島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

小野妹子2

2018-06-30 | 天皇陵巡り番外
   
 小野妹子のついでに、息子小野毛人に続くその子孫について。
小野家の出は元々、滋賀県湖西の琵琶湖大橋の少し北、小野の郷らしいです。
近くには、小学校の水泳遠足で行った和爾浜水泳場があるので、小野家のもっと先祖になる和爾氏(ワニシ)ゆかりの地でもあるようです。
 家から車ですぐの小野毛人墓のある崇道神社の横を通って、八瀬大原を抜け、途中峠を越えると、小野妹子そのままの名前が付いてる道の駅まである、小野の郷までは30分ぐらいで着きます。
     
 小野の郷の新興住宅地の真ん中に残った、小高い丘のような唐臼山古墳(カラウスヤマコフン)は、7世紀前半に造られたようですが、ここも小野妹子の墓だと言われています。
そこには鳥居をくぐって、急な石段を上がる、小野妹子神社もあります。
      
 小さな小野妹子神社本殿の裏にある小山は、太子町磯長にある妹子墓や崇道神社奥の毛人墓になんとなくイメージが似ていました。
    
 唐臼山古墳の展望台からは、住宅地の向こうに琵琶湖大橋や、湖東の三角形の近江富士も見渡せました。
    
 小野妹子から5代後の小野篁(タカムラ)(802~853)、参議篁として小倉百人一首の11番目の歌でも有名です。
妹子は遣隋使として2回も中国に渡っていますが、篁は遣唐使として派遣されるのを拒否して、嵯峨上皇の怒りにふれ、隠岐に流されています。
その後は許され、昼は朝廷に出廷し、夜は冥土へ通じる六道の井戸を通り、閻魔大王に使えていたという伝説もあります。
   
 この篁と小野一族を祭神として祀る小野篁神社と小野神社、この本殿は、何故降格されたか知りませんが、誰かの怒りに触れたのか、旧国宝で現在は重要文化財でした。
   
 小倉百人一首第9番小野小町も、篁より2代後の小野一族とも言われていますが、判りません。(奈留島百人一首のため島の官舎の部屋で撮ったカルタ写真、官舎の畳が懐かしい!)
    
 小野神社境内には、小野小町の塔もありました。どんな由緒かはわかりません。
    
 小野神社から梅雨前の暑い道を歩くと(家内にも付き合ってもらいました)、よく似た造りの小野道風神社にたどり着きました。
小野道風(トウフウ)(894~967)も篁の2代後になりますので、妹子から数えると道風は7代後、妹子の仍孫(ジョウソン)(孫の孫の孫の子)になります。
この本殿も、旧国宝の今重文でした。
    
 字の上手な三筆は、空海・嵯峨天皇・橘逸勢(タチバナノハヤナリ)、三蹟は、藤原佐理(スケマサ)・藤原行成(ユキナリ)とこの小野道風です。(昔から何回憶えても覚えきれませんでした)
 花札の「柳に小野道風」の絵柄でも有名ですので、鳥居横にはこんな池もありました。
暑い中いくら待っても、蛙は柳に飛びつけませんでしたので、行動しなければなんの結果もかち得ないということを知りました。
   
 小野家は、菓子の免許を与えることを許された家でもあったので、小野家は日本の華道・菓道両方の創生発展に寄与していたようです。
 帰り道、琵琶湖大橋のちょっと有名らしい店でランチしましたが、小野家の墓参りをしたおかげか、そのデザートは豪華で美味しかったですよ。

     返事
花水木さん:池坊はごたごたしていて、
    京都でも人気はもひとつのようです。
     珍しい名前と言えば、奈留島にいた大学柔道第3位になった
    熊埜御堂未来(クマノミドウミライ)さん、もうせっかくの苗字も変わってますかね。

コメント (1)
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小野妹子1

2018-06-27 | 天皇陵巡り番外
  
 推古天皇の時代607年、第2回(第1回は600年か?)遣隋使として派遣され、隋の煬帝(ヨウダイ)(在位604~618年)の返書を帰路になくしてしまったされる小野妹子(オノノイモコ)、日本史でも学んだ有名な人物ですよね。
 その時聖徳太子が書いたと言われる煬帝を怒らせた国書「日出処の天子、日没する処の天子に致す・・・・」の話も有名です。
   
