島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

2018-05-29 | ノンジャンル
   
 40年ほど前にこの家を買った頃、家の周りには田んぼもあって、家の塀に沿って流れる小川にはザリガニや、田にはカブトエビもたくさんいて、夜はウシガエルの鳴き声がうるさかったぐらいです。
その後道が拡がって、地下鉄駅が出来、田んぼがマンションや結婚式場に替わり、家の横の小川で孫が遊んでも、なにも獲れなくなりました。
 でも昨日、家の雨戸に蛍がとまってるのを、家内が見つけました。
    
 ほんまに光っていて、家内の手の中から逃げません。
最近は雀が少なくなり、他の鳥が増えました。
先日はなんと大きな角を持った牡鹿まで、家の前で見るようになりました。
蛍は、田んぼが無くなって農薬が減ったせいでしょうか、それとも前から飛んでいたのかもしれませんが、家の網戸に蛍がいたなんて、なんかうれしくはなりました。
 町中でもなんとなく生態系が変わっていってる気はします、多分もうじき家の前で猪を見るかもしれませんし、私が死ぬ頃には、ハイエナやハゲタカが私の死肉をあさってるかもしれませんね。

     返事
花水木さん:立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花、
    の意味は、何をしても美人は美人と言う意味でしたか?ふと疑問が湧きました。
     花水木さんは座ると牡丹のようだったのですね。
大雪男さん:広島は交流戦も大丈夫だと思いますよ。
和さん:室生寺の方が歩く距離は長いと思います。
    45年前と言うと、修学旅行ですか?

コメント (1)
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長谷寺

2018-05-27 | 趣味
   
 西国三十三所霊場第8番札所の長谷寺に行ってきました。
笑い飯の片方がお寺好きで、いろいろお寺を紹介してるTV番組を、たまたま観てしまったからです。
 家から2時間ほど、駐車場に車を停めて、すぐの仁王門から入ります(入山料500円)。
仁王門の額字「長谷寺」は、後陽成天皇の御宸筆。
   
    
 長谷寺と言えば、なんといってもこの登廊(ノボリロウ)が有名です。
直角に曲がりながら、だんだん急になる上中下の三廊に別れていて、全部で399段。
2枚の写真でも石段の高さが変わってるのが分かります。
    
 花の寺としても有名な長谷寺の中でも、一番有名な牡丹はもう終わってるのか、わずかに残ったこれは牡丹?芍薬?。
   
 399段、たいした登りではありませんが、途中休憩して、風が通る気持ちの良い宿坊で、私はやっぱりソフトクリームの方。
    
 本堂は国宝ですが、カメラレンズに古い水滴がついていたので、せっかく新しいカメラの写真が台無しです。
     
 ご本尊の十一面観世音菩薩の上半身は、いつでも拝めて、それだけでも迫力ありましたが、この日は特別拝観(千円)で、その足元まで入れて見上げることが出来ました。
10ⅿ以上の身長で、楠木で出来た木造、立派すぎました。
その足を触ってお願いすることも出来ましたので、充分に両足ともさすっておきました。(願い事の麻雀はおかげでその後勝ちましたが、オークスは入って負け、本日のダービーももちろんダメでした)
     
 道内に入る時に、両手にお香をすりつけてもらい、このようなリストバンドも貰い、手に巻いてお祈りしながらおみ足をさするのです。
   
 本堂に付いている舞台は、これも笑い飯が説明してたように、京都の清水寺の舞台と同じく徳川家光公の寄進で出来たようで、清水の舞台と同じようでした。
    
 大観音大画軸大開帳もあって(別途500円)、縦16ⅿで重さも100Kg以上です。
長谷寺の観音さんは、右手に錫杖(シャクジョウ)を持ち、右足も半歩前に出た姿で、お地蔵さんのように我々の身近に寄ってきている姿を現した長谷寺式観音さんですと、これも笑い飯の受け売りです。
    
 最後本堂を振り返って眺め、長谷寺をあとにしましたが、「やっぱりあんたの目的は天皇陵巡りか!」と言われつつ、細い道を走って、買ったばかりのスマホの地図にも助けられて、3ヶ所また天皇陵巡りを追加できました。

