島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

北朝3-2崇光天皇皇子栄仁親王

2021-09-29 | 天皇陵巡り
 
 北朝第3代崇光天皇(1334~1398)(在位1348~1351)の17歳時の第1皇子で、母は典侍庭田(源)資子(シシ)(?~1394)の栄仁親王(ヨシヒトシンノウ)(1351~1416)ですが、父崇光の皇太子は祖父光厳上皇の意向で叔父の直仁親王(ナオヒト)(1335~1398)でした。
以後もこの直仁親王の系統に皇位を継がせるために、栄仁親王は出家させられる予定になっていました。
  深草北陵の制札は、後深草天皇から12人の持明院統の天皇名が並んでいます
 
 栄仁親王の産まれた1351年は正平一統で、祖父光厳・大叔父光明・父崇光と直仁親王は奈良大和の賀名生(アノウ)に拉致され、その間に叔父後光厳(1338~1374)(在位1352~1371)が北朝4代目として即位するなど、北朝持明院統嫡流の栄仁親王には厳しい情勢が続きましたが、1368年にやっと親王宣下で栄仁と命名されています。
  制札12人の最後は、南北朝も合体した後の戦国時代終わりの頃の天皇ですが、最後の最後に今回の栄仁親王墓の名もありました
 
 1398年我が息子への皇位を望んでいた父崇光上皇が亡くなると、栄仁親王もあきらめて出家、持明院統の所領を足利義満(1358~1408)(将軍職1369~1395)の斡旋で後光厳孫にあたる後小松天皇と分け合って、以後現在まで続く伏見宮家初代となりました。
  塀に囲まれた深草北陵の中には、お堂があるようです
 
 御息所正親町三条治子(ミヤスンドコロオオギマチサンジョウハルコ)との間に、伏見宮家2代治仁王(ハルヒトオウ)(1370~1417)と第3代貞成親王(サダフサ)(1372~1456)をもうけ、この貞成親王の息子が第102代後花園天皇になって、今の天皇家に繋がっています。
 墓は12帝陵の深草北陵(フカクサノキタノミササギ)(伏見区深草坊町)とと同じ場所に有りました。
  週2回JR奈良線の車内からこの陵を見ながら通勤していますが、塀の内部は見えません

        返事
Toitenlabeeさん:マスクとメガネで、
    綺麗な顔の大部分が覆われたイカですね。
     確かに雨の日も風の日もほぼ毎週滋賀県に行ってますので、
    西川貴教かダイアンかとも言われています。
       そんなことあらへんわ

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辛抱できない私

2021-09-26 | ノンジャンル
 
 先週の4連休に続いて今週も4連休の私、どこも行けないので、朝早くからあまり行かない北西の方向に散歩。
カキツバタ(天然記念物)で有名な大田神社を、久しぶりに訪ねました。
朝早いと、近くなのに深山の趣で、良いですね。
 
 そのまま足をのばして上賀茂神社まで、疲れた二人は市バスで帰りましたが、帰ってもまだ8時前。
その日はまだまだ長い1日でした。
 
 新型コロナ新規感染者数は指数関数的に減少し、今月いっぱいで非常事態宣言も解かれるようですが、あと1週間が待てない私です。
 昨日は家に居て、昼に有る阪神巨人戦を観るのが浮「こともあって、摧jりの他県ドライブです。
滋賀県湖東にある紅葉とこんにゃくで有名な永源寺が、カーナビ画面に入ってきたので寄ることにしました。
永源寺前に簡単に駐車できたのは、朝早くて紅葉にはまだ早いからと思いましたが、門前まで歩くと、新型コロナで拝観中止中か、門には拝観終了の札が下がっていました。
 
 まだまだ時間は有るので、左回りに琵琶湖一周で湖北に向かいます。
途中の道の駅で、朝のおやつはコーヒーゼリーとお茶アイスのクレープ、意外と美味しい!
 
 「そうだ!賤ヶ岳リフトが動いていたら乗ってみるか」と、動いていました。
往復900円のリフトに乗って、35年ぶりぐらいの賤ヶ岳です。
写真は、乗った人のお土産にと、貰ったうちわです。
 
 ゆっくり動くリフトでしたが、6分の旅はなかなか値打ちあり、これを歩くのは嫌ですね。
降りて山上までは10分程、蝉の声も聞けましたが、もう赤とんぼが飛んでいます。
 手を出したので雑兵ではなくイカになってしまった私、背景は奥琵琶湖です。
 
