのを集めて、宇治陵として治定したようなので、なんか皇族とは思えないような人の墓を、宮内庁が管理してるのかもしれません。
 
 藤原鎌足→不比等→房前(フササキ)→真?マタテ)→内麻呂→冬嗣→良房→基経と続き、以後も時平・忠平から道長に至る、藤原北家全盛時代を築いた基経です。
 
 基経は、高潔な、なかなか良い人間の藤原長良(ナガラ)の三男として生まれましたが、時の権力者の叔父良房に見込まれ、その養子となりました。
清和・陽成・光孝・宇多と4代にわたり、ほぼ朝廷の実権を握り、ほぼ自分の思うとおりに政治や人事を動かして、実質上の関白になった人物です。
阿衡の紛議の時以外でも、気に入らないと政務をボイコットしたり、実の妹高子が反抗的だと毛嫌いしたり、なんか性格は悪い感じはします。
 
 木幡近辺には、藤原北家ゆかりの墓がたくさんあったそうですが、あの道長の墓さえはっきりしません。
現在も続いている皇室と藤原家の関係にしては、意外と墓は軽視されてるようですね。
 でも、鎌足ゆかりの神社境内にあるこの墓が、基経の墓なら、基経も喜んでいるでしょうね。

      返事
花水木さん:育休なんて考えられなかった世代、
    長男はたまたま王子動物園で初めて歩いたんで、
    よく憶えていますが、
    次男や娘はどうなって歩きだしたのか、
    あまり記憶がありませんね。
     三遊亭朝橘・ユーチューブで検索して、
    落語自由研究にたどり着けました。
    めちゃくちゃ面白かったですよ!!
    あまりの阿保らしさにくじけずに続けて下さいね。  
    私のブログもこれくらいの高みを目指したいと、常々思ってます。

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