島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

日本料理藤井

2018-10-29 | ノンジャンル
    
 次男の同級生で、私たちとも一家そろってスキーやキャンプや旅行にも行っていた子供、と言ってももう40歳ですが、今年の2月に日本料理「藤井」を、京都銀閣寺の少し南に開業しました。
 いわゆるオーナーシェフです。
   
   
 この半年で何度も足を運びましたが、「藤井」は最初にいつも今日の一番出汁を出すのですが、それを撮るのは忘れました。
   
 よく雑誌にも掲載されましたが、この9月開店半年ぐらいでなんとミシュラン一つ星を貰いました。
   
   
 この子の両親や親戚も知っていますが、料理人の血はどこにもないようですし、料理を始めたのも早くはなかったですが、料理のセンスはあるようで、よく考えていて美味しいです!
    
    
 ゴマ豆腐の天婦羅はここの名物料理だと思います。
隣に座った友人の冷酒を少しいただきましたが、最近の日本酒はフルーティーで飲みやすく美味しいですね。
でも、即後頭部が痛くなりました。
私はビールと焼酎でいいです。
     
    
 友人達と昔話などで盛り上がりながら完食ですが、肝心の新メニューで家で食べるのとはちょっと違った、ぶり大根を写すのを完全に忘れていました。
今日は全部写真に撮るよと宣言していたのに、日本酒の影響もあるのかもしれません。
    
 ミシュラン一つ星の日本料理「藤井」です。
機会があればぜひお越しください!
 このブログ名を言って、見たと言ったら、特典があるか高くなるかは不明です。
    
    
 最後のフルーツも、日本酒のために忘れて、皿だけになりました。
 ちょっと贅沢したい時には、「藤井」をどうかよろしくお願いします

     返事
大雪男さん:広島負けた方が、
    丸がFA行かなくて良いかもですが、
    広島に戻るの確定で、勝ってしまいますね!
     織田信長も最初の桶狭間では先頭でしたし、
    頼朝・秀吉・家康も最初は最前線ですよ。
    壬申の乱の天武は勝つか死ぬか、
    前線で自分が戦って勝利する必要があったのでは。
花水木さん:安定政権の大将は指図だけで、
    変な危険は犯さないと思いますが、
    乾坤一擲の大勝負は先頭で戦ってほしいですし、
    そうでないと勝った後も、家来も付いてこないのでは。

コメント (1)
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40-1天武天皇

2018-10-26 | 天皇陵巡り
   
 飛鳥の岡の上にある天武・持統天皇陵、この夫婦の天皇陵はよく目立ちます。
40-1天武天皇は武力によって政権を奪い、皇族中心の皇親政治を行い、律令政治の基礎を築いた、強い天皇のイメージですし、そもそも今まで私が書いてきた文章の根拠となってる「日本書紀」の編纂を命じた人ですが、分からない点がたくさん有ります。
   
 父は34≠P舒明天皇で、母は35≠P宝皇女(後の皇極・斉明天皇)なので、38≠P天智天皇の同母弟になる大海人皇子(オオアマノオウジ)は高貴な出のはずなんですが、生まれ年は不明です。(まあこれは日本書紀では普通らしいですが)
   
 成人するまでははっきりしたことが分からないため、大海人皇子は新羅の皇族だったという説や、母の宝皇女が舒明天皇の皇后になる前に結婚していた前夫高向王(タカムコノオウキミ)(31≠P用明天皇の孫です)との間の子漢皇子(アヤノミコ)である、すなわち天武は天智の異父兄であるという説もあります。
    
 いずれにしても、(兄)天智天皇の娘、すなわち姪にあたる皇女4人を娶っています。
大海人皇子は、大田皇女との間に大来皇女(オオク)と大津皇子、鸕野讃良皇女との間には草壁皇子、新田部皇女(ニイタベ)との間には舎人親王、大江皇女との間には長皇子(ナガ)と牛寘c子(ユゲ)をもうけています。
他にも天智天皇の娘さん以外も娶り、十市皇女(トオチ)・高市皇子・忍壁皇子(オサカベ)・磯城皇子(シキ)など、多数の子供がいました。
これらの中から、また天智天皇の息子や娘と結婚した人がいたので、天智・天武間の血の濃さはかなりのものです。
  
