島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

秋も終わり

2021-11-30 | 京都
 
 70回以上経験してきた秋ですが、秋を味合えるようになったのはまだ20回ぐらいですかね。
その秋もあと10回ぐらいしか味合えないと思いますが、貴重な今年の秋は短く、始まったと思ったらもう寒く冬になってきましたね。
 1週間以上前の京都こどもの国は、まだ秋でした。
 
 宝ヶ池周囲の葉はだいぶ落ちましたが、まだ秋でした。
 
 小雨の相国寺境内を抜けて通勤した1週間前、冷たい雨が降ってから、急に冬が近づいてきています。
 
 急に冷たい風が吹いて雨が降ってきたと思ったら、すぐに晴れてきた先週末、宇治の料理屋さんで叔父の三回忌に列席。
宇治平等院周辺には、それなりに観光客も出てきていて、秋の京都にはなっていました。
 
 やっと京都も4人以上の宴会が可能になったばかり、7人と列席者を絞り、テーブルも分けた法事ですが、1年8か月ぶりくらいの宴会と、日本料理の会席でした。
 
 家の前の道端に何故か咲いてるススキ、まだ枯れすすきにならず、銀色のまま輝いていますが、明日から12月、秋はもう終わりですね。

         返事
和さん:富江病院には、
    更新されませんがホームページもあります。
    「みじょか」も配信されていますので、富江病院広報に尋ねてみてください。
Toitennさん:苦い思い出と言われてる院内報、
    私は「トさん」が撮ってくれた、下の私の写真に満足していましたよ
   
ジャパンカップ56歳さん:日曜日に荷物を受け取って、
    競馬が好きなら、ひげのHさんですね。
    この予想は当てても、競馬のあたる予想を私に求めるのは、
    無理ですよ。
花水木さん:富江病院の女性のPTさんが、
    私の似顔絵担当で、
    富江富ゑはコスプレをたくさんしてます。
   

コメント (2)
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長崎県五島列島=富江探訪=

2021-11-26 | 富江
 
    昔の名前で出ています   小林旭
 奈留島にいるときゃ symbol7symbol7
 「犬先生・マリオ先生」と 呼ばれたの
 富江病院じゃ 「富江富ゑ」と名~乗ったの
 京都の自宅に~戻った その日から
 あなたが検索 してくれるの待つわ
 (「島の医者になって、た頃もあった」と)
  昔の名前~で書いて~います  symbol7symbol7
 
 五島列島奈留島で過ごした最後の2年間は、五島列島で一番大きい島、福江島の富江病院で働きました。
在職中に富江病院院内報「みじょか」が刊行されました。
  みじょか;五島弁でかわいい美人のこと
 
 
 厚かましくも「みじょか」の第3号から、=富江富ゑの富江探訪=として私のブログのような写真と駄文を10回ほど掲載させてもらいました。
 
 私が富江を去ってからも、「みじょか」はもちろん続いて月1回刊行され、今や80回を超え、ありがたいことに=富江探訪=も同じような形式で80回に迫ろうとしています。
今も律儀に京都に送ってくれる「みじょか」を読んで、立派に成長した息子を見るように、楽しく読ませてもらっています。
 
 この=富江探訪=が私の在職中も院長だった小原院長などの尽力により自費出版されました。
私のもとにも1冊送られてきたので、懐かしく楽しく読ませてもらいました。
 もちろんはがきでお礼と京都のお菓子をちょっぴり送っていますが、改めて院長はじめ富江病院スタッフの皆さんにお礼いたします。
   ありがとうございました!
 853-0205
  長崎県五島市富江町狩立499  富江病院
 宛に申し込んでもらったら、もしかしたら富江観光のお供として、手に入れられるかもしれませんよ。
    しらんけど

         返事
Toitennさん:あのころとは違って、
    朝は強い人間になっています。

コメント (4)
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赤山禅院

2021-11-24 | ノンジャンル
 
 月曜日は久しぶりの雨で、そのあと寒くなってきていますが、その雨の前の京都の紅葉は見頃でした。
自宅の借景「妙」の山も秋です。
 
 ちょっとだけバスに乗って、秋にはよく行ってる近所の 天台宗延暦寺皇城表鬼門赤山禅院 に紅葉狩りです。
 
 赤山禅院拝殿の屋根の上には、御幣とかぐら鈴(新調されたのか輝いていました)を持って皇城(京都御所)を守護してる鬼門除けの猿がいます。
夜な夜なこの猿は悪さをしていたようで、今は逃げ出さないように、金網の中に入れらています。
 
 そろそろここの紅葉は終わりかもしれません。
 
 夫婦ともども、孫5人のことを祈るのに手いっぱいで、夫婦のことや賭け事のお願いまでは手が回らない昨今です。
 
 よく見たら、紅葉に混じって、手前にはヒガン桜まで咲いていました。
 
 数えたら16人なので、十六羅漢ってのがあったはずですよね。
 
 赤山禅院はこの参道の紅葉が有名だと思います。
朝早かったせいか、最近は増えだした観光客の姿はまだなく、散歩する近所の人が少しだけでした。
 
 帰りは修学院離宮や曼殊院、詩仙堂にも寄らずに、写真の鷺森神社(サギノモリジンジャ)の参道だけは歩いて、お参りしてきました。
さすがにそのころになると、観光客が目につくようになりました。
1年半ほどの間、観光客をあまり見なかった京都も、また前のようにうるさくなるのですかね。
 白川通りに出て、軽食を食べて、スーパーで食料品の買い物して、またバスで帰りましたが、家に着いてもまだ正午前でした。

