島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

12月の思い出

2017-12-27 | ノンジャンル
   
 いよいよ今年も終わりですが、12月初旬に下鴨神社に行った時は、まだ最後の紅葉があってまだ秋だったのに、もう初雪も積もり、今は雪も舞ってますので冬ですね。
下鴨神社へは孫の習字が境内に貼ってある(地元の子供なら誰でも、上手下手は問いません)ので、見に行ったのです。
何故か、幼稚園児の孫は「ほしのカービィ」と、小二の孫は「力づよく生きる」と書いていました。
    
帰り道にぶらっと入ったフランス料理店のランチ、前菜と鹿ケ谷カボチャのャ^ージュに続いて出てきたのが、この63種類の野菜・花・野草のサラダ、直径20㎝以上あって綺麗なのにびっくり、ここまででちょっと腹も大きくなりました。
  
 メインは牛肉の赤ワインソースで、その後デザートのカシスモンブランのケーキが出た後、コーヒーにも写真上方の小菓子が付いて来ました。
苦しくなってきたのと同時に、ランチにしてはちょっと高い店に入りすぎたかと思ったのですが、会計の家内から聞いた値段は、ホッと胸をなでおろす金額で、良かった!また行けると思っていたら、数日後のTVでこの店紹介されていました。
  
 神戸に買い物に行った日は、久しぶりの元町で、観音屋の名物チーズケーキを家内は食べましたが、私はこのコーヒーゼリー様パフェです。
   
 天皇陵巡りは阪急電車で、高槻から富田へは普通電車に乗り換えて行きました。
昼の普通電車の先頭車両の乗客は私一人、運転手さんは銀河鉄道999のメーテルさんみたいでした。
  
 降りた摂津富田は、さすがに北大阪でした。
有料の駅前自転車置き場「チャリンコの家」は、1階は150円・2階は100円って、なんか納得できた、さすが大阪!
    
 またある日、よく行くスーパ近くの若々しい店で、軽いランチの大きな玉子サンド。
私は玉子サンド好きですが、やっぱり昔風のゆで卵をつぶしたような玉子サンドの方が好みです。
   
 またある日、友達が日展作家なので(最近は別の友達の奥さんまで、日展作家になりました)、日展初日にも出かけました。
今年は京都市立美術館が改装中なので、会場は近くの「みやこめっせ」と「京都市美術館別館」で開催されていますが、さすがに狭い。
   
 南座も耐震工事中なので、今年の顔見世興行はロームシアターであります。
京都の師走風景まねきも、ロームシアター前にちょっと不自然にあがっていました。
  12月も残り数日、仕事は明日1日だけになりました、さすがに観光客も減ってきたので、京都観光でもしますかね。

     返事
花水木さん:「神代の昔から、一番性質の悪いのは人間」、
    なかなか素晴らしいお言葉ですね。

コメント (2)
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25≠P武烈天皇

2017-12-24 | 天皇陵巡り
  
 古事記の武烈の記述はかなり少ないです。
第24代仁賢天皇が、第21代雄略天皇の娘の春日大郎女を妻として産ませた、小長谷若雀命(ヲハツセワカサザキノミコト)が大和の長谷(ハツセ)に列木宮(ナミキノミヤ)(奈良県桜井市)を造って、そこで第25代武烈天皇(ブレツ)として天下を治めました。
   
 しかし、日嗣の御子がいなかったので、応神天皇の5世の孫の袁本杼命(ヲホドノミコト)を近淡海(チカツオウミ)から呼んで、仁賢天皇皇女の手白香皇女(タシラカミノミコト)と結婚させ、次の天皇にしたと書いてあるだけでした。
 志都美神社(シズミジンジャ)に車を停めて、陵に沿って回り、拝所を探しました。
   
  
 でも、日本書紀では天皇になってからの武烈は、妊婦の腹を裂いて胎児を見る、生爪を剥がしてから芋掘りをさせる、樋から人を流して下で待ち受け矛で刺す、髪を抜いて木に登らせその木を切り唐キ、木に登らせて汲ナ射落とす、女と馬を交わらせる、と悪行の限りを尽くしたように書いてあります。
 刈り入れまじかの秋の田と御陵の間の細い道を通って廻っていきます。
  
 こんなおぞましい悪行を先祖がしたのだと書くのは恥ずかしいと思うのですが、これは第16代仁徳天皇と言う聖帝の良き政治が、第25代武烈天皇の悪逆無道の天皇で断絶したという、中国の王朝交代思想の影響らしいです。
日本書紀が書かれた頃の人は、万世一系とは思っていず、その時の天皇と武烈以前とははっきり繋がっていないと思っていたので、こんな悪人に書いたのではないでしょうか。
 こうして仁徳天皇から続いた家系は、その子允恭天皇の家系も、履中天皇からの家系も途絶えてしまい、仁徳天皇直系の男子は滅びたので、仁徳の父である第15代応神天皇まで遡って繋げるしか道は無くなったのです。
 最後は入ってはいけないような所を通り抜けて、拝所に出てきましたが、拝所捜しは一番遠回りしたようです。
  