 反対側は、鏡のような水面の余呉湖、山の向こうは敦賀です。
ここが敦賀~越前に抜ける要所だと言うことがよく判ります。
 
 北国街道や小谷城も見下ろせます。
光秀を討った秀吉軍は、跡目争いで北の柴田勝家とここで戦ったのが、賤ヶ岳合戦です。
 
 「賤ヶ岳の七本槍」でも有名ですが、秀吉配下の七人の若武者が手柄を立てました。
加藤清正・福島正則・片桐且元は有名ですが、加藤嘉明(ヨシアキ)・平野長泰(ナガヤス)・脇坂安治(ヤスハル)・糟屋武則(カスヤタケノリ)は知りません。
  帰ったら(途中ラジオはおそるおそる聞いてましたが)阪神3≠O巨人、高橋が菅野に勝って完封しましたよ!!!
これで今日は負けても良いので、どこにも行かず(孫のお守)、安心してゆっくり観てみます。
なんとなく買う前は、競馬も今日は勝てる気がしてますよ

コメント (1)
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北朝3-1崇光天皇

2021-09-23 | 天皇陵巡り
 
 父は光厳天皇(1313~1364)(在位1331~1333)で、母は三条秀子(シュウシ)(1311~1353)の興仁親王(オキヒトシンノウ)ですが、1338年後醍醐上皇が吉野へ逃げたので両統迭立は崩れて、叔父北朝2代光明天皇の皇太子になりました。
  大光明寺陵近くには明治天皇陵があるので、殉死した乃木大将を祀る写真の乃木神社もあります
 
 興仁親王は15才で(北朝3代目)崇光天皇(スコウ)(1334~1398)(在位1348~1351)として即位し、父光厳の意思で、皇太子には光厳の養父花園上皇の皇子直仁親王(ナオヒト)(1335~1398)(崇光の叔父ですが、実は弟にあたる不倫の子です)が立ちました。
 3人の妃に3男1女をもうけましたが、その内典侍庭田資子(シシ)(?~1394?)の産んだ第1皇子が栄仁親王(ヨシヒト)(1351~1416)です。
  日露戦争の戦いでも有名な乃木大将の像ですが、名将かどうかは議論別れますね
 
 観応の擾乱から1351年の正平一統で皇位を退き、太上天皇の尊号を贈られた崇光ですが、翌年には南朝軍の京都占拠により、父光厳上皇・叔父光明上皇・廃太子された直仁親王と共に大和の賀名生(アノウ)に、第97代後村上天皇(1328~1368)(在位1339~1368)の意思により幽閉されました。
  写真のJR奈良線からも見える、大光明寺陵の参道入り口です
 
 この拉致幽閉は、北朝方が二度と天皇を立てられないようにする南朝方の策でしたが、足利幕府は崇光の祖母にあたる広義門院寧子を治天の君として、崇光の弟弥仁親王(イヤヒト)を(北朝4代目)後光厳天皇(1338~1374)(在位1352~1371)としました。
  大光明寺陵印は昔はあったようですが、宮内庁治定陵墓なのに今は陵印が無いのは、やはり北朝方の正式天皇陵ではないからでしょうね
 
 1957年許されて先に入京した光明より遅れること2年、父光厳・直仁親王と共に帰京した崇光ですが、その条件として、子孫ともども二度と皇位を望まないと誓約させられています。
  明るい参道の向こうに拝所が見えてきました
 
 こうして弟の後光厳とは微妙な関係になった崇光は、息子栄仁親王の即位を2回(1370・1382年)も願うも果たせず、1398年65歳で失意のまま伏見で亡くなり、大光明寺陵(ダイコウミョウジノミササギ)(伏見区桃山町泰長老)に葬られましたが、其の30年後に直系ひ孫が皇位に就き、今の天皇家に繋がっています。
  右の方が崇光陵です

          返事
和さん:みかん屋さんのチャンャ唐ニかまぼこ、
    食べたいです!
大雪男さん:巨人ももたもたしてるので、
    かろうじて持ってる阪神。
    今週の巨人3連戦全敗しなければ、まだ楽しめますよね。
Toitenlabeeさん:どちらかは
    ドクターに続く仕事に就いてくれたら良いのですが。

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彼岸花の咲く頃

2021-09-20 | ノンジャンル
 
 まだ京都の非常事態宣言は続いていて、自粛生活を続けないといけないようですが、TVの関心は自民党総裁選に移り、新型コロナの話は据え置かれてる感もありますね。
 瀬戸内海に沿って横断して来た台風も、京都は何事もなく済んだようで、五島列島の看護婦さんにメールしたところ、奈留島も福江島もたいしたことなかったようです。
 シルバーウイークの私には4連休ですが、ふと見るときっちり家の道端には彼岸花が咲いていました。
 
 家の窓から見下ろした、近所で最後まで残ってる畑にも、彼岸花が咲いています。
   あのコロナ~がなかったら~ 楽しい日々が続いたのにsymbol7
    今年の秋はいつもの秋よ~り 短くなりそうな そんな気がして
 