         返事
和さん:富江病院で7年ぐらい前に見た月食の月は、
    今の京都の月食の月より、数段大きかった印象があります。
花水木さん:松葉ガニのメスをコッペとか
    セコ蟹・セイコ蟹と言います。
     私の同年代で、日本海沿いに育った子供のおやつだったコッペ、
    ちょっと前までは200円ぐらいで、高くなったと思ってましたが、
    今は浜でも、大きいのは1000~2000円しますよ。

コメント (1)
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蟹と部分月食

2021-11-22 | 
 
 11月19日(金)18時30分ごろ、部分月食を自宅前で見ました。
なかなかピントが合わずに、これくらいの大きさにしか写りませんでしたが、9割5分以上が欠ける部分月食だそうです。
 
 
 その日の昼は福井県の小浜までドライブして、二人でこの刺身定食と、「いつもよりは小ぶりですが」と言われたカキフライ(いずれも一口食べた後撮影)と、予想以上に美味しかったじゃこご飯を頼みました。
 
 それに解禁なったセイコ蟹(コッペ)を一杯、きれいに切って出してくれただけでなく、
 
食べやすいように、女将自らがカウンター越しに剝いてくれました。
 オスの松葉ガニほど食べではないですが、二人で分け合っても、まあ今年もカニを食べた気分にはなりました。
 
 19時過ぎに再び玄関前に出て、近所の人と一緒に夜空を見上げたころは、下のほうから月は明るくなってきていました。
これぐらいになるとピントも合うようになって、よりズームになります。
 
 小浜での昼食後は、奈留島にいたころのように、食堂の前の海岸でボーと海を見ながら、なんかおじさんがボートを組み立て沖に出て、再び帰ってくるのを眺めながら腹ごなしをして、いつものケーキ屋さんで食後のデザート。
 
 最後19時半ごろ、「チコちゃんに叱られる」を見る前に風呂に入る前に、もう一度前の道路に出ると、まだ満月に戻ってない部分月食が見れました。

         返事
大雪男さん:2連勝はできなかったので、
    最終戦までもつれるかも知れませんが、
    オリックスには勝ってほしいです。
花水木さん:私は弱いので、
    逆襲を恐れて手を上げないタイプです。
     今の世は、不倫にやけに厳しくなりすぎかもしれません。

コメント (3)
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北朝5-2後円融天皇宮人藤原厳子

2021-11-19 | 天皇陵巡り
 
 内大臣三条公忠(キンタダ)(1324~1384)の娘であった藤原(三条)厳子(タカコ・イズコ)(1351~1407)は、20歳で緒仁親王(オヒト)(直後に北朝5代後円融天皇になる)(1359~1393)(在位1371~1382)に上臈女房(ジョウロウニョウボウ)(身分の高い女官)として仕えました。
  前々回も訪問した親切なお寺の方がおられた華開院(ケカイイン)です。
写真横のくぐり戸から、おそるおそる入りました
 
 厳子は1377年には後に北朝第6代及び第100代の後小松天皇になった皇子を産み、1381年には珪子内親王(1381~1399)も産んでいます。
  華開院本堂左手の玄関であいさつして、右手のほうから墓地に回りました
 
 夫後円融と3代将軍足利義満との関係は、天皇在位中も上皇になってからも最悪で、後円融はかなりすねてる状態にあったようです。
 1383年に厳子が、出産後わずか20日足らずで里帰りから宮中に無理矢理戻され、義満との密通までも疑われて、刀の峰で殴られるという夫のDVにより、出血が止まらなくなって実家に逃げ帰る事件まであったようです。
  華開院墓地では、塀に囲まれた立派な宮内庁治定の光照院宮墓地のほうが目につきますが、この塀の裏側に廻って塀越しに光照院宮墓地を見下ろした写真です。
 肝心の厳子の墓は、この向こう側になります
 
 この時は、姑である藤原仲子が中に入って、我が子後円融をなだめたりしていますので、お墓は制札も何故か無い小さなものですが、嫁と姑が仲良く同じところに眠っています。
 
 この後厳子は宮中に戻らなかったことなどから、作家海音寺潮五郎さんは「後小松は義満の子ではないか」という説を唱えています。
万一そうであっても、後小松のその後の系統は今の天皇家には繋がっていないので、現在の皇統に義満の血は入ってはいません。
 しかしながら怒られそうですが、男系で繋がっていると思われる家系でも、密通とかがあって、他の男子の血が入ってしまう危険性は必ず有るでしょうね。
  皇后にはなってないので、後円融天皇後宮通用門院藤原厳子墓(上京区衛町華開院墓地内)です

         返事
Toitennさん:Toitennさんの笑いのツボは、
    どこか理解不能の時がありますね。
     勉強いたします

コメント (3)
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