島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

大原街道6.

2024-04-30 | 京都へ、京都から

 いわゆる鴨川デルタと言われてる、賀茂川と高野川が合流して鴨川になる出町の三角州当たりの地図です。

 出町橋を渡りながら、手前の賀茂川と遠くに東山の大文字(如意ヶ嶽)を望みます。

今年はここも人が出て集まってくるようになりました。

 北大路通りに架かる加茂大橋の上流に作られた飛び石です。

少し上流の葵橋は、下鴨神社がある関係で、昔から仮橋などがあったそうですが、平安時代にはこの辺を渡るには、このような飛び石伝いが普通に行われてた気がします。

 この鴨川デルタ周辺は、葵公園と呼ばれていて、最近再整備も行われ、北側(葵橋近く)には京の名石が加茂七石として、

 貴船石・鞍馬石・賤機石(糸掛石)(シズハタイシ/イトカケイシ)・紅加茂石・畚下し石(フゴオロシイシ)・雲ケ畑石・八瀬真黒石(ヤセマグロイシ)と並んでいました。

 奥から二つ目低い黄色い石が鞍馬石で、鞍馬石ぐらいしか聞いたことありませんでした。

 以前鞍馬街道でも紹介した松竹下加茂撮影所がこの北にあったので、目玉の松ちゃんこと尾上松之助さんの像が、この葵公園内に有りました。

 この鴨川デルタはアニメや映画のロケ地にもなって、ファンの聖地になってるようですが、何と言っても京都が舞台の警察・探偵・サスペンス物には、ここが出てきますね。

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大原街道5.

2024-04-27 | 京都へ、京都から

 出町散策最後は写真地図中央の広場ですが、真ん中に地下駐車場への出入り口が出来てるので、ほぼ道路だけの広場になっています。

 広場南側賀茂川べりには、江戸末期から続く「タネゲン」と言う園芸店が有ります。

 その横にある妙音弁財天(ミョウオウベンザイテン)、昔ここにあった伏見宮家お屋敷に祀られていたそうですので、近くには天皇陵巡りでも紹介した伏見宮家墓所も有ります。

 私の息子たちが幼稚園の頃は、弁財天前の金魚すくいで捕った金魚が、いつも家の水槽で泳いでいましたが、今も露店出てましたね!

 賀茂川沿いの北側には、私が学生時代に愛用した公衆トイレが今も残ってます。

京都の公衆トイレは綺麗になりました、ここも綺麗に改修されています。

 少し北のコーヒーハウス マキも、同級生がこの上に下宿していたこともあって、よく行きましたが、まだ有りました。

 広場の西側を眺めると、河原町通りを挟んで、出町桝形商店街のアーケードが有りますし、左にこの日も出町ふたばに並んでる人が写ってます。

 こうしてみると、50年間でこの辺は綺麗になりました。

 いよいよこの出町橋を渡って出発です。

橋のたもとの出町の柳の木の下に、鯖街道口の石柱が立ってますが、平成13年のまだ新しい石柱です。

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大原街道4.

2024-04-25 | 京都へ、京都から

 写真は河原町今出川交差点、この辺りは50年以上前の大学時代からなじんだ場所です。

左に小さく映ってる輸入食品さんで、安い紅茶を買って飲んでいました。

近くには美味しかった学生食堂の「なかじま」も有りました。

 立命館大学が引っ越して、同志社大学も地下鉄が出来て学生の動線が変わったようで、大学生は少なくなったと思います。

 その中で出町桝形商店街は、努力して色んなイベントも企画して頑張っておられます。

2017(平成28)年出町座と言う小さな映画館も出来ていますが、残念ながら私はまだ行ったことが有りません。

 出町は鯖街道の起点ですので、鯖寿司を売ってるこの名も無い小さなうどん屋さんにも、最近は店の外まで並んでいる人を見るようになっています。

 大学時代には、この辺にあったその頃としては本格的なスパゲティの店、同志社女子大の女の子がたくさん来ていたので、私も友人と何回か行きましたが、出会いは全くありませんでした。

