島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

6月は変わるのかな?

2020-05-31 | ノンジャンル
 
 5月終わりますが、まだアベノマスクも給付金申請書も我が家には届いていません。
緊急事態宣言は解除されたので、6月からの出勤の許可が出た病院もありますし、麻雀も出来そうですが、なまった体になったので、仕事増えるの心配ですし、遊びに行く習慣までなくなってきそうです。
 まあそれでも海を見に、少し他府県に入りましたが、週末はドライブしました。
 
 途中の道の駅の食堂も開いていましたが、座席は向かい合わず、1席づつ離れて座ります。
海鮮ラーメンは、離れていても美味しかったです。
 
 岸壁の母で有名な、舞鶴引揚記念館(400円)にも初めて行きました。
ソ連や満州からの引揚は、昭和33年まで続いていたようで、もう10歳になっていたのに、私には記憶がありません。
 私の父も南洋のブーゲンビルで終戦を迎え、捕虜になっていたようですが、1歳上の姉が昭和22年生まれなので、終戦後1年以内には日本に帰還してるはずです。
 
 第87回日本ダービーは無観客試合で、平原綾香さんの国家独唱も武豊の騎手挨拶も、無人のスタンド前でした。
 1着単勝1.4倍の5番コントレイル・2着2番人気の12番サリオスで固かったですが、写真左端で粘ってくれた10番人気の池添騎手の6番ヴェルトライゼンデが3着に滑り込みました。
私はだいたい池添さんを買ってるので、今回は5番・6番の軸2頭流しで6通り買いましたので、買った中では一番安いですが、5・6・12の三連複を久しぶりに獲りました。
 流した中でブービー人気の7番ブラックホークも買っていて、5・6・7のコ・ロ・ナなら今年にぴったりで、大金持ちに成れるはずでしたが、それは無理。
でも、5番6番とサリオスが入ったので、5・6(7)・サリオス→コ・ロ(ナ)去り(オス)で、今日も全部の収支はマイナスですが、まあ満足ですかね。


      返事
花水木さん:最近のキラキラネームも読めませんが、
    昔の名前も読めませんし、変換しにくいですし、
    覚えられないので、何回も読みを書いています。

コメント (3)
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63-5冷泉天皇皇子敦道親王

2020-05-29 | 天皇陵巡り
 
 第63代冷泉天皇が譲位した後ですが、第4皇子として生まれたのが敦道親王(アツミチシンノウ)(981~1007)です。
母は藤原兼家の娘超子なので、第67代三条天皇の同母弟になりますし、第65代花山天皇の異母弟でもあります。
 
 敦道親王の最初の妃は、母超子の同母兄関白道隆(953~995)の三女でしたが、道隆の死後は別れています。
その後藤原忠平の五男師尹(モロタカ)の次男藤原済時(ナリトキ)(941~995)の娘(兄の三条天皇皇后娍子(セイシ)の妹)が、正妃になりました。
 宇治陵はこの総拝所以外に36号の陵があるためか、宮内庁書陵部 桃山陵墓監区 宇治部事務所の小屋もあり、常駐されているようです。
 
 同母兄である為尊親王(タメタカ)(977~1002)の死後約1年で、死んだ兄の恋人だった和泉式部と恋愛関係になったので、その正妃も怒って離婚されています。
 やや軽薄な正確だったようですが、外祖父兼家には愛されたようで、若くして亡くなりましたが、その為かこの宇治陵に葬られ、制札最後から2番目に冷泉天皇皇子敦道親王墓と記されていました。
 
 和泉式部との間に男の子を一人もうけていますが、こちらも恋多き女性和泉式部、他の父親(橘道貞(タチバナノミチサダ))との間の娘、とんちで勝ったこの歌の小式部内侍の方が有名ですね。

コメント (1)
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63-4冷泉天皇女御贈皇太后超子

2020-05-27 | 天皇陵巡り
 
 藤原師輔(モロスケ)の三男兼家(929~990)は藤原道綱母(936?~995)との間に、当たり前ですが次男道綱(955~1020)をもうけています。
小倉百人一首では、右大将道綱母で、日本三大美人の一人です。
 
 藤原兼家は正室としては、藤原中正(ナカマサ)の娘藤原時姫(トキヒメ)(~980)との間に、長男道隆(ミチタカ)(953~995)・三男道兼(ミチカネ)(961~995)・五男道長(966~1028)をもうけたほか、天皇に嫁いだ超子・詮子(センシ)(962~1002)も産まれています。
 長男道隆に嫁いだ高階貴子(タカシナタカコ)(~996)は伊周(コレチカ)(974~1010)や一条天皇の皇后になった定子(テイシ)(977~1001)等三男四女を産み、息子伊周の役職をとって、小倉百人一首では儀同三司母と名乗って、右大将道綱母の次54番目にあがってます。
 
 長い前振りになりましたが、この兼家と時姫の長女が超子(チョウシ・トオコ)(954?~982)です。
 968年に第63代冷泉天皇(950~1011)(在位967~969)の後宮に入り女御になりましたが、子供が産まれたのは冷泉天皇が譲位してからです。
 
 超子は3歳で死んだ内親王を産んだ後に、居貞親王(オキサダ)(976~1017)(後の三条天皇)を産み、その後も為尊親王(タメタカ)(977~1002)・敦道親王(アツミチ)(981~1007)を産みました。
 