    返事
花水木さん:私もあいまいな人間で、
    自分が椿なのか薔薇なのか判らない時があります。 なーんちゃって。
和さん:もう一駅地下鉄に乗ってもらったら我が家です。
    夏には私は無料になるので、しょっちゅう行くかも!
大雪男さん:お久しぶりです。上五島から帰られてまたお願いします。
     阪神嬉しい3連勝、気持ち良く交流戦に臨めますが、 
    交流戦終わったら、セで5割以上は広島だけになってるでしょうね。

コメント (3)
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京都府立植物園

2018-05-23 | 京都
  
 先週土曜日、ブラブラと歩いて行ける京都府立植物園に朝の散歩。
入園料は200円、あと数カ月後には私は70歳で無料になりますので、最後の有料入園になると思うと、切符をブラブラ人に見せるかのように振りながら歩いてしまいました。
   
 京都の植物園は、日本でも一番古いぐらいの植物園だと思いますが、戦後は進駐軍に接収されていて、私が中学生だったころに再開された記憶があります。
 ここでデートしたカップルは別れるという都市伝説がありますが、私の友人は無謀にもここでお見合いをしましたが、今も別れずに(我慢している?)仲良く暮らしています。
    
 盆栽まであったことを初めて知りました。
   
 こんなきれいなおとぎの国のような松ぼっくり?を見つけました。
   
 丁度バラ園の薔薇も満開です。
若いころ、はっきり区別できた花はバラとチューリップぐらいだったと思いますが、バラも品種が多く、福江島のつばき園で咲いていたいろんな椿と、区別できないようなバラもありました。
  
 これはバラではないようです。
   
 土曜日の晴の朝、写生の子供たちと薔薇ほどは美しくない年寄りが目に着くバラ園です。

       返事
花水木さん:私は過ちや悪いこともする人です、
    と言いたかったのかな?
    ほんまに私は、口から出まかせを言ってる人のようですね。

コメント (3)
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31-3用明天皇皇后穴穂部間人皇女

2018-05-19 | 天皇陵巡り
  
 前回書いたように、聖徳太子が祀られている磯長墓は、聖徳太子本人と太子の母である穴穂部間人皇女(アナホベノハシヒトノヒメミコ)と太子の妃膳部菩岐々美郎女(カシワデノホキキミノイラツメ)が埋葬され三骨一廟と呼ばれていますが、宮内庁の制札には太子の名前しかありません。
  
 第29代欽明天皇と蘇我稲目の娘 小姉君(オアネノキミ)との間に産まれた6人の子供の一人穴穂部間人皇女は、同母弟に叔父の馬子に殺された第32代崇峻天皇がいます。
また、第30代敏達天皇が亡くなった時殯宮(ヒンキュウ)に押し入って、その皇后である異母妹の炊屋姫(カシキヤヒメ)を犯すことによって次の天皇を狙ったが失敗し、叔父の蘇我馬子に後日殺された穴穂部(間人)皇子(アナホベノミコ)も同母弟ですし、この時一緒に殺された宅部皇子(ヤカベノミコ)も弟とも言われています。
   
 穴穂部間人皇女は異母兄の第31代用明天皇の皇后になって、聖徳太子他4人の息子を産んでますが、夫の用明天皇が亡くなった後は、夫用明の先妻であり自分の伯母でもある蘇我石木名(イシキナ)の息子、すなわち亡き夫の先妻の子(第1皇子です)田目皇子(タメノミコ)と結婚し佐富女王(サトミノヒメミコ)を産んでいます。
もっとややこしいことに、我子の聖徳太子と膳部菩岐々美郎女との子である長谷王(ハツセノオオキミ)(孫になります)が、自分の再婚して出来た娘佐富女王と結婚してるので、もうわけが判りません。
 故に、制札には単に推古天皇皇太子聖徳太子磯長墓としか書いていないこの廟には、用明天皇皇后穴穂部間人皇女磯長陵とも書かなくてはいけないはずです。
穴穂部間人皇女から見たら、自分の子(聖徳太子)と、その嫁でもあり自分の子(佐富女王)の姑でもある人(膳部菩岐々美郎女)と一緒の墓に入っているので、3人ともなかなか安らかには眠れてはいない気もします。
    
