島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

今年の桜2

2020-03-30 | ノンジャンル
 
 先週の夕方、施設の死亡確認に呼ばれた帰りに、寄り道して木屋町に。
先週迄の京都は、東京・大阪程はコロナ規制が厳しくなかったです。
高瀬川沿いの桜は満開近しですが、それでも平日でもあるのか、人出は例年ほど多くは有りませんでした。
 
 金曜日、今年は冬用タイヤの活躍場がほぼ無いまま、車のタイヤをノーマルに戻してもらいました。
 その足で、滋賀県朽木辺りをドライブ(昨日の「麒麟がくる」では、光秀と足利将軍の向井理さんが、この朽木で会っていましたね)、まだ山中の桜は蕾です。
そのまま高島に抜けて、坂本の西教寺へ向かいました。
西教寺参道の桜並木は、少し赤っぽいぐらいでした。
 
 小雨もふっていたので、西教寺境内はほぼ誰も参詣者いません。
境内の光秀展も、新型コロナで中止中なので、拝観料は500円のみ。
誰もいないので、心配なく観て廻れますが、境内の桜はまだチラホラ咲き。
 
 明智光秀とその妻煕子(ヒロコ)の位牌に焼香できました。
位牌を撮るのは止めましたが、この奥に仲良く並んであります。
 
 明智一族と光秀妻煕子さんの墓も、この西教寺境内に建っていました。
煕子さんは本能寺の変の7年前に、42歳で亡くなっていますが、あの細川ガラシャ夫人のお母さんになります。
(「麒麟がくる」では木村文乃さんが煕子を演じるそうで、次回ぐらいから出てくるようです)
 
 土曜日は、結婚のお祝いを持って挨拶に行くため、久しぶりのスーツに黒靴姿に変身。
帰って、いつもの服に着替えて奈良の大和郡山城までドライブ。
不要不急で外出ばかりですが、少しですがお金を回さなくてはと、それでも安心そうな所ばかりを狙ってる、姑息さが目立つ私です。
 
 幻の天守台が石垣だけ再建されていましたが、土曜日なのに花見客はまばらです。
まあ天気が悪かったせいもあるし、桜もまだ満開ではなかったですが、宴会は厳禁の貼紙ばかりが目立ちます。
 
 お城も無料で、駐車場も無料でガラガラ、これでは大和郡山になんの貢献もしないことに成るので、城の前の新しい郡山ホールで、ランチにデザートと美味しいコーヒーも付けてもらいました。
 でもこの季節で、食堂も空いていたので、商売する人皆さんなかなか大変でしょうね。
貢献するつもり?の出歩きも、街や人の多い所は避けるようになりました。
京都も大学生の感染が発表され、甘かった規制が厳しくなるかもしれません。
京都市中でも感染の確率は上がってきたようなので、自粛してその確率を下げるべく、私もしばらく麻雀やめようと、友達に連絡しました。
経済は回したいし、リスクは避けたいし、なんかどっちつかずになってきた私です。

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59-1宇多天皇

2020-03-28 | 天皇陵巡り
 
 光孝天皇が亡くなる前の慌ただしい時期、次の天皇に誰が成るのかは、結局権力者基経の手に委ねられましたが、ここで基経は臣籍降下していた光孝天皇の皇子源定省(ミナモトノサダミ)を再び親王にして、立太子させ、速やかに次の天皇にしました。
こうして即位したのが、第59代宇多天皇(ウダ)(867~931)(在位887~897)です。
 前回の光孝天皇の真陵かとも言われてる、仁和寺裏手の御室陵墓参考地から更に山道を(自動車道)を登っていくと、昔参道であった急な石段に到りました。
 
 その石段を登った所から、本当の山道の参道になります。
 光孝天皇の長男でもない定省を基経が選んだのは、定省が基経のこちらは仲が良かった妹淑子(トシコ)の猶子になっていたことがありました。
 
 仁和寺の裏山にある御室八十八カ所は、私の小学校の担任の先生の家が御室にあったので、級友と遊びに行った時に皆で廻りましたし、大人になってからハイキングに行ったこともあります。
今回宇多天皇陵を目指して仁和寺裏山の大内山を登りましたが、なんとなくこの辺の土と言うか岩と言うか、懐かしい気がしながら登って行ったので、しんどいと聞いていた宇多天皇陵も意外と楽に到達できました。
 
 山の上から少し下がったような所に、御陵が見えてきました。
基経によって成れたような天皇の地位ですので、宇多天皇は基経にそれなりに気をつかっていたと思いますが、基経はせっかく自分が選んだ天皇なのに、なんかいちゃもんをつけたり権力を誇示するような性格の悪さから、阿衡の紛議(アコウノフンギ)と言う一件を起こしています。
(詳しくは調べて下さい、入試を日本史でとった私ですが、このことを知りませんでした)
 
 定省が宇多天皇になる前からの多くの妃の中で、藤原胤子(インシ)が産んだ敦仁親王(アツギミ・アツヒト)が次の第60代醍醐天皇になりました。
 天皇になってから888年には基経の娘温子(オンシ)を更衣に迎えていますが、幸か不幸か二人の間には内親王しか産まれませんでした。(宇多が避けた?)
 
