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藤原彰子(フジワラノショウシ)(988~1074)は藤原道長(966~1028)の長女ですが、道長22歳の子で当時の長女としては遅めです。
父道長が藤原家の氏長者になったのは、995年の長徳の変で道長兄の道隆系の一族が排斥された以後ですので、彰子が産まれた頃は、藤原氏長者祖父兼家の5男でしかなかった父道長が、ここまで出世出来るようになったとは思えない状況でした。
写真はいつもの宇治陵総拝所です。
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第60代醍醐天皇の同母弟敦実親王(アツミ)の3男で左大臣の源雅信(マサザネ)の娘源倫子(リンシ・ミチコ)(964~1053)が、彰子の母親です。
倫子は24歳で2歳年下の道長と結婚していますが、沢山の子
長女彰子
長男頼通(ヨリミチ)(992~1074)
次女妍子(ケンシ)(994~1027)
5男教通(ノリミチ)(996~1075)
4女威子(イシ)(1000~1036)
6女嬉子(キシ)(1007~1025)
と、43歳まで産み続け、90歳まで長生きしたことが、道長の栄華を助けました。
写真は宇治陵総拝所制札を裏側から見てますが、前を京阪電車宇治線が走ってます。
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さて今回の彰子ですが、父道長の出世に伴い、幼少期から后かね(キサキカネ)(后になるはずの人)として育てられ、12歳で皇后定子がすでにいた20歳の第66代一条天皇(980~1011)に入内しましたが、なかなか子は出来ませんでした。
大叔母安子と村上天皇の間の子である円融天皇が、伯母詮子との間に作った一条天皇との結婚ですので、彰子と一条天皇の間は普通の従兄妹同士よりも血が濃い従兄妹結婚です。
写真は父道長の墓と言われてる、宇治陵32号です。
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やっと敦成親王(アツヒラ)(1008~1036)(後の後一条天皇)を産んだのは彰子20歳の時、父道長はめちゃくちゃ喜んだようです。
続いて敦良親王(アツナガ)(1009~1045)(後の後朱雀天皇)を産みましたが、夫一条天皇とは彰子24歳で死別しています。
写真は父道長の建てた宇治木幡にある浄妙寺跡です。
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息子二人の即位後は国母(コクモ)として、摂関になった同母弟頼通と共に政界に大きな影響力を持ち、39歳で出家し、上東門院(ジョウトウモンイン)と称されました。
1年後には父道長の死を、その後息子後一条天皇・後朱雀天皇・母倫子・妹嬉子の息子後冷泉天皇を見送って、87歳の生涯を終え、一條天皇皇后彰子として宇治陵制札に並んでいます。
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定子と同じく彰子のサロンにも、道長の権勢もあって沢山の女官が集まりました。
恋多き情熱の歌人和泉式部。
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定子サロンの清少納言にライバル心を燃やした紫式部。
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大弐三位が15歳の時に、母紫式部は亡くなっています。
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私的には、この中ではこの歌が一番好きですが、85歳まで長生きした赤染衛門。
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和泉式部の娘で、この歌で藤原定頼をやりこめた小式部内侍。
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紫式部に替わって、当時は奈良にしか咲いていなかった八重桜の、宮中受け取り役になった時に、歌ったこの歌の素晴らしさに、宮中全体がざわついたという伊勢大輔。
坊主めくりのお姫さんがたくさん集まったサロンでした。
返事
和さん:ありがとうございます
還暦から12年、又干支が廻ってきました。
もう一回干支が廻ってくるまで、
自分で動けて、認知も軽いぐらいで過ごせたら良いのですが。