島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

14≠P仲哀天皇

2017-07-29 | 天皇陵巡り
  
 日本武尊は女性にもてたそうで、死んでからも哀しむ女性が多かったそうですが、6人の妻に6人の子供がいました。
日本武尊の最初の妻は、祖父にあたる第11代垂仁天皇の末娘で自分の叔母にあたるフタジノイリビメノミコト、書紀では両道入姫命(フタジノイリヒメノミコト)で、その間に産まれたのが帯中津日子命(タラシナガツヒコノミコト)、すなわち今回の第14代仲哀天皇(チュウアイ)です。
  
 叔父の第13代成務天皇が自分の子を次の天皇にせずに、甥である(尊敬していた兄の日本武尊の子)仲哀を天皇にさせたようで、ここにいたって初めて、自分の父が天皇でない人が天皇に成りました。
  
 仲哀天皇は二人の妻に、それぞれ二人ずつの子をもうけています。
最初の妻オホナカツヒメノミコトとの間に、香坂王(カゴサカノミコ)と忍熊王(オシクマノミコ)が産まれ、二人目の妻オキナガタラシヒメノミコト、すなわち有名な神功皇后(ジングウコウゴウ)との間には、ホムヤワケノミコトと品陀和気命(ホムダワケノミコト)が産まれています。
 (次回神功皇后まで憶えておいてください)
この最後のホムダワケノミコトが、次の第15代応神天皇(オウジン)になりました。
   
 今回の第14代仲哀天皇は、福井県の敦賀・山口県の下関・福岡県の香椎に宮を作ったりして、九州の熊襲を討とうとしていましたが、神の教示は妻の神功皇后に神懸かりして、海の向こうの朝鮮を攻めなさいと言ったそうです。
それに逆らった仲哀天皇は、琴を弾きながら突然死んでしまったそうですが、私はなんとなく、妻の神功皇后一派に暗殺されたような気がしています。
  
 筑紫の国で52歳で亡くなった、名前の如くちょっと哀しい天皇ですが、陵は奈良県を初めて離れて(父の日本武尊の3番目の陵は近くの大阪府羽曳野市ですが)、次の王朝の巨大陵が並ぶ大阪府藤井寺市の恵我長野西陵(エガノナガノノニシノミササギ)です。
  
 仲哀天皇陵は、岡ミサンザイ古墳と呼ばれている古市古墳群の一つで、墳丘長245ⅿの16番目の大きさの前方後円墳で、古墳時代中期(5世紀末)の築造です。
   
 平地にあって立派な仲哀天皇陵をぐるっと一周しました。
車は陵の横にある、この無駄だとも思えるほど大きな公共施設アイセル・シュラホールの駐車場に停められました。
名前と形から察せられるように、この建物は近くで古代の木造橇がそのまま出土したと、だいぶ前に話題になった修羅(シュラ)に似せた形になっています。

   返事
 
花水木さん:誰に才能があるのか、後継者選びは難しいですね。
     でも、後継ぎにまかせず、いつまでも長でいるのは、
    いつの時代も結果は良くないですね。

コメント (1)
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13≠P成務天皇

2017-07-25 | 天皇陵巡り
 
 奈良平城京跡の北にある丘は、大きな前方後円墳がたくさん並んでいて、佐紀盾列古墳群(サキタテナミコフングン)を形成しています。
このうち、三つの丘を切り分けて作ったといわれている密集した三つの古墳、一つは12-2垂仁天皇皇后日葉枢Q命の陵、一つは時代が進んで46-1・48-1の孝謙・称徳天皇の陵、そして今回の13≠P成務天皇(セイム)の陵である佐紀石塚山古墳です。
  
 散歩するには絶好のロケーションで、実際散歩する近所の人にも数人出会いました。
   
 80人もの子をもうけ、137歳まで生きた(書紀では143歳)父景行天皇が、2番目の妻ヤサカノイリヒメとの間にもうけた若帯日子命(ワカタラシヒコノミコト)、日本書紀では稚足彦尊(ワカタラシヒコノミコト)は、景行天皇の4番目の皇子でしたが、兄の日本武尊などが皇位につかなかったので第13代成務天皇になりました。
  