 基経が891年に亡くなり、その後藤原北家を継いだのは基経長男の時平(871~909)でしたが、まだ若いこともあって、宇多天皇は藤原北家とはやや距離を置くようになり、菅原道真などを重要地位に置く布陣を構えています。
 宇多天皇は比較的早めに譲位し、以後899年には出家し、仁和寺に入って法皇となり、熊野三山にしばしば参詣するなど、政治からは身を引いていきました。
 
 それでも901年昌泰の変(ショウタイノヘン)、いわゆる菅原道真が時平などの勢力によって太宰府へ左遷された時は、あわてて内裏にかけつけたそうですが、時すでに遅かった。
 宇多天皇は火葬後そのまま土で覆われ、そこが陵になっていたそうですが、こんな山の上に江戸時代になってから治定されたのが、この大内山陵(オオウチヤマノミササギ)(右京区鳴滝宇多野谷)です。

     返事
花水木さん:花粉症の人は、
    今のご時世、電車などに乗りにくいですね。
前々回の花水木さん:まだ満開ではないですが、
    混みそうでない場所の花見に出かけてはいます。

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番外58-2光孝天皇女御皇太后班子女王

2020-03-25 | 天皇陵巡り番外
 
 京都福王寺の五叉路ぐらいのバス道ですが、高雄や嵐山や金閣寺などに行く丁度別れ道になりますので、行楽の季節には昔からかなり混む交叉点です。
 この丁度角の一段高い所に建つのが福王寺神社(フクオウジジンジャ)です。
近くには文徳・光孝・宇多・村上・円融の御陵もあり、私が産まれ、大学時代も一人で過ごした鳴滝にも近いので、懐かしい場所でもあります。
 
 この福王寺神社の祭神が、光孝天皇女御皇太后班子女王(ハンシ・ナカコジョオウ)(833~900)で、福王寺神社由来のこの木の額には、この地が一説には班子女王の陵墓かとも伝えられている、と書いてありました。
 
 第50代桓武天皇の皇子仲野親王は、あまり有名な人でもないのに、ここからまあ近い同じ嵐電沿線の帷子ノ辻(カタビラノツジ)駅近くの、大きく立派な高畠墓(タカバタケノハカ)に葬られています。(昨年8月のブログ参照)
 この仲野親王の17人の子の一人が班子女王です。
光孝天皇がまだ時康親王時代にその妃になった班子女王ですが、家系的には従兄(仁明天皇)の息子と結婚したことに成ります。
 
 夫の時康親王も気さくな人柄だったようですし、班子女王自身も至極お気楽な正確だったようです、知らんけど!
 時康親王(光孝天皇)自身の子供も40人ほどいるようですが、二人の間にも源元長(ミナモトノモトナガ)・是忠親王(コレタダ)・是貞親王(コレサダ)・定省親王(サダミ)の4皇子と4人の女の子、計8人の子をなしています。
その内綏子内親王(スイシ)は、第57代陽成天皇の妃になって、前々回のブログで陽成が贈った小倉百人一首の歌の相手方だったようです。
 
 夫の時康親王が55歳で思いもかけずに第58代光孝天皇に成ったので、班子女王の子供も含めてすべての子を臣籍降下させましたが、最後に息子定省親王が復活して、光孝の死後第59代宇多天皇になったので、班子女王も皇太后を贈られています。
 息子宇多天皇の10年の在位をずっと見届け、息子の開いた仁和寺近くで、夫光孝や息子宇多の御陵近くのここに葬られたのなら、まあこの地が班子女王の陵であったとの説も納得できました。

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今年の桜1

2020-03-23 | ノンジャンル
 
 三連休、不要不急の外出ばかりしてます。
金曜日は徳島に、土曜日は滋賀県に、そして日曜日は近所の散歩。
 近くの家の立派な桜、危ないのでだいぶ切られましたが、花が咲きだしています。
 
