島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

大原街道11.

2024-05-31 | 京都へ、京都から

 地図はやはり「京へと続く街道あるき」からの無断借用です。

この地図の左端ぐらいが、今の我が家。

1・2・3・4の番号順に、大原街道(若桜街道)を進みます。

 1.大原街道が北山通を横切る角にある双鳩堂(ソウキュウドウ)さん、島に行く前ぐらいまでは古い店構えだったのですが、最近新しく建て替えられていました。

古いと言っても明治13年創業ですので、江戸時代の大原街道には無かったお店です。

 名物はこの「鳩もち」、これから行く三宅八幡のお使い鳩をかたどったお菓子で、以前私のブログ「菓子たくさん」でも紹介済みです。

 北山通を越えてすぐの三叉路の少し先に、東赤山道 の道標を見つけました。

明治17年建立、6丁(650ⅿ)東に行ったら、平安京の鬼門を守る、紅葉が綺麗な赤山禅院に至ります。

 2.先の三叉路を左にとって、再び川端通りに合流した大原街道、そこに平八茶屋が有ります。

創業天正年間ですから、安土桃山時代からの歴史がある茶屋ですし、江戸時代は前述の十一屋と2軒の茶屋が、大原街道沿いで競ってたのでしょうね。

 平八茶屋、今は宿泊もできますし、かま風呂も有ります。

40年ほど前に、同級生で続けてる麻雀新年会でも利用しましたし、最近はここの出前の弁当を頼みましたが、綺麗な弁当で美味しかったです。

 今回はこれでおしまい、阪神ちょっと心配になってきたので力が出ません。

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大原街道10.

2024-05-29 | 京都へ、京都から

 地図赤線の大原街道(若桜街道)に沿って、明治末までは無かった琵琶湖疏水支線をまたいで北上します、

 琵琶湖疏水支線を越えると、そこにもう賀茂波爾神社(カモハニジンジャ)(赤の宮神社)です。

下鴨神社の境外摂社で、波爾は高野川がかって埴川(ハニガワ)と呼ばれていたことに由来するとも言われていますし、江戸時代には赤宮稲荷大明神と呼ばれ、稲荷社ともされていて、鳥居が朱塗りにされていたので、赤の宮と呼ばれていたこともあったようです。

 境内には波爾井(ハニイ)清水と呼ばれる御神水があって、今もこの湧き水は豊富な水量が有ります。

 さらにもう少し街道を進み、曼殊院道と交差する角に、明治25年建立の「比叡山無動寺大弁財天道六十八丁」の大きな道標が立っています。

ここから曼殊院を通って雲母坂(キララザカ)を上り比叡山の上まで68丁(約7㎞)の山道を、この頃は結構お参りする人が多かったようです。

 上記の地図に青〇をつけた、十一屋が有りました。

寛永年間創業のナマズ料理専門店です。

私も友人夫婦と40年ぐらい前に食事をしたことが有りますが、ナマズ料理がどんなだったかの記憶が全く残っていません。

もう一度と思いつつも、2006年に十一屋は廃業されて、この塀だけ残してマンションになっていましたし、一緒に行った友人夫婦も二人共亡くなってしまいました。

 私も長く生きたものです。

 向かいにはまだ母屋だけが残されていましたが、雨戸も閉まっていました。

この辺りは前原誠司さんの地盤です。

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大原街道9.

2024-05-22 | 京都へ、京都から

 「そすいさんぽ」の地図を借用。左の川が賀茂川、右の川が高野川です。

赤線に沿って疏水は流れています。

青点線が今歩いてる大原街道、左の青線が前回の鞍馬街道になります。

 そして今丁度、琵琶湖疏水の疏水分線である白川疏水道の青〇印にいることになります。

 その青〇に立って東を向いての写真です。

明治以降の大原街道は、疎水分線をまたぐことになり、疎水の水は東(画面奥)から西へ流れています。

 ここからもう少し西に流れた分水は、高野川の下をサイフォンの原理で越えて、松ヶ崎浄水場に琵琶湖の水を送ってましたが、現在は高野川の下を流れる水路は無くなって、直接この水は高野川に流れてしまうそうです。