 その小野妹子の墓と伝えられているのは、聖徳太子や推古天皇の眠る大阪府太子町磯長の科長神社(シナガジンジャ)の横にありました。
写真は科長神社の鳥居、撮影立ち位置が小野妹子墓の階段下です。
    
 階段を上って行くと、丸く石の柵に囲まれた円形の墓がありました。
    
 中までも入れますが、中央は小山だけの円墳のようです。
まずまずきれいに整備されているのは、華道家元の池坊が管理されているからのようです。
    
 何故池坊管理かと言うと、587年聖徳太子建立の京都六角堂の初代住職(専坊)となった妹子が、隋で学んだ仏前に花を供えるという行為を六角堂でも続けていたので、「華道の祖」となったようです。
京都のへそ石で有名な烏丸六角にある西国第18番札所六角堂の、この正面写真の奥のビルが池坊のビルです。
   
 小野家は一応第30代敏達天皇から続く家系で、数々の有名人を輩出しています。
NHK大河「おんな城主直虎」で高橋一生が演じて名を上げた小野政次も小野家の子孫で、現在も小野家の子孫はいるようです。
 先ずは、私はこれまで全く知らなかった妹子の息子小野毛人(オノノエミシ)から。
小野毛人の墓は京都から八瀬大原を通る鯖街道の始まり、八瀬まで行く手前の崇道神社の奥に何故かありました。
    
 677年に没したとされる小野毛人の墓が、その頃はまだ未開の地であった京都の比叡山の麓の山中にある理由はわかりませんが、今年の冬に飛鳥資料館で見た国宝(コピーですが)小野毛人墓誌が出てますので、まあ毛人の墓でしょう。
    
 崇道神社から山道を登ってたどり着いた小野毛人墓は、なんとなく父の小野妹子墓をこじんまりとしたようで似ていました。
   
 
 途中にはこんな警告書が貼られていて、この切株も熊がむしったようで、山の中ですが自宅から歩いて行けなくはない場所で、これはちょっと浮ゥったです。
大声で歌を歌いながら、急いで降りてきました。

    返事
花水木さん:夾纈(キョウケチ)、三大染色法の一つです。
     途絶えていたこの染色法を友人が再現しました。

コメント (1)
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伊賀の創工会展

2018-06-24 | 趣味
   
 近鉄のようで近鉄でない伊賀鉄道の上野市駅前、昨秋もここに来ていますので、駅前の芭蕉像後ろ姿のみ。
芭蕉なんてお爺さんの代名詞のようにも思っていましたが、私は芭蕉より20年も長生きしてしまいました。
 伊賀上野、芭蕉の生誕地ですし、上野城や荒木又右エ門の鍵屋の辻の決斗でも有名ですが、今回は第30回記念工券?p創工会展㏌伊賀2018が開かれていたので行ってきました。
    
 伊勢津藩第10代藩主藤堂高兌(トウドウタカサワ)の建てた藩校の崇廣堂(スウコウドウ)が、4カ所ある会場の主会場になっています。
いつもは入館料がいるのに、今回は展覧会があるのに無料でした。
  
 広い講堂にも2点だけ展示されていて、土曜日にはジャズの演奏会もあるようです。
友人の京都新聞社賞を獲った夾纈の作品もありました。
  
 質素な造りですが殿様の控室になってた部屋には、創工会の一番偉い人たちの作品が並べられていました。
一番高いのは600万円の値が付いていましたが、監視人が誰もいないのがちょっと心配になりました。
   
 作品の花器には伊賀の華道家が花をいけていました。
特に華道をしてない家内の意見ですが、伊賀上野のお花のレベルは高いと、申しておりました?。
    
 次の会場武家屋敷赤井家住宅までは、歩いて15分ほど。
庭にも作品が並べられています。
   
 ここには小さな喫茶スペースもあって、この抹茶セット300円と、京都に比べたらかなり安い。
ついでに、伊賀上野の案内人や駐車場の番人さんは、皆優しく穏やかです。
それに比べて京都の人は、なんであんなに上から目線なんですかね、京都の観光名所で道を聞いたりした時の応答に、ムッととすること多いですよ。
    
