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藤原兼家(929~990)の娘詮子(962~1002)が産んだ、第64代円融天皇(959~991)(在位969~984)の唯一の子懐仁親王(ヤスヒトシンノウ)は、父円融天皇の譲位で従兄弟の第65代花山天皇が即位した時に、5歳で立太子しました。
山の上にあった父円融の火葬塚から続く立派な石段を降りて行くと、御陵の裏側に出ました。
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986年寛和の変(カンナノヘン)で花山天皇を謀略で出家させた兼家は、懐仁親王を史上最年少7歳で第66代一条天皇(イチジョウ)(980~1011)(在位986~1011)として即位させ、念願の外祖父の地位を手に入れ、これまた自分の娘超子の産んだ冷泉上皇第2皇子居貞親王(オキサダ)(976~1017)(後の第67代三条天皇)を皇太子にたて、摂政関白として権力を握りました。
裏側から陵の前方に廻りこみました。
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これで藤原北家の氏長者の地位は、師輔(モロスケ)の長男伊尹(コレタダ)や次男兼通(カネミチ)ではなく、3男の兼家が獲ったことになります。
兼家死後は、自分の長男道隆(ミチタカ)(953~995)が関白・摂政となり、長女定子を一条天皇の中宮に入れています。
道隆は亡くなる前に、自分の3男伊周(コレチカ)(974~1010)を関白に推したのですが、一条天皇自身などの不興もかって、それはなされませんでした。
空中に浮かぶかのような立派な陵です。
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道隆に変わって関白に着いたのが、兼家次男の同母弟道兼(ミチカネ)でしたが、わずか数日後に病死し、「7日関白」と呼ばれています。
こうして次の藤原家氏長者の地位は、国母でもあった同母姉銓子の覚え良かった5男道長(966~1028)と、長男道隆の息子伊周の争いになりましたが、996年長徳の変(伊周などが花山法皇に汲ヒかけた)により伊周の政治生命は絶たれてしまいました。
拝所の前に立つと、京都市街パノラマの絶景です。
高校同級生で20歳前には天皇陵すべてを廻り切っていて、今年祇園祭山鉾連合会の理事長になって苦労してる木村君(きんすけ)は、ここからの眺めが陵の中で最高だと推薦していました。
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一条天皇は7歳で即位し32歳で亡くなっていますが、その在位期間は25年の長きにわたりました。
成人するまでの母詮子の政治への介入は仕方がないですが、成人してからは勢力を拡大していく道長との確執もかなりあったようです。
御陵印には堀河天皇陵ともあります。
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一条天皇の妃としては5人いましたが、皇后は道隆長女の定子(テイシ)(977~1001)で、二人の内親王と第1皇子敦康親王(アツヤス)(999~1019)がいましたが、外祖父道隆亡き後道長と権力争いしていた伊周・隆家も失脚し、敦康親王は結局立太子すら出来ませんでした。
ここは一条天皇陵と第73代堀河天皇陵を兼ねていました。
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もう一人の皇后は、道長の長女彰子(ショウシ)(988~1074)で、道長の期待を背に999年に一条天皇に入内し、一天皇に二后という前例なき事態になりました。
彰子は10年近く懐妊しませんでしたが、1008年に第2皇子敦成親王(アツヒラ)(後の後一条天皇)を、次の年には敦良親王(アツナガ)(後の後朱雀天皇)をもうけ、道長天下の道筋を作っています。
火葬塚は別の場所にありますが、そこの制札はパソコン文字。
下手でもかすれていても、手書きの方が有難味が有ります。
まあ字に関して、偉そうなことは言えない私ですが。
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結局、一条天皇は道長の権勢の前には太刀打ち出来ず譲位し、その年に崩御、写真で見てきた立派な圓融寺北陵(エンユウジキタノミササギ)(右京区竜安寺朱山(シュウヤマ))に葬られました。
火葬塚は金閣寺近くの北区鏡石町に三条天皇と共にあります。
火葬塚は別の日に自転車で廻っています。
返事
花水木さん:日本の歴史なんて、
勝った人の歴史、中央の歴史ですもんね。
私は地方郷土史家が好きです。
お菓子も魚も生ものは、
現地で食べないと美味くないですね。