第45代聖武天皇と藤原不比等の娘光明子との間に産まれた第1皇女阿部内親王(アベナイシンノウ)は、同母弟の基王が1歳にならずして死んでしまったので、藤原一族の後押しで、女性としては異例の皇太子になりました。
そして、父の聖武天皇が譲位したため、第46代孝謙天皇(コウケン)(718~770)(在位749~758)は平城京で6人目の女性天皇として即位しました。
この陵はなんとなく平坦な感じのする陵でした。
749年の即位にあたって、先の元号である天平感宝をわずか3ヶ月で改元し、天平勝宝としました。
あと3日で、232個目(北朝分も含めると248個目)の年号が令和になります。
元号は645年の大化から今まで231個(北朝含めると247個)有るので、1400年弱の間に90代ぐらいの天皇がいたことから、1代の天皇平均三つ弱の年号を持っていたことになります。
新しい年号令和はもちろん、ほとんどの年号は2文字の漢字でしたが、この聖武~称徳の20年間の間だけ、4字の元号がいつつ有りました。
天平感宝(テンピョウカンャE) 744年~
天平勝宝(テンピョウショウホウ)749年~
天平宝字(テンピョウホウジ) 757年~
天平神護(テンピョウジンゴ) 765年~
神護景雲(ジンゴケイウン) 767年~ の5です。
新元号も、いっそのこと4字熟語のような元号にしたら良かったのに。
孝謙天皇の主な仕事は、聖武太上天皇・光明皇太后と共に、752年大仏開眼供養会を執り行ったことです。
その2ヶ月後には、有名な唐僧鑑真を戒師にして仏門に下り、名を法基(ホウキ)としました。
しかし孝謙朝の政治は、病弱な聖武太上天皇ではなく、母の光明皇太后と母の兄になる藤原仲麻呂(恵美押勝エミノオシカツ)に依って為されました。
新たな皇太子も仲麻呂の家で育っていた天武天皇の孫大炊王(オオイオウ)が選ばれ、ますますの藤原一族の台頭と共に、前回の橘諸兄一族の衰退につながりました。
天平宝字2年(758年)、孝謙天皇は大炊王に譲位し太上天皇に成りましたが、その後重祚(チョウソ)して再び称徳天皇に成りましたので、この陵の制札には孝謙の名はなく、陵印にも孝謙ではなく称徳天皇高野陵(タカノノミササギ)(奈良市山陵町)と彫られているだけです。
しかし、陵の前の信号灯には、不思議にも孝謙天皇陵前Kokentennoryomaeと書かれていました。
返事
花水木さん:私も高校の同級生にあつ子さんいました。
そのお父さんに英語を習っていて、一緒に勉強もしていました。
あつ子さんはイギリス人と結婚し、今は離婚したみたいです。
会ってみたい同級生です。
我が家は、私が1~2時間早く寝てます。
大雪男さん:広島は交流戦終わった頃には首位でしょう。
阪神は借金10ぐらいまででオールスター戦を迎えてほしいです。
巨人のことは考えたくもないです。