 三つ目の会場まで歩いて5分、以前は料理旅館だった栄楽館、部屋の細かい細工が楽しい。
   
 作品には全て値段がついているので、ついつい値段をみてしまいます。
最高額の100分の一にも満たないが1000分の一よりは高い作品を、記念に一つ買いました。
もう一つ買うのを家内は迷っていましたが、帰ってからは買えば良かったと。
    
 最後四つ目の武家屋敷入交家住宅(イリマジリ)はすぐそこ。
    
 どこの家も古いガラスが残ってるので、波打って庭が綺麗に見えます。
美術館で観るより、うまく作品が家に溶け込んで、いけてある花も作品をより良く見せて、遠くまで来たかいのある展覧会でした。
      
 もちろん昼は、柔らかい伊賀牛を堪能して、帰りはやっぱり天皇陵巡りの一つ、和束墓にも寄って帰りました。

    返事
花水木さん1:地震など天災の時は、
    せめて知ってるとこにいたいです。
花水木さん2:孫の小学校の運動会見に行ったら、
    なんと今どきのコースはセパレートになっていました。
    私の狭い運動場での徒歩競走では、
    1コーナーにトップで入らないと、先ず勝てませんでしたのに。

    

コメント (1)
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ごちそう

2018-06-20 | ノンジャンル
    
 私の育った家からも近い明倫小学校、私の通った龍池小学校に通学するのとほとんど同じくらいの距離にあったのですが、両小学校共に今は廃校になっています。
四条烏丸に近い旧明倫小学校は京都件pセンターなっていますが、その隣の染の展覧会に行ったついでに寄ってみました。
当時私の龍池小学校の校庭も、800人ぐらいの児童が遊ぶには狭すぎましたが、明倫小学校の校庭はこの様にそれよりも狭い。
運動会は大変でしたでしょうね。
    
 この辺り、烏丸四条より西北は呉服屋さんの室町問屋街でしたが、今は町家を改築したような料理店が増えています。
その一軒で友達夫婦とちょっと贅沢なランチ。
綺麗な手の込んだ前菜から始まりました。
     
 最後のデザートまで、しょうもないことをしゃべりながらゆっくり出来ました。
    
 次の日は、銀閣寺近くの日本料理店で、また違う友達夫婦とランチにしては豪勢な昼会席。
料理の写真は撮ろうと思いながら、遠慮したりして忘れてしまいます。
   
 鮎や鱧など初夏の料理の後は、冷やし飴を固めて笹の葉で包んだお菓子で終了。
 50~60年以上昔からの知り合いとしゃべるのが、一番心が解放されますので、それが一番のご馳走ですよね。

     返事
花水木さん1:女子大生がグランドを使ってる時は、
    いやらしい老人と思われないよう、
    2階からはなるべく見ないようにしています。
     島にいる時は、
    小学生から高校生まで、子供の顔を見るのが嬉しかったですが、
    京都では、
    団体児童や生徒を見ると、ちょっと感じ方が違います。
花水木さん2:通勤の地下鉄、
    丁度駅に停まった時にぐらっときました。
    降りて2駅歩いただけの被害ですみました。
     そちらに東海地震が起こった時の方が心配です。
前回のじょんのび村長さん:西宮古墳のは、
    あとから村人などが穿った本物の盃状穴だと思いますよ。

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ベンチ

2018-06-16 | ノンジャンル
  
 家の2階からは、眼下に女子大のグランドが見えます。
ほとんど女子大生は見当たらず、コートを借りてテニスをする男女老人か、他校の大学のアメフト部やラクロス部が練習してる姿を見るぐらいです。
  
 或る日、ベンチがグランド傍にぽつんと置かれていました。
私の少ない件p心が刺激され、2階から写真を撮ってみましたが、なかなか難しい!
単なる何でもない写真になってしまいましたが、天皇陵巡りの陵印や拝所の写真よりは、花水木さんも喜んでもらえるかも・・・・。

     返事
花水木さん:天皇陵巡りの最初に陵印を出すのはやめます。
     そろそろ日本史で学ぶ時代に入るので、知ってる名前が出てくると思います。

コメント (2)
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