その店探しましたが、もう見つかりませんでした。

 何故か阿闍梨餅を販売してる店もありました。

近くの満月本店から持って来てるのですかね。

 この阿闍梨餅は安いですし、仏事には欠かせないお饅頭です。

飽きが来ない味ですので、冷凍して食べてますが、毎回レンジの中で爆発させています。

 こんな洋風レトロな建物も有ります。

肉屋さんが銀行を買って商売を始めたようです。

 その右側には、いつでも行列が出来てる有名な出町ふたばが有ります。

 出町ふたばは豆大福で有名ですし、朝早くまだ行列が出来てない時にたまたま通ると、やっぱり買ってしまいます。

出来立てのここの豆大福は、やはり美味しいです。

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大原街道3.

2024-04-22 | 京都へ、京都から

 もう一度出町付近の同じ地図です。

 青線を引いたのが出雲路幸神社です。

日本最古の縁結びの神として神代の時代に始まり、平安京創建時には、第50代桓武天皇により東北の鬼門除け守護神として出雲路道祖神として造営され、江戸時代に幸神社(サイノカミノヤシロ)と改められた小さな社です。

 青線を引いたもう一つは本山本満寺、その境内の桜は外国人のSNSで有名になったそうで、8年前私が島から帰って出町の診療所で働きだした時にはもう有名で、この写真の桜が満開の時には、観光客で一杯になってました。

 本満寺の墓地には、何故か山中鹿之助の墓があることも以前紹介したと思います。

 地図の青▲は改進亭総本店、昔から猪肉を売ってることで有名な店ですが、私は買ったことはないと思います。

 青■はマツモト模型店、知る人ぞ知る有名鉄道模型店です。ウインドウに飾られてる大型鉄道模型を見るのが、自転車通勤時の楽しみでしたが、閉まってる時も多かったです。

 出町はこの8年間働いてもいたので、何か愛着があって、無駄な回り道のようになってしまっていますが、お許しください。

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大原街道2.

2024-04-19 | 京都へ、京都から

  パソコン画面から写し取った出町の地図ですが、寺町今出川角の大原口道標から少し西、青〇印の細く狭く車も人もあまり通らない道にあるマンホールの蓋から、出町散策を始めます。

  (年 五 正 大)と(水 下)と右から書いてあるマンホールの蓋です。

京都最古のマンホールの蓋のようですが、あまり車や人に踏まれない道にあった為か、100年以上経ってるのに表面があまり摩耗せず生きています。

調べてみると、明治27年(1894年)に始まった京都の下水道事業計画も、実際始まったのは昭和9年(1934年)からのようですので、マンホールが大正5年(1946年)には無かった気がするのですが。

誰かがシャレでこんな蓋を作って埋め込んだにしては、手が込み過ぎてる感は有りますが、100年以上この場所にあったのかは、やや疑問でも有ります。

 最近明治生まれの最後の日本人男性が亡くなったそうで、明治は本当に遠くなりましたが、あと15年経ったら大正も遠くになりにけりになりそうですね。

 私の目標は、明治・大正生まれの人が全員亡くなってから死ぬことですが、明治はクリア(男性だけですが)しましたので、あと15年で大正もクリア・・・、はちょっと無理な気がしてます。

 写真は大正15年のマンホールの蓋の少し南、青✖にある看板です。

西郷隆盛は絶対にこのマンホールの蓋を踏んでいませんが、湯川秀樹(その頃は小川秀樹)(1907~1981)も2歳の頃の住んでいただけなので、この蓋を踏んでないようですね。

 看板の下にあった石柱、この少し北側に相国寺七重塔跡があるようですが、上・下塔之段町と町名が残るだけで、何の痕跡も有りません。

 リーフレット京都No336から無断借用した大塔比較図です。

一番左が今回の相国寺七重塔、次が今の京都市動物園にあっただろう法勝寺八角九重塔、真ん中は今もある中で一番高い東寺五重塔です。

 1400年頃の4年間だけ、ここに高さ36尺(約109ⅿ)の日本建築史上最も高い建物があったのなら、出町もすごい場所ですね!(東寺五重塔は56ⅿです)

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