 宝ヶ池まで散歩ですが、桜はまだ蕾が多いです。
ミヤマツツジは満開。
 
 場所によっては、蕾ばかりのミヤマツツジも有りますので、春までもう少し。
 
 コブシは満開。
春の陽気で、気分は明るくなりますが、新型コロナ、イタリアであんなに死者が多いと、分からなくなってきました。
違う病気なのかなと思うぐらいです。
 
 椿はまだたくさん蕾が有りました。
五島の椿は今頃はもう散っていたはずですが、京都の春の方が遅いのか。
 
 所々に、咲き始めた桜も有りますが、大きい桜はまだ3分咲きぐらいが多いか。
 
 深泥池を廻って帰りましたが、池の中に綺麗な鷺。
新聞買って帰っても、競馬は入らず。
不要不急の外出で、新聞買ったぐらいでは、なんの役にもたってない老人ですね。
 
 月曜日、出町近くの診療所に出勤前に寄った、近くの本満寺の枝垂れ桜。
枝垂れにしては早く、もう満開ですが、今年は外人の姿が、さすがに見あたりません。
 
 この桜樹齢90年、円山公園の有名な祇園枝垂桜の姉妹らしいですが、こちらの方が元気そう。
最近外国人の間で有名になって、わたしも京都に戻ってから知った桜です。
 
 午後から行ってる岩倉の病院の桜です。
ソメイヨシノではないようなので早いのか、満開でした。

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58-光孝天皇

2020-03-21 | 天皇陵巡り
 
 陽成天皇が譲位したのは(させられたのは)まだ16歳の時です。
時の権力者基経は、陽成の同母弟貞保親王(サダヤス)を次期天皇にすると、また妹高子が国母になるので嫌がったようですし、自分の娘佳珠子(カズコ)が産んだ陽成の異母弟貞辰親王(サダトキ)(7歳)を擁立するのは、いかにも我田引水見え見えなので嫌がったのか。
 
 第53代淳和天皇皇子で承和の変(842年)で一度は廃太子されて、その後出家して大覚寺を開創した、恒貞親王(ツネサダ)(昨年12月21日ブログ参照)に白羽の矢を立てました。
基経の祖父にあたる冬嗣に廃太子されてるので意地もあったのか、もう60歳で出家してることもあったのか、恒貞親王は基経の要請は固辞しました。
 
 そこで基経が選んだのは、第54代仁明天皇第3皇子時康親王(トキヤスシンノウ)(この時55歳)です。
時康親王の母沢子(タクシ・サワコ)(1月29日ブログ参照)と、基経の母乙春(オトハル)は姉妹であったことや、時康親王があまり政治に関心が無いようで、自分が政務を独占できるとの思いが、基経が選んだ理由と言われています。
 
 こうして時康親王は即位して、第58代光孝天皇(コウコウ)(830~887)(在位884~887)と成りました。
最近になって第125代平成天皇(今の上皇)の55歳、今回の第126代今上天皇(令和天皇)の59歳の即位で抜かれるまでは、桓武天皇の父第49代光仁天皇の60歳に次いで2番目の高齢即位であった光孝天皇ですが、あっという間に高齢即位4番目に落ちました。
 
 こうしてせっかく藤原北家からの娘が産んだ文徳・清和・陽成と続いた皇統は、藤原北家の長者基経自身によって途切れてしまいました。
 光孝天皇と基経との関係は良好で、光孝自身も自分の子を全て(40人以上いました)臣籍降下させて、その次は基経の家系からの天皇に戻せるようにも計らっていました。
しかし最後、再び基経の意向で、自分の子で臣籍降下もしていた源定省(ミナモトノサダミ)を親王に復活させてもらい、喜んでその日に亡くなりました。
 嵐電御室駅を降りてすぐ、写真の仁和寺二王門に至る道の途中にある後田邑陵(ノチノタムラノミササギ)(右京区宇多野)に葬られています。
 
 この光孝天皇のように、皇統が移動する時は、天武系から天智系に戻った時の第49代光仁天皇、今回の第58代光孝天皇、そして江戸時代に別の皇統に別れた第119代光格天皇と、なるべくしてなった天皇ではない天皇の名に「光」が付いてることに気づきましたが、何故なのか?
 
 光孝天皇陵、実はこの後田邑陵と仁和寺をはさんで反対側、700ⅿほど離れた山側の仁和寺裏手にある御室陵墓参考地(右京区御室大内)の方が、真陵ではないかと言われています。
 
 丁度仁和寺の裏に建つ京都府立聾学校の北側に、なんとかこの御室陵墓参考地への入り口を見つけました。
場所的にも雰囲気的にも、こちらの方が正しい陵の気はしてます。

     返事
花水木さん:私はストレスに弱いです。
     世界のニュースを見てると、心配ですが、
    日本のニュースを見てると、
    なんかたいしたこともなく終わりそうな気もしてます。
大雪男さん:3連休中の世間は、
    京都・滋賀・大阪・兵庫・徳島ですが、
    桜も咲きだして、車も混みだして、
    人も出はじめてる気はしてますが、
    プロ野球がまだなのは寂しい限りです。
    (その分気は楽ですが)

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