島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

67-3三条天皇皇后妍子

2020-07-24 | 天皇陵巡り
 
 藤原妍子(フジワラノケンシ・キヨコ)(994~1027)は母倫子(リンシ)父藤原道長(966~1028)の次女ですので、彰子・頼通・教通・威子・嬉子は同母兄弟姉妹です。
  またまたの宇治陵総拝所です。
 
 同母姉彰子が第66代一条天皇との間にやっと念願の敦成親王(アツヒラ)・敦良親王(アツナガ)を産んだ直後ですので、そんなに必要ではなかったかもしれませんが、父道長は万全を期するためか、1010年に次女妍子を当時皇太子であった姉超子の子居貞親王(オキサダ)に入内させました。
  制札には娍子(セイシ)の次に三條天皇皇后妍子があがってます。
 
 居貞親王が1011年に即位して第67代三条天皇になったので、妍子は女御となり、1012年には三条天皇との間に親王も産んでいる娍子を差し置いて、父の力の差で妍子が先に皇后になりました。
  写真は京都御所内に有る立札です。
   この辺は私の小学校時代のギリギリ領地範囲でした。
 
 妍子が産んだのは禎子内親王(テイシ)(1013~1094)だけで、皇子は産まれていません。
夫三条天皇が亡くなった後は、この娘と二人で枇杷殿(ビワドノ)に住み、娘禎子が時の皇太子敦良親王(アツナガ)(後の後朱雀天皇)に入内したのを見届けて亡くなりました。
  写真の御所内梅林辺りが、道長と妍子の里邸としてあった枇杷殿の跡です。

        返事
花水木さん:今回が回答です。
    キラキラネームも平安時代の名前も難しいですよね。

コメント (1)
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