 大海人皇子は、兄天智天皇から皇位を譲ってもらえるチャンスもあったのですが、協力することを嫌って吉野に出家隠遁しました。
 そして近江朝廷にすぐに反旗を魔オ、武力で持って1ヶ月ほどで近江朝を唐オました。
しかしこの有名な壬申の乱(672年)で、天武天皇は全く戦闘場面に出てくることはなく、後方で座っていただけですのに、そんな大将を実際に戦った豪族が天皇として担ぐ不思議さが、私にはちょっと納得しにくいです。
 私が納得しようがしまいが、奈良の岡本宮→飛鳥浄御原宮(アスカキヨミハラノミヤ)で即位し第40代天武天皇(テンム)(~686)(在位673~686)となりました。
     
 ここから9代にわたり、いわゆる天武天皇の血が続き、藤原京→平城京と律令政治が始まり、東大寺大仏などの天平文化が花開くことになります。

    返事
花水木さん:60過ぎたら思い込みで、
    自然に文字を間違って読んでしまうのですかね。
    若い時は意図的でしたね、
    全国共通オコメ券をオ○▽券と読むと教えられ、
    全国共通のこの券ほしいと思ってました。
大雪男さん:春は広島と西武が圧涛Iに強かったですが、
    秋はやっぱりソフトバンク。
    でもそれになんとか抵抗できるセのチームは広島だけ。
    面白いシリーズになりそうですね。

コメント (1)
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アホのうた

2018-10-20 | ノンジャンル
    
 奈良市の北の方で天皇陵巡りをした後、近くのスーパの中にあるミスタードーナツでコーヒーを飲んでいる時です。
変な看板が目に付きました。
   ドラッグストア「アホのうた」??
     
 おかしな名前の店があるなあと、心で思っておいただけなら良かったのですが、向かいに座ってる家内に、「大阪の店か?『アホのうた』なんて、ふざけた名前のドラッグストアがあるか?」と聞いてしまいました。
    
 「どこにアが二つ付いてるの、『木のうた』やん。」と、思い切り笑われてしまいました。
 ドラッグストアの「ア」を2回読んで、漢字の「木」を「ホ」と読み間違えて、「ドラッグストア・木のうた」を「ドラッグストア・アホのうた」と読んでしまったのです。
「木のうた」の店の皆さま、「ごめんなさい!」

     返事
花水木さん:天皇陵巡りの写真には、
    これでも苦労してるのですが、
    同じような写真になってしまいます。
     なるべくこんな話のブログにしたいのですが・・・。

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39⁻1弘文天皇

2018-10-17 | 天皇陵巡り
    
 38-1天智天皇はたくさんの妻を持っていましたが、あまり皇子には恵まれず、身分の高くない伊賀采女宅子娘(イガノウネメヤカコノイラツメ)との間に産まれた、大友皇子(オオトモノオウジ)(伊賀皇子とも)に後を譲りました。
 大友皇子が即位して天皇になったかどうか、もちろん敵方の正史である「日本書紀」には大友皇子の巻もなく、即位もさしていません。
即位はしてないが天皇代理として統治した称制説、即位したのは天智天皇皇后38-2倭姫王だった説など有ります。
    
 明治政府は即位説をとって、明治3年(1870年)に39‐1弘文天皇(コウブン)(648~672)(在位672年1月~8月)と諡号しました。
24歳で近江宮(滋賀県大津市)で即位し、わずか半年後に自害に追い込まれたことになります。
     
