島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

火星大接近

2018-07-31 | ノンジャンル
    
 本日2018年7月31日(火曜日)、火星大接近ということで、家の窓から東南を観てみると、小さいですがそれらしき星が見えました。
  
 倍率を上げると、なんか火星とは思えない像が出てきましたが、赤っぽいんでやっぱり火星ですかね。
  
 Canon Power Shot SX730HSの倍率を最大に上げても、こんな像しか出現せず。
光学ズームではなくデジタルズームで160倍なので、こんな火星になるのですかね。
それでも結構大きな火星です。
 次の火星大接近は17年後らしいですが、それをもっと良いカメラで捕えてブログに上げるのは、私にはちょっと無理なようですので(87歳)、この写真がこのブログの火星大接近最後の報告になります。

    返事
花水木さん:台風は夜中に風が強かったぐらいで済みましたが、
    朝窓を開けると、家の裏の体育館建設中の塀が唐黷ト、
    教習所の車の上に乗っかっていました。
     
     台風後少し涼しくなったと思ったのもつかの間、また酷暑です。
     私も最近切れやすくなってるので、切れないお爺さんになる努力をします。

コメント (2)
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36≠Q孝徳天皇皇后間人皇女

2018-07-28 | 天皇陵巡り
    
 父第34代舒明天皇、母第35代・37代皇極・斉明天皇の間に生まれ、同母兄弟に第38代天智天皇と第40代天武天皇を持つ、貴人中の貴人間人皇女(ハシヒトノヒメミコ)(?~665)は、母の同母弟の計算上は30歳以上も年の違う第36代孝徳天皇の皇后になりましたが、子供は産んでいません。
   
 古代異母兄弟姉妹の結婚はたくさん有りましたし、親族で固めるためにも良かったのかもしれませんが、同母兄弟姉妹の恋は絶対に許されないようです。
以前第19代允恭天皇の息子木梨軽皇子(キナシカルノミコ)は同母妹と道ならぬ恋に落ちて、流罪(死刑とも)になっています。
 間人皇女と同母兄中大兄皇子(後の天智天皇)は、どうも同母兄妹恋をしてしまったみたいで(証拠はない話のようですが)、年の離れた叔父の孝徳天皇に嫁いだ間人皇女には子供は生れませんでした。
同母兄の中大兄皇子が皇太子として夫の孝徳天皇と対立した時は、同母妹の間人皇女と難波長柄豊崎宮を一緒に去っています。
又、中大兄皇子は何度も天皇に成れる機会がありましたが、成らなかったり成れなかったのは、この同母兄妹の道ならぬ恋が原因だったのかもしれませんし、間人皇女の死後やっと周りも納得して即位できたと推測してるのですが、単なる下ネタ好きの私の邪推ですかね。
   
 間人皇女は母親の皇極・斉明天皇陵である越智崗上陵(オチノオカノウエノミササギ)に、孝徳天皇皇后間人皇女として合葬されています。
この陵には斉明天皇が愛したと言われてる孫、中大兄皇子の息子建王(タケルノミコ)も一緒に葬られ、建王墓の名も制札には書いてありました。
 祖母である皇極・斉明天皇が息子中大兄皇子と遠智娘(オチノイラツメ)との間の子建王(持統天皇とも姉弟になる)を、近くで愛せるほどかわいがることがその当時可能でしょうか。
実の娘の間人皇女の子供なら、近くで愛することも可能なのではないでしょうか。
この話すことも出来なかった8歳で夭折した建王は、自分の実の息子と娘の子、許されない中大兄皇子(天智天皇)と間人皇女の間の不幸な生まれの孫ということで、祖母の皇極・斉明天皇はよけいに可愛くて、この幸が少ない3人で一緒に墓に入ることを望んだのではないか・・・・。

   返事
花水木さん:私は昔から券\界相関図とか好きでした。
     金平糖のたとえはおもしろい。
    歳を取ると人間丸くなるというのは、確かに嘘と思いますが、
    女の人の方が、金平糖になりやすい気はします。

コメント (1)
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36≠P孝徳天皇

2018-07-25 | 天皇陵巡り
   
 軽皇子(カルノミコ)は第35代皇極天皇の同母弟なので、父は茅渟王で母は吉備姫王です。
王位とは無縁の三世王でしたが、姉の宝皇女が第34代舒明天皇の皇后になり、その後は第35代皇極天皇ともなったので、一世王に準じた地位に自動的に上がりました。
   
 写真の板蓋宮で実行された乙巳の変(大化の改新)の主導者は、中大兄皇子ではなく軽皇子だったという説もありますが、その変後、姉の皇極天皇が初の譲位をし、次の天皇に成るのを中大兄皇子は辞退し、古人大兄皇子は出家してしまったので、軽皇子が第36代孝徳天皇(コウトク)(596~654)(在位645~654)として即位しました。
 唐の属国ではないという証のためか、初めて元号をもうけ大化としました。
     
 姉の皇極天皇の娘で中大兄皇子とは同母兄妹である若い間人皇女(ハシヒトノヒメミコ)を皇后としましたが、二人の間には子供はなく、左大臣の阿部内麻呂(アベノウチマロ)の娘小足媛(オタラシヒメ)を妃として、悲劇の主人公と言われてる有間皇子(アリマノミコ)をもうけていますし、右大臣になった乙巳の変の功労者蘇我倉山田石川麻呂(ソガノクラヤマダイシカワノマロ)の娘乳娘(チチノイラツメ)も妃としています。
 二上山山麓、駐煌X道に沿ってある孝徳天皇陵には、車を道の駅に置いて、そこから自転車で太子町の他の御陵と一緒に廻りました。
   