 30歳にならずして、徹夜の行事の明け方に、脇息に寄りかかったまま亡くなりました。
亡くなってからですが、息子居貞親王が第67代三条天皇になったので、制札9番目に三条天皇御母贈皇太后超子と書かれてる宇治陵に葬られています。

       返事
花水木さん:五島弁で一番有名なのが
     =みじょか=です。
      整形顔がくずれはじめると、浮「ですね。
toitenlabeeさん:実は宇治陵の写真は
    1年前の今頃です。

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63-3冷泉天皇女御贈皇太后懐子

2020-05-25 | 天皇陵巡り
 
 第62代村上天皇皇后安子の兄藤原伊尹(コレタダ・コレマサ)(924~972)を父に、第60代醍醐天皇第3皇子代明親王(ヨシアキラ)の娘恵子女王(ケイシ)(925~975)を母に持つのが、今回の藤原懐子(フジワラノカイシ・チカコ)(945~992)です。
 父伊尹は「後撰和歌集」の編纂に関与し、死後は謙徳公をおくられ、小倉百人一首にも選ばれています。
 
 又懐子の同母弟に藤原挙賢(タカカタ)・義孝(ヨシタカ)(双子かも?)兄弟もいますが、二人とも美男子だったようですが、21歳で朝に兄挙賢が、夕に義孝が天然痘で死んでいます。
また義孝の息子(懐子の甥になります)に三蹟の一人藤原行成(ユキナリ・コウゼイ)がいます。
 義孝の歌は小倉百人一首の50番目の歌ですが、絵札の顔はそれほどのイケメンでもなさそうでした。
 
 懐子は憲平親王に入内し、内親王二人を産んだ後に、その憲平親王が第63代冷泉天皇(在位967~969)になったので、更衣・女御になり、968年第1皇子師貞親王(モロサダ)(968~1008)(後の花山天皇)を産んでいます。
 
 我が子が天皇になったのを知らずに、懐子は30歳で亡くなって、この宇治陵のどこかに葬られたようですが、総拝所の制札6番目に、冷泉天皇女御ではなく、花山天皇御母贈皇太后懐子と書いてありました。

       返事
和さん:ビッツンナカの言葉の中に、
    なかなかブスは想像できませんでした。
     桜・新緑共に、今年は近場ばかりで終わりました。
    もう宝ヶ池周辺も暑くなってきてます。
大雪男さん:ビッツミジョカって良いですが、
    例に挙げた人が・・・・。
    中学時代に、同級生に弘田三枝子ファンがいましたが、
    子供心にも、なんでやねんと思っていました。
     私は山ではなく、6月からは麻雀できそうです。
    旧知の人(私の場合は60年以上の旧知)と
    高くないレート(レート下がってます)なら、
    賭け麻雀は罪になりませんと、法務省も答弁してくれたので、
    安心して出来るようになりました。

    
コメント (2)
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63-2冷泉天皇皇后昌子内親王

2020-05-22 | 天皇陵巡り
 
 京都市左京区岩倉には、最近は「床もみじ」「床みどり」でよけい有名になった岩倉実相院があります。
 
 私はこの近くの病院の入院患者のちょっとした外科処置を頼まれて、週2回ほど仕事をさせてもらっています。(新型コロナでこの1ヶ月は、出勤停止中ですが)
近くの関連施設からも時々呼ばれて、この磐座神社(イワクラジンジャ)の左側の石段を登って行ってます。
 
 この施設の3階から、畏れ多くも御陵が見下ろせます。
秋の紅葉はなかなかのものです。
 
 第61代朱雀天皇が譲位した4年後、姪でもある女御の煕子女王(キシ)(朱雀の兄保明親王の娘)に産ませた唯一の娘が、この御陵の主 昌子内親王(マサコナイシンノウ)(950~1000)です。
 
 母の煕子女王は出産で亡くなり、父朱雀上皇も亡くなったので、昌子内親王は叔父第62代村上天皇の手厚い庇護の下に育ちました。
 季節は変わっても、やはり施設から見下ろした写真です。
 
 14歳同士で、叔父村上天皇の皇太子憲平親王(ノリヒラ)(950~1011)に入内しましたが、子供には恵まれませんでした。
憲平親王が第63代冷泉天皇となり、昌子内親王は皇后になりましたが、男子を産んだ藤原家の他の女御、懐子(カイシ)・超子(チョウシ)に遠慮して、内親王ではありましたがつつましく過ごされたそうです。(奇行の多い夫冷泉天皇を避けた説もあります)
 
 和泉式部は昌子内親王に仕えていたと言われてますが、有名なのは紫式部と一緒に彰子(ショウシ)に仕えていた方ですよね。
 
 御陵近くにある看板ですが、昌子内親王は仏教を篤く信仰し、ここ岩倉に観音院・大雲寺を創建されたので、この寺に土葬されたようです。
岩倉陵(イワクラノミササギ)(左京区岩倉)は観音院跡に、明治17年に治定されたものです。

       返事
花水木さん:人を見たら感染者だと思え、
    っていう世界は嫌ですね。
    これでは当分祭りやスメ[ツはダメですね。
大雪男さん:人と人とが接触しない、
    以外の方法で、新型コロナと共存したいですね。
和さん:ビッツンナカの意味は判りません。
     シフォンさんやコーヒーブレイクさんの五島の写真には、
    私もいつも癒されています。

コメント (2)
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