 妃は叔父40⁻1天武天皇の娘十市皇女(トオチノヒメミコ)で、葛野王(カドノオウ)を産んでいます。
 日本史で学ぶ有名な壬申の乱(672年)がなぜ起こったのか、先代天智天皇の敵をせん滅するような数々の強引な改革に対する不満、後継ぎ弘文天皇は身分の低い側室の子ではないか、白村江の大敗戦や対唐政策などで近江宮に遷都したことへの不満、額田王をめぐる天智・天武の恋のさや当て説まで、色々あるようです。
仮にも出家した男天武が、兄の子でありわが娘も嫁ぎ孫も出来てる甥を、滅ぼそうと思い、それに同調した豪族が沢山いたことがもひとつ理解できません。
    
 乱の総指揮官、大将である天武天皇は、全く戦闘には参加することなく、わずか1ヶ月で近江朝廷軍は大敗、弘文天皇は一人山中で首を吊って自害したと、日本書紀は記しています。
一応この長等山前陵(ナガラノヤマサキノミササギ)(滋賀県大津市)が大津市役所(左の建物)の裏、近江宮跡に近い所に、明治政府によって定められていますが、園城寺亀山古墳を明治政府が陵にしようと思っただけの場所だと思います。
     
 壬申の乱後、弘文天皇の忘れ形見葛野王は、父を殺した母方の祖父40⁻1天武天皇や父方の叔母である41?持統天皇にも、殺されることなく仕えられたのも不思議です。
皮肉にも持統天皇には、皇位継承は直系に限ると、42≠Q文武天皇にするように進言までして、称賛されています。(これでいったら弘文の次の天皇は自分に成るのですがね)
また、弘文天皇の曽孫は淡海三船(オウミノミフネ)という、ちょっと偉い文人で、天皇の和風諡号を作った人です。

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鏡女王墓

2018-10-15 | 天皇陵巡り番外
   
 34-1舒明天皇押坂内陵(オサカノウチノミササギ)へあがる石段の右の道を行くと、29-3欽明天皇皇女大伴皇女押坂内墓(オサカノウチノハカ)までに、鏡女王(カガミノヒメミコ)押坂墓(忍阪墓)(オシサカボ)はありました。
     
 こんもりとした墓は、大和の原風景と言われる「奥の谷」の中に、静かにたたずんでいました。
左にちらっと写ってる鳥居が、大伴皇女の押坂内墓です。
    
 我が家から高速道経由で1時間ほどで行ける竜王アウトレット、そこに行った帰りにはよく寄る道の駅かがみの里は、源義経が元服した地としても有名ですが、鏡女王は滋賀県蒲生郡のこの辺りの豪族鏡王の娘と言われ、その妹でもっと有名な万葉歌人額田王(ヌカタノオウキミ)と共に、高級巫女として天皇家に仕えたと思われます。
   
 天智天皇にも召されていたようですが、後に藤原鎌足がもらい受けて、鏡女王は鎌足の正妻となったようですが、その時にはもう身籠っていて、後々の藤原家に続く藤原不比等(フヒト)は天智天皇の御落胤説もあるようです。
    
 一見宮内庁管理の墓のようにも見えますが、鏡女王のこの墓は藤原家と強い繋がりがあるため、制札に書かれているように、鎌足を祭神とする紅葉で有名な奈良の談山神社(ダンザンジンジャ)の管理になっています。
     
 舒明天皇陵から鏡女王の墓に行くまでの道沿いに流れる小川の辺りに、鏡女王が読んだ万葉歌碑が可愛く置かれていました。
万葉集研究の第一人者である犬養孝先生の揮氓フ歌碑ですが、一時期犬養孝さんも時の人だったような気もしますね。

      返事
花水木さん:歳をとったせいだとは思いますが、
    若い時に感じてたバラ色の未来を夢見ることが
    出来なくなっています。
    そうです、私の子や孫が生きる世の中が、
    今より良くなっていくことを祈るばかりですが・・・。
     団塊世代の半分ぐらいがいなくなった頃に、
    死ぬのを夢見てる私です。

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