 中臣鎌子(ナカトミノカマコ)(藤原鎌足のことです)を内臣(ウチツオミ)にし、徐々に政権は中大兄皇子に集中していき、出家していた古人大兄皇子も謀反の疑いで滅ぼし、蘇我山田石川麻呂も間違った情報で殺してしまった中大兄皇子の独裁が目立ってきました。
 石段を登った先の孝徳天皇陵拝所は、正面には廻れない配置になっていました。
      
 外交政策でも中大兄皇子と対立し、自分の若い皇后間人皇女と同母兄妹の中大兄皇子との許されぬ恋もあったようですが、孝徳天皇の周りの皆が離反していき、難波長柄豊崎宮(ナニワノナガラノトヨサキノミヤ)(大阪市北区)で一人寂しく亡くなり、ここ大阪磯長陵(オオサカシナガノミササギ)(大阪府太子町)に葬られました。
 この古墳は円墳の山田上ノ山古墳(ヤマダカミノヤマコフン)です。

      返事
花水木さん:元気ではないですよ。
    さすがに今年の夏は暑いですね!
    外では水分補給あまりしない私ですが、ャJリを買い仕事中飲みました。
    夜中クーラーをつけっぱなし(29度設定)で寝るなんてのも、人生初めての経験です。
     70才になったせいか、今年の夏は心も体もやられそうです!

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35≠P皇極天皇

2018-07-20 | 天皇陵巡り
   
 前回でも報告した第34代舒明天皇の父34≠Q押坂彦人大兄皇子のもう一人の息子茅渟王(チヌノオウキミ)が、少しだけ蘇我家の血が入った29≠S吉備姫王(キビヒメノオウキミ)と結婚して産まれたのが宝皇女(タカラノヒメミコ)(594?~661)です。
宝皇女は高向王(タカムコノオウキミ)と結婚して漢皇子(アヤノミコ)という息子をもうけていましたが、何故か別れて?、おじにあたる舒明天皇の皇后になり、葛城皇子(カズラキノミコ)・間人皇女(ハシヒトノヒメミコ)・大海人皇子(オオアマノミコ)を産みました。
   
 夫である第34代舒明天皇が亡くなった時、その次の天皇は、夫の舒明と法堤郎女(ホホテノイラツメ)との子で蘇我蝦夷の甥になる古人大兄皇子か、舒明と自分との間の16歳と少し若いですが葛城皇子(中大兄皇子と書いた方がよく分かりますね)か、まだあきらめきれない山背大兄王か、と混乱しました。
「ややこしい時は女帝にしよう」ではないですが、皇后であった宝皇女が次の天皇ということで、第35代皇極天皇(コウギョク)となりました(在位642~645)、50歳近くで即位した女性天皇です。
   
 高校3年生の春に同級生と見学に行った思い出の飛鳥板蓋宮(アスカイタブキノミヤ)跡の写真です(私にとっては好きな娘が参加するから行っただけなのですが)。
 この地で即位した女帝でしたが、雨乞いの祈とうに成功するなど、次第に地位を確保はしていきました。
在位中の643年には、蘇我入鹿が山背大兄王を討って聖徳太子一族を滅ぼしましたが、なんと言っても大化の改新虫五匹と記臆した(なんで645年の憶え方が虫五匹か知りませんが)、今で言う乙巳の変(イッシノヘン)が起こりました。
    
 息子の中大兄皇子が中心になって藤原鎌足達と板蓋宮で蘇我入鹿を殺したと教えられてきた大化の改新(乙巳の変)、今は皇極天皇やその弟後の孝徳天皇の方がこのクーデターにより深く関与していたとの説があります。
まさかと思いますが、皇極天皇が入鹿の愛人説や、前夫高向王との子漢皇子が後の天武天皇ではないかとの説もあるようです。
 乙巳の変後、生前に天皇を辞める譲位をした日本で初の天皇になりました。
 陵印は後の斉明天皇とだけ彫ってあり、皇極天皇とは彫ってありませんでした。

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祇園祭

2018-07-17 | 京都
   
 7月17日今日は祇園祭の巡行日、2週間前の夜にはまだ祇園ばやしのけいこ中。
   
 その後大雨があって、今度は猛暑の毎日。
13日の金曜日、10年前に奈留島で総入れ歯にしてもらった私の入れ歯、順調すぎて良かったのですが、やっと1本欠けました。
友人の歯医者はもうリタイアしてて、その紹介で街中の歯医者に行き、1日で欠けた歯は元通りになりました。
帰りに通った長刀鉾の周りは、宵宵宵宵山なのに、もう人が並んでいました。
   
 毎年、放下鉾の友人と、長刀鉾の友人の妹からちまきが届きます。
ちまきも今は高いですが、昔は鉾の真下で投げられたちまきを取れましたし、家の前を巡行の鉾が通るので、ちまきは沢山我が家の部屋の中に投げ入れてもらえました。
祇園祭が終わってしばらくは、三輪車に乗ってそこからちまきを投げる祇園祭ごっこをよくしていました。
   
 昨日16日の宵山の昼、暑い暑いのにまた出かけて、菊水鉾の町内のお茶会に参加。
   
 利休の師匠と言われてる武野紹鷗(タケノジョウオウ)の邸宅跡や、名水菊水の井戸があるためか、菊水鉾町内で毎年お茶会があります。
   
 流れ作業のお茶会ですが、毎年この皿が貰えるので行きました。
今日は巡行の日、暑かったので鉾にいる囃子方や見物人も大変だったでしょうね、私は通勤は暑くつらかったですが、あとは家に居るより快適な冷房の部屋で涼しく仕事で終わりました。

    返事
花水木さん:そうです、やや不気味でした。
    夜だったら浮「と思います!
     せめて東海道を歩くかとも考えています。
    その時には沼津で5泊ぐらいしたいです。

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