島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

8.春駒

2019-05-30 | 菓子たくさん
 
 鹿児島名物明石屋の餅菓子「春駒」(ハルコマ)、ういろう餅の一種です。
 
 200年ほど前に、薩摩藩で携帯食料目的で作られたようで、最初の物は長さ30cm・太さ5cmもある物でしたので、名前は「馬ンまら」。
大正天皇行幸の際に、名前を尋ねられましたが、「馬ンまら」とは畏れ多くて言えなかったそうです。
その時に、侍従が「春駒と申します」と答えてくれて、急場をしのぎ、結局そのまま「春駒」になったそうです。
 
 時は移って、今の「春駒」は、私でも勝てるぐらいの大きさの一口サイズになり、1本150円。
 
 食感はでっち羊羹の感じで、少々入れ歯に引っ付きます。

      返事
じょんのびかあさんさん:一応名前は伏せてるブログですが、
    まあ流しておきますので、ご心配なくまたコメントしてください。
大雪男さん:広島は完全に底力が付いてしまったのですね。
    阪神は今日の巨人戦このまま勝って、
     (浮「ので阪神攻撃の時だけ観てます)
    交流戦終わって5割なら、万々歳です。

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7.柚餅

2019-05-27 | 菓子たくさん
 
 京都鶴屋吉信の柚餅(ユウモチ)、150年ぐらい前に創案されたお菓子らしいですが、いたる所どこにでも絵や字を描いている富岡鉄斎図案の包みです。
 
 今はぴっちりとシールされているので、開けるまでは持ちは良くなってるようです。
このサイズで500円ですが、だいたいが柚餅は買う物ではなく貰う物でした。
 昔はこの倍の長さの箱に入っていたので、最後の方はやや硬くなっていました。
 
 いかにも私の好きそうな求肥(ギュウヒ)(今の今まで牛肥と書くと思っていましたが)に和三盆をまぶして、柚の香りも付いています。
 つまみだすと止められないので、これくらいなら一人であっという間に食べてしまい、怒られます。
 
 手でつまむか、爪楊枝に刺して食べるかは、好みですよ。

     返事
花水木さん:息子の家といっても、もう他人の家。
    その中で手伝いも、楽しいけどしんどいですかね。
    この年になってやっと、女の人生ってしんどいことが判ってきました。
    と言っても、「あんたはいつも他人事やね!」と言われそうですが。
じょんのびかあさんさん:旦那さんはどうですか?
     安村医院は、私の同級生でしたか?

コメント (3)
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48-1称徳天皇

2019-05-24 | 天皇陵巡り
 
 光明皇太后が亡くなり、藤原仲麻呂はますます自分だけへの権力集中をはかった結果、孝謙上皇や藤原氏の他の家の人々からも反感を買い、焦った仲麻呂は764年に恵美押勝の乱をおこし、予想外にあっけなく敗れ、琵琶湖の西の高島で斬殺されました。
 (いくら準皇親化した藤原氏であっても、しょせんは臣下、皇権にとって替わろうとしたら滅びることを、藤原一族は身を持って経験し、以後良き教訓としたようですね。)
 こうして恵美押勝の乱を平定した孝謙上皇は、第47代淳仁天皇を廃して、自分は重祚(チョウソ)して第48代称徳天皇(ショウトク)(718~770)(在位764~770)となりました。
 
 日本で2回天皇の位についたのは(重祚)、皇極・斉明と孝謙・称徳の2人だけで、いずれも女帝です。
皇極・斉明の陵もそうでしたが、陵の制札や陵印にはいずれも後の方の名称(斉明と称徳)の名前しかありませんでした。
  
 称徳天皇の治世において、なんといっても有名なのは、独身であった称徳女帝の病気を治してくれた、しかも私が羨ましく思うような一物を持っていた道鏡との仲です。
政敵の実力者をどんどん潰していった持統天皇から藤原仲麻呂までの為、政界の実力者不足もあってか、道鏡はどんどんその地位を上げて行ってます。
後ろ盾になっていた父や母(聖武天皇と光明皇后)が死に、支えてくれていた藤原一族の頭の反乱もあって、一人女で天皇の地位を守って行く道は、結局男道鏡に頼ることしか出来なかったのか・・・。
 
 最後、「道鏡が王位につけば天下が泰平になる」という神託までもらえたのは、二人の周りに群がった人々の忖度の結果かもしれません。
 しかし、この証明に派遣された和気清麻呂(ワケノキヨマロ)が、宇佐八幡宮から「臣下を君主には出来ない、皇統の人をたてよ」という反対の神託を貰ってきたので、道鏡が皇位につく野望は潰えました。
 清麻呂が宇佐八幡宮に行く道中を猪が助けたので、亥年の今年は初詣でにぎわい、私も本殿には行けなかった京都護王神社の境内に立つ清麻呂です。
 