 武烈天皇は在位9年、18歳で(57歳・61歳説もあり)亡くなり、この傍丘磐坏丘北陵(カタオカノイワツキノオカノキタノミササギ)(奈良県香芝)に葬られました。
  制札も新しく、砂利もきちっと曹ゥれている陵でしたが、最後私はその砂利の曹ォ目を荒らしながら前方に出てきました。
   
 ここは宮内庁管理の常駐する職員のいる御陵だったので、数名の人が働いていました。
中から出てきたのが見つかったら怒られるところでしたが、危うくセーフ。
  今年もあと1週間! 
   今日はこれから高校駅伝観て、有馬で儲けて、年賀状を書きあげます!

    返事
花水木さん:古事記の時代が終わったら、
    長いカタカナ名が無くなるので、まだ読みやすくなると思います。
      よろしく

コメント (1)
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24≠P仁賢天皇

2017-12-20 | 天皇陵巡り
  
 弟の顕宗天皇が亡くなった後、その兄であるオケノキミは大和の石上(イソノカミ)に広高宮(ヒロタカノミヤ)(奈良県天理市)を造って、そこで天下を治め第24代仁賢天皇(ニンケン)になりました。
  
 古事記はこの第24代から最後の第32代推古天皇までは、短い文で子供や陵のことを記述するだけで、間違いもありますし、そろそろ日本書紀も編集されはじめたので、詳しい話はそれにゆだねるのか、もう稗田阿礼(ヒエダノアレ)も太安万侶(オオノヤスマロ)も疲れてきたのか、尻すぼみになっています。
 天皇陵の駐車場は、無断駐車が多くなってきたのか、ほとんどがこの様に鎖で閉鎖されているところが多くなっています。
車はもう少し向こうの広い所に停めて、なにもない駐車場から仁賢天皇陵の参道を見てる写真です。
   
 仁賢天皇は父の仇でもある第21代雄略天皇の娘であるにもかかわらず、春日大郎女(カスガノオホイラツメ)を妻として、1.高木郎女(タカキノイラツメ)2.財郎女(タカラノイラツメ)3.久須毘郎女(クスビノイラツメ)4.手白髪郎女(タシラガノイラツメ)5.小長谷若雀命(ヲハツセノワカクサノミコト)6.真若王(マワカノミコ)を産ませ、糠若子郎女(ヌカノワカゴノイラツメ)を妻として、7.春日山田郎女(カスガノヤマダノイラツメ)を産ませ、計7人の御子がいたことになります。
このうち5.のヲハツセノワカクサノミコトが次の第25代武烈天皇になっています。
  陵道はアパートの間を縫って続きます。
    
 雑然とした畑と倉庫の間から拝所が見えてきました。
古事記では、その陵の名も書かれていません。
 日本書紀では、微妙に子供の名前も数も変わっていて、皇子は一人になっていますが、それでも3人の皇女が継体天皇系の皇后になって、かろうじて女系として仁徳系が未来に繋がっています。
   
 仁賢天皇は在位11年にして50歳で、宮があった奈良県から遠く離れたこの埴生坂本陵(ハニュウサカモトノミササギ)(大阪府藤井寺市)に葬られています。
  すぐ横には民家の壁もある拝所と陵ですが、周濠も残っていました。
    
 古市古墳群に属する陵墓も、残るは安閑天皇陵のみになりました。
半分都会で半分田舎のようなこの辺りは、どっちつかずでなかなか微妙な地域です。
  看板と書いて来ましたが、正しくは制札(セイサツ)と言うそうです。

   返事
花水木さん:拝所を撮らなければならないし、
    制札も入れて、陵印も一応並べると、皆がほぼ同じになりますね。
    変化を考えているのですが、花水木さんのリクエストに応えるには力量不足です。
    その中でなんとか工夫していきますので、見捨てないようにお願いします。

コメント (1)
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23≠P顕宗天皇

2017-12-15 | 天皇陵巡り
  
 さて、久しぶりの天皇陵巡りなので、少し前のブログを思い出して下さい。
第21代雄略天皇は、伯父である第17代履中天皇の息子、すなわち自分の従兄弟である市辺押磐皇子(イチノベノオシハオウジ)を射殺して、飼い葉桶につめて埋めてしまいましたね。
殺された市辺押磐皇子の子供二人、オケノキミとヲケノミコトはすぐに播磨の国に逃れて、馬飼・牛飼に身をやつして暮らしていました。
   
