島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

67-2三条天皇皇后娍子

2020-07-22 | 天皇陵巡り
 
 藤原娍子(フジワラノセイシ・スケコ)(972~1025)の母は源延光(ノブミツ)の娘で、父は藤原忠平の五男師尹(モロタダ)の次男藤原済時(ナリトキ)(941~995)ですので、美人であったとはいえ本流からは外れています。
  写真は、おなじみの宇治陵総拝所です。
 
 992年、4歳年下の居貞親王(オキサダ)(後の三条天皇)(976~1017)(在位1011~1017)に入内し、
 敦明親王(アツアキラ)(994~1051)
 敦儀親王(アツノリ)(997~1054)
 敦平親王(アツヒラ)(999~1049)
 師明親王(性信入道親王)(ショウシンニュウドウシンノウ)(1005~1085)
 当子内親王(トウシ)(1001~1085);伊勢斎宮
 畛卞眇堂ヲ(シシ・タダコ)(1003~1048;藤原教通室 
   (漢字ここだけ何故か化けてしまいました。上手に治せません。)
の4男2女をもうけました。
  制札中央に三條天皇皇后娍子の名が有ります。
 
 多分道長娘妍子より済時娘娍子の方が、三条天皇には愛されたと思いますが、皇后になったのは後から入内した妍子でした。
娍子も遅れて皇后になりましたが、その儀式にも道長の横やりが入り、参列者は少なかったそうです。
 三条譲位後、息子敦明親王が次の後一条天皇の皇太子にたてられましたが、父三條はすぐに亡くなり、道長の圧力によって、1年後には敦明親王は皇太子を辞退しています。
 娘当子内親王は、斎宮から17歳で退下した後、伊周長男藤原道雅との密通事件で仲を裂かれ、尼になっています。
 それでも藤原北家系の墓に葬られたのか、宇治陵総拝所には妍子より前に名があがっています。
  当子内親王と密通した左京大夫道雅のこの歌は、その時のことを歌っていて、直接会って今の気持ちを伝えたいとの意ですが・・・。

      返事
toitenlabeeさん:私は、顔は良いし、心は綺麗ですが、
    口は悪いで頑張っています。
    toitenさんは、口も悪いで頑張って下さい。

コメント (1)
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