島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

67-1三条天皇

2020-07-19 | 天皇陵巡り
 
 居貞親王(オキサダシンノウ)は第63代冷泉天皇(950~1011)(在位967~969)の第2皇子ですし、第1皇子は異母兄の第65代花山天皇です。
居貞親王の母は、摂政太政大臣藤原兼家(929~990)の長女超子(954?~982)ですので、冷泉が上皇になってからの子で、母超子は7歳の時に亡くなってるとはいえ、外祖父兼家にも気に入られていたので、11歳の時に4歳年下の従兄弟第66代一条天皇(980~1011)(在位986~1011)の皇太子になり、将来の皇位も約束されていました。
 
 それから25年、思いのほか長く死の直前まで天皇位だった一条天皇の崩御によって、居貞親王は36歳でやっと第67代三条天皇(サンジョウ)(976~1017)(在位1011~1017)になりました。
  この陵も火葬塚も、我が家からは西に行けばよいだけなので、自転車で廻りました。
 
 本来なら本家である冷泉天皇系の三条天皇でしたが、この頃では異例の高齢即位です。
幼年の天皇を実現させ、それを外祖父が摂政関白として補佐して実権を握って行くという藤原氏のパターンからすると、外祖父兼家も母超子ももうおらず、そろそろ藤原道長の天下が始まって来たので、天皇に成った時から三条天皇には、譲位の圧力が始まっていた不幸な天皇です。
  百人一首の歌も寂しい無念な歌です。
 
 三条天皇には皇太子の時から、藤原済時(ナリトキ)の娘娍子(セイシ)(972~1025)を入内させていて、敦明親王(アツアキラ)(994~1051)など4男2女をもうけていました。
 道長が次女の妍子(ケンシ)(994~1027)を1010年に強引に入内させ、しかも中宮も娍子を差し置いて妍子となりましたが、禎子内親王(テイシ)(1013~1094)が産まれただけで、皇子は出来ませんでした。
 
 三条天皇は眼病にも悩まされ、失明に到ったり、内裏が焼失したりしたので、そんな理由と、道長の早く自分の孫を皇位に付けたいという執念から、三条天皇への譲位要求は強くなり、とうとう三条天皇は息子敦明親王を新帝の皇太子にたてることを条件に譲位し、出家しました。
 
 そして1年後、先代一条天皇が火葬されたのと同じこの写真の場所(北区衣笠鏡石町)で火葬され、近くの北山陵(キタヤモノミササギ)(北区衣笠西尊上院町)に葬られました。

       返事
toitenlabeeさん:素直なコメントが書けるようになりましたね。
    私は奈留島に行って良い人間になりましたが、
    toitenさんは歳を重ねて良い人間になってきましたね。
    気をつけて下さいよ! 辛口の方がらしいですよ。
和さん:木村君、TVの神事では先頭でした。
     今でも大学生のアルバイトだと思いますが、
    引きたい人もいるようです。
    小学生の頃に、巡行が終わった後に鉾を元の位置に戻すため、
    少しだけ引いたことはあります。

コメント (1)
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