 播磨の長官だった小盾(ヲタテ)が新築の家の宴に招かれた時に、そこにいた少年二人が舞い踊って、自分たちが市辺押磐皇子の子供であることを告げました。
いわゆる貴種流離譚(キシュリュウリタン)の話は、ここから始まります。
   
 二人が見つかった時、古事記ではもう先代の第22代清寧天皇は死去していて、市辺押磐皇子の妹とも娘とも書かれている17≠R飯豊王が天下を治めていて、これを喜んだと書かれています。
また日本書紀では、清寧天皇は生きていて、喜んでこの二人を宮中に迎い入れたと書いてあります。
 その後二人は互いに譲り合った後に、兄は弟が積極的に名乗り出たから今があるのだと、弟に天下を治めるように言いました。
 こうして弟のヲケノイワスワケノミコトは、近飛鳥八釣宮(チカツアスカノヤツリノミヤ)(奈良県明日香村)を都として即位し、第23代顕宗天皇(ケンゾウ)となりましたが、子供はできませんでした。
   
 顕宗天皇は殺された父の遺骨を捜し当てて、滋賀県の蚊屋野(カヤノ)に共に殺された舎人との双墳の墓を作った話は、17≠Q(9月17日)で紹介しています。
 また父を殺した第21代雄略天皇を恨んで、その御陵を破壊しようとしましたが、兄に諭されて、その陵の片隅の土を少しだけ削るだけにしたそうです。
   
 顕宗天皇は在位8年、38歳で崩御し、傍丘磐坏丘南陵(カタオカノイワツキノオカノミナミノミササギ)(奈良県香芝町)に葬られました。
 この顕宗天皇陵は、交通量の多い国道168号線のすぐ横にありました。
近くの喫茶店に車と家内を置いて、少し歩いてこの陵に参拝しています。
 ということで、1ヵ月ぶりの天皇陵巡りに帰ってきましたが、また花水木さんに怒られそうな同じような写真になりましたよ。

   返事
花水木さん:高校修学旅行は夜行列車で鹿児島まで行きました。
    阿蘇がススキだらけだったこと、
    前に座った同級生のかわいい女子のスカートが、風で思い切りめくれ上がったこと、
    夜中の岡山駅ホームでかけっこをしたこと、
    ぐらいしか覚えていませんね。
大雪男さん:源五郎丸さんは一時滋賀県でスメ[ツ店をやっていた記憶があります。
    黒川温泉も外国人のぶらぶら歩きが多かったですよ。九州の観光地はどこもそうですね。
    久留米ラーメンではなく熊本ラーメンでったので、あっさりでした。
和さん:本日、茨木から高槻へ古墳巡りで歩きました。
    和のブログも3カ月空いてますよ!もう少し書いてください。

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九州へ4

2017-12-10 | 
  
 黒川温泉の宿は、狭い温泉街を通り抜けて行く、奥の方の小さな宿でしたが、部屋の窓から川向こうの、小さな共同浴場の穴湯を見下ろせました。
  
 混浴と言うことで、100円の入浴料を無人の料金箱に入れて、早速入りましたが、やっぱり誰も入っていませんでした。
熱い熱いお湯で、お湯の湧いている奥の湯舟には、熱い湯が嫌いではない私でも到底入れません。
手前側の湯舟に、なんとか体を動かさないようにして浸かりましたが、下の方からジワーと熱湯が湧き出てきます。
 宿の風呂も気持ち良く、さすがに黒川温泉は良い感じでした。
   
  
 九州最終日は阿蘇へ。
まずは外輪山の大観峰から、中岳などを見渡しました。
高校の修学旅行も合わせて、3回ほど阿蘇周辺に来ていますが、若い時はこんな雄大な景色にも、今ほど感激しなかったのか、記憶があまりありません。
  
 草千里では、馬には乗らず、レストランで馬刺しを食べました。
   
 阿蘇ロープウエイは、今も水蒸気爆発が続いているので、止まっていました。
5000円で遊覧ヘリコプターもありましたが、私には勇気もないので止めておきました。
  
 阿蘇開拓の神様が、収穫した米を積み上げて出来た米塚、そのてっぺんはすくって皆に分け与えたので、へこんでいます。
なんか福江島の鬼岳を思い出しました。
   
 阿蘇から空港への帰り道に、阿蘇で食べたチョコレートパッフェは、若い人経営のおしゃれな喫茶店で、本格的で美味しかったです。
 最後、熊本空港でのフライト待ちに、熊本ラーメンを食べて、九州旅行は無事終了です。

   返事
大雪男さん:よくご存知ですね!
    日田林工出の源五郎丸投手、阪神のドラフト1位でしたが、
    オープン戦で故障して、1軍では投げずに終わりましたよね。
    阪神育成は当時へたでしたね。
花水木さん:アニメの人集めは結構成功してますね。
    私も富山で藤子不二雄を、境港では鬼太郎を、熱心に観てますね。

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