 したがって、高野川の西にある松ヶ崎浄水場には、今は琵琶湖の水は到達してないので、琵琶湖疏水分線は今ではここで終了です。

  =琵琶湖疏水分線=

滋賀県にある日本一の琵琶湖の水面の海抜は90ⅿ前後らしく、そこから南禅寺にあるインクラインまで約10㎞(第1疏水は20㎞)を、琵琶湖の水は疏水を通って流れてくるのですが、有名な水路閣のある南禅寺の海抜は60ⅿぐらい、水路閣の高さ13ⅿを足して70数ⅿです。

このわずか20ⅿぐらいの傾斜を保持して水を流すのですから、明治末の日本の土木測量技術もすごいですね。

本線はここから急流を下り、蹴上で水力発電に利用されたり水道水に使われたり、インクラインで船は南禅寺船溜まりから鴨東運河に降ろされ、京都・伏見・大阪へ荷物は船で運ばれました。

 さらにここから疏水分線(7.4km今は3.3㎞)が作られて、上水道や農業水としての機能が強化されました。

疏水分線は地図の写真のごとく、東山の山すそに沿って、不思議にも南から北へと引力に逆らうように流れ、哲学の道を流れて、大原街道を横切るここに至っています。

更に高野川をくぐって松ヶ崎浄水場の海抜70ⅿぐらいまで、水路閣から数mの高低差を流れているようなので、不思議と言うか技術力ですね。

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大原街道8.

2024-05-19 | 京都へ、京都から

 写真の地図は、また竹内康之さんの「京へと続く街道あるき」からの無断借用です。

下方の出町柳から赤→とは逆に、やや高野川から離れるように大原通に沿って北上します。

 1908(明治41)年に竣工した鐘ヶ淵紡績(鐘紡)京都工場の跡地が、大原通が北大路に達する前に見えてきました。

赤レンガの建物の一部が残されて、公園になっています。

 1975年に閉鎖された工場跡は、1978(昭和53)年に、川崎清さん設計の公団東大路高野住宅として生まれ変わりました。

工場があったことは知りませんが、公団が出来たのは、私たちが松ヶ崎に引っ越してきた頃なので、憶えています。

 今では日本に沢山の外資系ホテルが有りすぎるぐらいですが、日本初のホリデイインがこの高野川沿いに出来たのは、1973(昭和49)年私が働きだした年です。

泊ったことは有りませんが、併設されたボーリング場の京都スターレーン・スケート場の高野アリーナは子供たちと使ったことあります。

 今そこは、島に行く前には「カナート」と言う商業施設になりましたが、島から帰ってしばらくすると、より近代的な「洛北阪急スクエア」と言う商業施設に鞍替えしていて、近場の買い物場所として利用していました。

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大原街道7.

2024-05-04 | 京都へ、京都から

 ゴールデンウイークはなんということなく過ぎて行ってます。

ブログはいよいよ地図青点線大原街道を行きますが、文字通り大原通を行きます。

 大原口から賀茂川に架かる出町橋を渡り鴨川デルタも散策した後、高野川に架かる河合橋を渡ります。

川が合流する所にある橋だから河合橋か、なるほどと一人納得してましたが、近くにある下鴨神社の摂社河合神社から付けられたようでした。

 河合橋、大正7年(1918)に建築家武田五一設計の立派な橋です。

最近拡張整備されて、京阪出町柳駅から下鴨神社へ行く観光客が歩きやすくなりました。

 河合橋を渡ると、京阪電車・叡山電車の出町柳駅です。

 高野川左岸に沿って北上するとすぐ、京都府下鴨警察署です。

最初の免許更新は、まだここで出来たような気がします。

 御蔭橋(ミカゲバシ)の通りを右折し、すぐに左折して、何となく昔の道のような感じの大原通を北上します。

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