 成務天皇に関しては、古事記では1頁にも満たない記述しかありません。
何故か滋賀県大津市といっても湖西を北に行った坂本に志賀高穴穂宮(シガタカアナホノミヤ)を造り、在位60年にして95歳(書紀では107歳)で崩御し、ここ奈良の北の狭城盾列池後陵(サキノタタナミノイケジリノミササギ)に葬られました。
  
 成務天皇はオトタカラノイラツメを妻として、和訶奴気王(ワカヌケノミコ)をもうけているにもかかわらず、その子を次の天皇にしませんでした。
  
 したがって成務天皇は、初めて自分の子が天皇に成らなかった天皇になりますし、よほど兄の日本武尊を尊敬していたのか、死んだ日本武尊の子供を次の天皇にしたそうです。

     返事
花水木さん:食事やデザートを前にして、
    写真を撮ることを思い出した時には、もう食べていることが多い私です。
     また、雰囲気を考えずに写真を撮りまくってる人を見ると、
    私はこんな仲間とは思われたくないとも、考えてしまう私です。
     こん回の「したたり」は、
    そんなことも考える前に、皆の皿から無くなっていましたが。

コメント (1)
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菊水鉾茶会

2017-07-22 | 京都から
 
 暑い京都、7月16日(日)祇園祭の宵山見物に、昼間ですが行きました。
四条通の函谷鉾。
  
室町通りの菊水鉾。
  
 菊水鉾のご神体の稚児人形「菊丸」です、巡行の日は鉾の前に飾られます。
 菊水鉾は、私の小学生の頃?、いずれにしろ戦後に再建されたまだ新しい鉾です。
   
 菊水鉾の町内には、昔金剛能楽堂があって、そこには「菊水の井戸」という名水が湧いていたそうです。
その為か、祇園祭の時には菊水鉾茶会が行われます。
 その日は表千家の順番の日で、娘が手伝いに出ているので、家族中で参加しました。(私は初めてです)
 お菓子はいつも、涼しそうな透明の羊羹?、亀廣永の「したたり」で、この黄色な大きな皿は貰って帰れます。
  
 祭の屋台でスーパーボールすくいをさせたり。
   
 少し人混みを離れて、勝手知ったる道を歩いて(子供の時のテリトリー内です)、はずれた屋台で(鉾周囲の屋台よりずっと安くなってると思います)氷を与えたりの孫サービス。
  
 最後は皆で喫茶店に入って、私はそこで孫3人分の氷より高い氷を食べて、帰りました。

    返事
花水木さん:鳥だけ雄が綺麗とのことでしたが、
    人間だって雄の方が綺麗ですよ。
    綺麗でない雌は化粧でごまかしているだけです。
    でも私は雌が好きですよ!
     ケーキの皿に目が行くとは、私は気にもかけませんでした。
    1枚の写真を見ても、人によって色々感想が違うのですね。
    

コメント (2)
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金沢旅行3

2017-07-18 | 
 
 2日目の金沢は大雨、元々この旅は金沢21世紀美術館などに行きたかったので、雨でもいいのですが、ちょっと降りすぎです。
隣の兼六園も行ってみようかと思っていましたが、これは濡れるだけなのでやめました。
  
 金沢21世紀美術館常設の現代美術、水の底にも下から入れる「プール」も有名です。
底から見る水面も雨が打っていました。
  
 この「プール」、残念ながら雨のため、上からはのぞけませんでした。
  
 見る場所によって色が変わる、「カラー・アクティヴィティ・ハウス」も屋外なので、行く気にならなかったほどの雨です。
  
 この美術館の建物自体もなかなかおもしろく、番号が付いてないとどこに行ってよいのか迷ってしまうような展示室です。
 お目当ては 池田 学 展 The Penー凝縮の宇宙ー です。
こぶし大ぐらいの面積を描くのに1日はかかるという、超精密ペン画ですが、その世界観も良くて、わざわざ観に行ったかいはありました。
   