 京都府の北、丹後半島に間人(タイザ)という村があって(今はブランド蟹で有名)、京都の人は海水浴に泊りがけで行くところです。
ここに一度この穴穂部間人皇女は逃れていて、再び宮に戻る時に、自分の名間人(ハシヒト)を世話になったこの地に贈ったそうですが、村人たちはそれは畏れ多いと、皇后が退座(タイザ)したということで、間人をタイザと読むことにしたと言う伝説があります。

    返事
花水木さん:ブログ上の私は、
    読者が作り上げた架空の人物にならないように、
    なるべく失敗を書くようにしていきます。
     (何を言いたいのか判らない返事になってしまいました)

コメント (1)
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31⁻2用明天皇皇子聖徳太子

2018-05-13 | 天皇陵巡り
   
 私の天皇陵巡りで一番有名と思われる、誰もが知ってる聖徳太子の順番まで来ました。
聖徳太子は皇太子止まりで天皇にもなっていず、その子供も滅ぼされた為に、今の天皇家とは繋がっていません。
  
 父第31代用明天皇とその異母妹(異母妹と言っても母同士は姉妹ですのでかなり血の濃い)穴穂部間人皇女(アナホベノハシヒトノヒメミコ)との間に産まれた4人の子の一人、厩戸皇子(ウマヤドノミコ)が聖徳太子その人です。
 キリスト伝説と同じく、厩の前で産まれたのでその名があると言われていますし、10人の話をちゃんと聞き分けたということで 豊聡耳(トヨトミミ)の別名もあります。
血が濃いことが良い方に出た天才という例でしょうね。
   
 第30代敏達天皇と第33代推古天皇との間に産まれた菟道貝蛸皇女(ウジノカイタコノヒメミコ)を娶りましたが、二人の間には子供はなく、蘇我馬子の娘刀自古郎女(トジコノイラツメ)との間に山背大兄王(ヤマシロノオオエノオウ)他4人を、膳部菩岐々美郎女(カシワデノホキキミノイラツメ)との間に8人の子供を、また菟道貝蛸皇女の弟である尾張皇子の娘橘大郎女(タチバナノオオイラツメ)との間には2人の子供をもうけました。
 48歳で亡くなって、叡福寺北古墳(エイフクジキタコフン)と言うこの磯長墓(シナガノハカ)(大阪府太子町)に葬られました。
    
 この磯長墓は叡福寺と言うお寺の中にあって、拝所には賽銭箱もありますし、線香を立てるつぼもあったり、門には菊の御紋も付いていますし、石室入り口であるこの正面には御霊屋(オタマヤ)と言われる覆屋まで建っています。
又、制札には、推古天皇皇太子聖徳太子磯長墓としか書いてありませんが、母であり第31代用明天皇の皇后である穴穂部間人皇女と、妃であって本人の1日前に死んだ膳部菩岐々美郎女との3人で入ってる三骨一廟の可能性が高いと推定されています。
   
 直径54ⅿ高さ7.2ⅿの円墳であるこの磯長墓の周りには、2重にずっと結界石と言う梵字(ボンジ)が刻まれた石柱が並べられています。
その内側の石柱は空海の寄進と伝えられてるそうです。
 ある先生の説によると、蘇我氏系の墓は方墳で、反蘇我氏系の墓は円墳と言われてますが、どう考えても蘇我氏系の聖徳太子の墓が円墳と言うのはこの説に合わず、これがこの説の欠点だそうです。
でも、山背大兄王など聖徳太子の次の世代は、その蘇我氏に滅ぼされているので、この磯長墓の形はこのことを暗示してるのかもしれません。
   
 父第31代用明天皇が薨去した時はまだ14歳で若すぎましたし、蘇我馬子と共に物部氏を滅ぼし、第32代崇峻天皇が暗殺された時も20才で、叔母の第33代推古天皇(592年即位)の下で皇太子として摂政をしたのみです。
594年;仏教(三宝)興隆の詔(ミコトノリ)
603年;人材登用をはかる冠位十二階を定める
604年;有名な17条憲法制定
  太子町のマンホールの蓋にも「和を以って貴し・・・」
607年;小野妹子などを遣隋使に
 などなど、歴史で学んだり、お札でありがたがったりした聖徳太子ですが、最近はその実在さえ否定する説もあるようです。

    返事
花水木さん:真陵;本当に名前の本人が眠ってる御陵と理解してますが、
    違うかも?

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