 こうして、第40代天武天皇から始まった皇親政治は、第41代持統天皇が息子や直系の孫を天皇位につけようと、ライバルである皇統を次々と葬り、その分藤原一族が準皇親化し力が強くなりましたが、第45代聖武天皇が男の子に恵まれなかったために、天武系はこの第48代称徳女帝で途絶えてしまうという結果になりました。
 孝謙・称徳と2回天皇位についた未婚の女帝は、770年に亡くなり、この高野陵(タカノノミササギ)(奈良市山陵町)に葬られています。
 昔NHKのドラマで、この女帝を石原さとみがやったと思うので、書いてる時になんか石原さとみのコマーシャルが浮かんで困りました。

コメント (2)
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47-3大夫人山背

2019-05-20 | 天皇陵巡り
 
 当麻山背(タイマノヤマシロ)は前回の舎人親王の何人かの妃の一人で、733年(舎人親王は57歳ぐらい)に第7皇子になる大炊王(後の淳仁天皇)を産んでいますが、その時に当麻山背が何歳だったかは不明です。
 息子の第47代淳仁天皇の淡路島の陵から少し歩くと、いかにも陵らしい写真の丘が見えてきました。
 
 それから25年経った758年に、急に我が息子が天皇になってしまいましたので、天皇の母として大夫人(オオミオヤ・ダイブジン)と尊称されるようになりました。
とっくの昔に死んでいた夫の舎人親王も759年には、天皇の父として崇道尽敬皇帝と追号されたので、追尊天皇崇道尽敬皇帝妃大夫人山背(ツイソンテンノウスドウジンキョウコウテイヒダイブジンヤマシロ)となったのです。
 小山の頂上まで、真っ直ぐの石段がのびていました。
 
 ただし、淳仁王朝を完全に支配していた藤原仲麻呂が764年に恵美押勝の乱をおこし、あっけなく孝謙上皇方に負けてしまいましたので、息子の淳仁天皇も捕えられ、親子して淡路島に流されてしまい、当麻山背はその後消息不明です。
 
 息子淳仁天皇はその後殺されたようなので、母もその時一緒に殺されてる可能性大です。
でも墓は息子の陵に近い所に淡路墓(アワジノハカ)として作られていますが、多分あと付けの様な墓だと思います。
遠い淡路まで、宮内庁の目が行き届いていないのか、制札は新しいですが、字自体は子供が書いたような感じです。

      返事
花水木さん:昔の嫌なことを夢に見ることはあります。
    辛いですが、それでも前向きに生きてるほうだとは思ってます。
    自分のことを忘れるのは良いのですが、歌の文句ではないですが、
    自分のことを忘れられるのは辛いですね。

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47-2舎人親王

2019-05-17 | 天皇陵巡り
 
 舎人親王(トネリシンノウ)(676~735)、その名前は太安万侶と共に日本書紀を編纂したとして、教科書にも名前が挙がっているので有名ですね。
 菖蒲の節句発祥の地らしい京都藤森神社は、菖蒲→勝負に通じていたり、5月5日の藤森祭で曲乗りの駈馬神事(カケウマシンジ)が行われることからも、競馬の勝負運の神様として、私も少しは頼りにしている神社です。
 
 藤森神社のの祭神として、日本書紀を編纂したので日本最初の学者とされる舎人親王もあがっています。
 
 舎人親王の父は天武天皇で、母は天智天皇の娘新田部皇女(ニイタベコウジョ)ですので、血統的には申し分ありません。
第40代天武天皇の沢山いる息子の中では、一番最後まで行き残り、天武系の皇親政治を補佐するとともに、やや藤原氏寄りの政治活動もしてきました。
当麻山背(タイマノヤマシロ)との間に、第7皇子として大炊王をもうけたのは、死ぬ3年前の55才過ぎです(すごい!)。
 
 舎人親王の死後20年以上経ってから、息子の大炊王が思いがけずに第47代淳仁天皇に成れたので、天皇の父として崇道尽敬皇帝(スドウジンキョウコウテイ)とすごい名前の追号を貰っています。
 
 黄金塚陵墓参考地(コガネズカリョウボサンコウチ)(奈良市田中町)として宮内庁が舎人親王の墓(陵)と定めた、ここ奈良の平城京の東南の山すそですが、発掘調査では舎人親王の時代より100年ぐらい前の時代の墓の様で、正式名帯解黄金塚古墳(オビトケコガネズカコフン)です。
入り口を探すのに苦労して歩き回りました、このなんの目印もない脇道を入っていった所にありました。

     返事
花水木さん:心が折れたことも、もう忘れてしっまてる。
    これが年寄りの良い所です。
数さん:和さんの変換間違いでしょうね?
     賀茂川土手の木々の間を抜ける行列は、
    街中で観るより気持ち良かったです。

コメント (1)
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