 隣の石川県立美術館は、なんといっても野々村仁清の「色絵雉香炉」で有名ですが。
雄雌一対で飾ってありますが、雄のこの写真の方だけが国宝です。
 ちょっとだけですが琳派の展覧会もしていたので、宗達の絵や光悦の書も観れました。
  
 石川県立美術館で美味しいケーキセットを食べました。(花水木さんへ;チョコケーキが私・モンブランが家内ですよ。)
金沢は都会ですので、昨日の三国のケーキセットの倍はしました。
  
 外は雨ですがやや弱まってきました。
兼六園そばの美術館の周りは、昔何があったのか、金沢市内の真ん中なのに森があります。
 この中に、まだ比較的建って新しそうな 鈴木大拙館 がありました。
   
 白を基調に、水の上に浮いたように作られた、シンプルで美しい建物です。
   
 鈴木大拙(1870~1966 95歳と長生きです)は京都の坊さんと思っていましたが、京都大谷大学の教授をしていただけで、金沢生まれの仏教哲学者でした。
 その思想はもひとつ私は知りませんが、私の若いころはそれなりに有名でした。
   
 雨のため、水面も緑もより哲学的に見えて、座って思索には耽りませんでしたが、ゆっくり休憩は出来ました。
 帰りは高速で、それなりにトイレ休憩をたくさん挟みながら、それでも早く着きました。

     返事
花水木さん:トイレ、行き出すと、
    麻雀の間も車で走ってる時も、我慢の連続になっています。
     ちょっと情けないです。

コメント (1)
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金沢旅行2

2017-07-15 | 
 
 三カ所の道の駅・高速のSA・ケーキ屋・東尋坊の六ケ所でトイレに行きながら、7時間ゆっくりドライブして着いたのは、金沢郊外車で30分ほどの湯涌温泉。
以前ここに白雲楼ホテルと言う、東洋一を誇っていたホテルがあって、私は昔から一度は湯涌温泉の白雲楼ホテルに泊まりたいと思っていました。
しかし、ホテルは梼Yしていて、1998年(平成10年)には消滅していますので、泊まったのは小さな旅館。
   
 白雲楼ホテルと共に湯涌温泉で有名だった江戸村も、今は小さくなって金沢湯涌江戸村になっていましたが、着いた頃から雨足が強くなり、以前から行きたかった江戸村もパス。
 替わって、旅館の部屋からも見下ろせる金沢湯涌夢二館にのみ行くことにしました。
   
 昼v夢二の妻は金沢の人だったようですし、愛人と一緒に湯涌温泉に1917年(大正6年)に3週間も滞在していました。
丁度湯涌滞在100年記念と言うことで、「昼v夢二と同時代の美人画展」をしていて、上村松園・伊東深水・鏑木清方の絵も、65歳以上割引で安く観れて良かったです。
 出品されていた美人画は昼v夢二以外はほとんど個人蔵で、倍広庵と書いてありました。
倍広庵はキャバレー王で美人画を集めていた人とも違う様で、座っていた学決Hらしき人に尋ねても、秘密になっているのか返事がうやむやでした。
  
   
 
 小さな旅館で、最近は珍しい部屋食なので、写真も遠慮なく撮れて、ゆっくり手の込んだ料理をいただきました。
  
 温泉も3回入って、3回とも一人で独占です。
  
   
 降り続いた雨は夜中からは大雨に、朝も激しく降っていました。
朝食も部屋食で用意されました、久しぶりのバイキングでない朝食も、なかなか良いものです。
 土砂降りの中、金沢市内に向かいました。

    返事
花水木さん:予想は見事はずれで、反対です。
    ということは、私は女性的ということですかね。
    それとも家内の好みが男性的ということか、
    まあ私がパフェ、家内がコーヒーの時はよくあります。

コメント (2)
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