 蝉の声もいつの間にかなくなって、虫の声が聞こえるようになり、朝もやや冷えてきたなあと思ってたら、萩の花も咲き始めてました。
 なにもしてないままに、季節は廻ります。
   めえぐる 廻る季節の中で~ 
     私はなにも見つけられず 年とって行ってます
 
 1日だけ百貨店に買い物に行っただけで、この4日間をほぼ家の周りだけで過ごした私ですが、来てくれた孫と散歩中に綺麗な虹は見れました。
   若かった~ 何もかもが~
    わ~がままは女のを罪  それを許してしまうのも女の罪
 
 かろうじて9月も保っていた阪神は、巨人にボロ負けしてしまい、やっぱり私の3位予想は当たりそう。
 今週は3日間も開催された競馬は、二場だけだったのでまだ救いですが、被害を大きくしただけでした。
それでも自粛時代の休日の、数少ない楽しみでしたよ。
 今朝六時から散歩した、宝が池に映る逆さ比叡です。
 
 散歩の帰り道の田んぼの稲刈りは、まだ終わってませんでした。
     歩きつづける 彼岸花咲きつづける
                 種田山頭火
 彼岸花が咲くたびに、福江島三井楽の、彼岸花で一杯の万葉公園を思い出します。
 
 今日は敬老の日、孫Ⅲ-1・Ⅲ-2が、もう一回来てくれました。
あと10回ぐらい敬老してもらえたら、それで充分です。
 来週も私は4連休、最後の自粛休みになったらいいのですが、やっぱり最後の頼りはWOWOWの映画とラグビーですかね。

            返事
Toitenlabeeさん:無理ですよ、と言いながら、
    Toiteさんより長生きしたらすみません。

コメント (3)
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北朝2-1光明天皇

2021-09-16 | 天皇陵巡り
 
 第93代後伏見天皇(1288~1336)の第2皇子で、母は兄光厳天皇(1313~1364)と同じく女性の治天の君になった西園寺寧子の豊仁親王(ユタヒト・トヨヒトシンノウ)ですが、同母兄とは8歳はなれていました。
  伏見区桃山には明治天皇陵や桃山城があったりしますが、JR奈良線が明治天皇陵を避けるように廻りこんだ線路沿いに、大光明寺陵は有ります
 
 建武の乱(1336年)で足利尊氏(1305~1358)が楠木正成たちを破って入京すると、比叡山に退位しないまま逃げた後醍醐天皇に替わって、尊氏の要請で、同母兄光厳上皇の猶子になる形で、豊仁親王は北朝2代光明天皇(コウミョウ)(1321~1380)(在位1336~1348)として即位、15才でした。
光明天皇が本当は北朝初代天皇ということの方が正しいですが、政務は光厳上皇の院政です。
  線路沿いから始まる細長い大光明寺陵、この辺りに伏見宮の大光明寺があったと思います
 
 第81代安徳天皇が三種の神器を持ったまま西国に逃げたので、神器なしで即位した第82代後鳥羽天皇にならって、神器なき即位となりましたが、その後後醍醐は神器を光明に返しています。(まあその後、返した神器は偽物だよとも言ってますが)
  本来なら南朝が正統なので、北朝天皇陵を宮内庁が管理するのはおかしな話ですが、なにせこの北朝が今の天皇家に繋がってるので(後醍醐の血は全く入っていません)、まあしかたないですかね
 
 光明即位後は一旦都に戻った後醍醐に大上天皇の称号を与え、両統迭立の原則から後醍醐の皇子成良親王を皇太子に立てました。
しかし、後醍醐が吉野に去ったので、同母兄光厳上皇の息子興仁親王(オキヒト)を1338年には皇太子に立て、これで完全な南北朝争いの時代になりました。
  細長く開放的に続く参道です
 
 1348年同母兄光厳上皇の第1皇子興仁親王に譲位し、崇光天皇(1334~1398)(在位1348~1351)として自らは上皇になった光明ですが、足利家の内紛観応の擾乱に続く南朝による正平の一統で、その崇光も廃されてしまい、とうとう南朝軍によって光明上皇は兄光厳上皇や甥崇光上皇・廃太子直仁親王と共に奈良県賀名生(アノウ)に軟禁、その後河内の金剛寺に移されています。
  拝所は広くなっていました
  
 光明上皇が一番無害だったのか、1355年に一人だけ早目に京都に返された後は、仏門に入り大光明寺に住み、兄光厳と同じように諸国遍歴修行した後に、奈良の長谷寺で亡くなり、この大光明寺陵(ダイコウミョウジノミササギ)(伏見区桃山町泰長老)に葬られました。
 光明には皇女も少なく、皇子はいなかったようです。
大光明寺陵の陵印は、現在は有りませんでした。

          返事
Toitenlabeeさん:欧亜国際連絡列車にかけたのだと思いますが?
     大丈夫です、
    孫がおかしいと思った頃には、もう私は存在してないと思います。

コメント (1)
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